COMMUNE 2002/7/01(No318 p48)

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7月号 (2002年7月1日発行)No318号

定価 315円(本体価格300円)


〈特集〉 有事立法3法案の全面的批判

□朝鮮侵略戦争の切迫に対応する武力行使法案
・米帝ブッシュの世界戦争戦略
・周辺事態へ自衛権発動を拡大
・戦争計画に重なる有事3法案
・新自衛隊法は防御陣地構築法
□資料/武力攻撃事態法案/自衛隊法改悪案(関連法令対照表付き)

●国際情勢/イスラエル危機深めたジェニン大虐殺

●翻訳資料/ 休載  ● ニューズ&レビュー/ 休載 

     4・28有事立法闘争

三里塚ドキュメント(4月) 内外情勢(4月) 日誌(3月)

コミューン表紙

 武力行使法粉砕を   

 武力行使法粉砕を有事立法3法案との闘いは、最大の決戦になった。日帝・小泉政権は、「将来の備え」などと悠長に考えていない。明日にも起こる米帝ブッシュの中国・朝鮮侵略戦争に全力で対応して、日帝が共同的=競合的に参戦するための具体的な攻撃をかけてきているのだ。ブッシュがイラク、イラン、北朝鮮を「悪の枢軸」と名指ししたのは、侵略戦争を仕掛けることの宣言以外ではない。イラクの次は北朝鮮への侵略戦争が計画されているのだ。そしてそのための「作戦計画5027」(98年改訂)まで持っている。ブッシュは、核兵器の使用さえ画策し、軍部に核攻撃のシナリオを策定することを指示しているのだ。有事立法はこの米帝とともに侵略戦争をするための攻撃である。外から攻められた時のためではなく、侵略戦争のための法律なのだ。

 有事立法攻撃と一体となって日帝の具体的な攻撃が強まっている。4月17日に3法案を国会に提出した直後の21日、小泉は春季例大祭に合わせて靖国神社を公式参拝した。これは、過去の戦争の戦死者を「英霊」としてたたえるというだけでなく、新しい戦争の戦死者をまつるための攻撃でもある。29日には、小泉は東ティモールを訪問しPKO派兵の自衛隊を激励した。また、北朝鮮に対する排外主義攻撃が激化している。12・22外国小型船撃枕・虐殺事件後のキャンペーン、「拉致疑惑」キャンペーン、1月以来のKEDO分担金の支払いストップなどは、米帝の北朝鮮に対する侵略戦争の切迫を見据えた日帝の動きとしてきわめて重要である。この攻撃を打ち破り、有事立法粉砕闘争の爆発をかちとらなければならない。

 日本共産党は、この有事立法に対して、「アメリカの国益のための戦争国家法」と言い、中国・朝鮮侵略戦争のための武力行使法であるという核心点を覆い隠している。彼らは、安保を容認し、自衛権を承認し、有事の自衛隊の活用を公言し、海上保安庁の外国船撃沈を容認し、愛国主義と排外主義を一層強めて、日帝の侵略戦争に向かっての攻撃に屈服しているのだ。また、中国・朝鮮侵略戦争のための有事立法ということを覆い隠す点では、カクマルも日共と同じである。彼らは「今日版国家総動員法」だと言うが、米帝とともに日帝が朝鮮、中国を相手に侵略戦争を実際に強行しようとしており、その切迫した攻撃のために有事法制を必要としているのだということを、必死で押し隠しているのだ。カクマルも日共も反対勢力ではない。

 米帝の後ろ盾でイスラエル・シャロンが続けている侵略戦争と虐殺行為を弾劾し、闘うパレスチナ人民と連帯していかなければならない。そしてその闘いは、自国帝国主義の侵略戦争に向かっての有事立法を絶対に許さず、粉砕するために闘いぬくことでなければならない。有事立法は、改憲攻撃の内堀を埋める攻撃である。したがってこれとの闘いは改憲阻止決戦そのものである。これ抜きに改憲攻撃との闘いはない。60年安保闘争、70年安保・沖縄闘争を超えるような巨万の人民の決起を絶対につくりだそう。陸・海・空・港湾労組20団体の大衆的決起は重要だ。戦場に動員されて加害者になることも被害者になることも拒否する、ということを戦争の最大の教訓にして、きわめて労働者的な闘いを貫こうとしている。この労働組合の危機感と怒りを広く深く組織して、有事立法粉砕の陣形を強化し、闘いぬこう。(た)

 

 

翻訳資料

  ●国際情勢

 イスラエル危機深めたジェニン大虐殺

 ジェニン大虐殺への怒りの爆発

 3月末以降のイスラエル軍によるヨルダン川西岸のパレスチナ自治区への大侵攻作戦は、恐るべき大虐殺と自治区壊滅の戦争であった。とりわけジェニンでは1000人をこえるといわれるパレスチナ人の大虐殺とすさまじいばかりの破壊作戦が展開された。
 ジェニン大虐殺は、01年9・11の反米ゲリラ戦闘以降の、米帝による「テロ根絶、テロ国家・テロ組織解体」を口実とする全世界的な侵略戦争政策=世界戦争政策の本質を白日の下にさらした。
 それは、01年10・7に開始された米帝を先頭とする諸帝国主義のアフガニスタン侵略戦争に対してすでに極限的に高まっていた全世界のイスラム諸国人民を始めとする被抑圧諸民族人民の怒りを最後的に爆発させる歴史的契機となる事件であった。
 その怒りの爆発は、米帝・イスラエルによる中東支配体制の崩壊的危機を激化させるのみでなく、帝国主義諸国におけるパレスチナ連帯の闘いを大爆発させ、米帝の世界戦争政策そのものに重大な打撃を与えるであろう。
 それゆえ今日、イスラエルと米帝はジェニン大虐殺の実態を必死で隠蔽し、大虐殺はなかったという大デマキャンペーンを開始している。それは商業紙が流布しているように「シャロンが国際戦犯法廷に引き出され、82年のレバノン侵攻の際と同様に虐殺責任を問われて辞任を強いられることを恐れたから」だけではない。ジェニン大虐殺の事実の露呈が、イスラエルの崩壊的危機の激化とイスラエルを先兵とする米帝の中東支配の総崩壊をもたらしかねないことに対して、米帝とイスラエルの支配階級がすさまじい危機感をもっているからなのである。

 イスラエルの虐殺隠蔽工作

 ジェニンでの大虐殺直後、イスラエル軍は徹底した隠蔽工作を行った。殺害されたパレスチナ人の遺体を瓦礫の下に埋め込み、ブルドーザーで平らにならし、大型機械なしには発掘できないようにしたり、穴を掘って遺体を隠したりした。
 とりわけロイターの記者が4月13日に軍事封鎖地域に指定されているジェニンに潜入し、10人のパレスチナ人の遺体の写真を発表して以来、隠蔽工作はさらに徹底された。外国の記者の立ち入りを厳禁する体制が取られ、立ち入ろうとする記者に対しては発砲したり、逮捕したりした。その上でイスラエル軍は、いったん埋めた遺体を掘り出し、極秘のうちにジェニンから運び出し、別の場所に埋め直して永遠に発見できないようにした。
 いったん決まるかに見えた国連調査団のジェニンへの派遣についても、さまざまな不当な理由をつけて先延ばしにし、ついには調査団受け入れを拒否した。米帝は国連に対し圧力をかけ、調査団の派遣を阻止する裏工作を行って、イスラエルの隠蔽工作を全面的に支援した。
 さらにその上で、イスラエルと米帝はさまざまな組織や機関を動員して、大虐殺はなかったという卑劣極まるキャンペーンを開始した。まずイスラエル自身が、4月12日段階で認めていたジェニンでの数百人の虐殺を訂正し、100人程度とし、さらに後に50人程度でしかなかったと再修正した。
 次に米帝とイスラエルは人権団体やアムネスティ・インターナショナルなどの初期調査結果を全面的に改ざんし、これらの団体が「ジェニン大虐殺はなかった」と発表したかのようなでっちあげを行った。
 これらの団体は被害者の大部分が病院への搬送をイスラエル軍によって阻止され、多くの負傷者が現場で治療を受けられずに死亡したり、生き埋めにされたという現実を考慮し、限定的で限界のある調査であることを明らかにした上で初期の調査結果を発表した。
 その基本的立場は「重大な人権侵害があったことは確実であり、全面的な調査がされねばならない」というものであった。
 調査も限定的地域の限られた病院などの施設での資料に基づくものとして行われたことを明記し、最終的結論ではないことを明らかにした上で、現在確認されている死亡者数や負傷者数を明らかにしたものであった。
 ところが米帝とイスラエルは
これがあたかも最終的結論であるかのように歪曲し、中立的な人権団体や国際機関が「虐殺」の事実を否定し、イスラエルの発表した「死者は50人前後」というデマを支持したものであるかのようなキャンペーンを行った。日帝のマスコミはこうしたキャンペーンに乗っかり、「大虐殺はなかった」という許し難いキャンペーンを展開した。
 確かにイスラエルが全軍を動員して隠蔽工作を行い、重機の搬入を阻止して遺体発掘を妨害している以上、殺された人々の数を現時点で正確に把握することは困難である。現在、UNWRA(国連難民救済機関)がジェニン難民キャンプの1万5千人の住民の安否確認作業によって死者の数を確定する作業を行っているが、それも難民キャンプ住民の多くがイスラエルに拘束されて安否や所在を明らかにすることを拒否しているために、また再度の難民として各地に流出しているために数カ月かかると言われている。
 だがこうした隠蔽工作と事実発見の困難さにもかかわらず、全世界のイスラム諸国人民やムスリム人民を始めとする全人民は、イスラエル軍の封鎖を突破して大虐殺直後にジェニンに潜入した報道機関の記者たちや住民の生々しい証言をこそ真実と認めているのだ。
 われわれは日帝が南京大虐殺の事実を否定し、なかったものにしようとしていることと同様の事態が起きていることをしっかり見据え、歴史的大デマキャンペーンを絶対に許さず、ジェニン大虐殺の事実を今後も全面的に暴露し、世界史に深く刻みこまなければならない。

 ジェニン大虐殺の現実

 ジェニンでイスラエル軍が行った大虐殺は筆舌に尽くしがたいものであった。大虐殺の主要現場となったジェニン難民キャンプはわずか1平方`に1万5千人の難民が密集して居住する地域であった。イスラエル軍は4月3日午前2時に大侵攻を開始し、まずアパッチ武装ヘリによるミサイル攻撃と戦車砲による激しい砲撃を加えた。大量の死傷者がでることが明らかであったにもかかわらず、イスラエル軍はこんな狭い地域に総計200発以上のミサイルと無数の砲弾を撃ち込んだのだ。
 高いビルなどへの狙撃兵の配置が終わった翌4日、イスラエル軍は180両の戦車と1万人の兵士を投入して数方向から難民キャンプに突入し、大虐殺作戦を開始した。
 イスラエル軍は、第2次大戦中にユダヤ人のワルシャワゲットーを攻撃したナチス軍が狭い道路を進軍して、蜂起したユダヤ人戦士に付近の建物から狙撃され多大な損害を出したことを教訓化して、住宅の壁に爆薬や大ハンマーで穴を開けて家から家に部隊を進める作戦をとったと発表している。ナチスのユダヤ人大虐殺作戦から学んで、その教訓をパレスチナ人大虐殺に生かそうとするとは何ということか!
 イスラエル軍は、パレスチナ人の家に家人と共にいればパレスチナ戦士による銃撃や爆弾攻撃などができないことを見越して、外出禁止令を出して家人を家の内部にとどめた。これは卑劣な人質作戦、人間の楯作戦以外の何ものでもない。家の内部では少しでも反抗的な態度をとったパレスチナ人は無慈悲に虐殺された。
 軍事作戦に邪魔と見なされた家は無警告で、あるいは退去の余裕を与えず内部の住民もろとも砲撃して破壊された。このため崩壊した家屋の下に生き埋めにされた住民も多数でた。すぐには移動できない「障害者」が居る家も移動の余裕を与えず攻撃され、多くの「障害者」が殺されたという証言もある。
 さらには作戦用の道路確保のためにブルドーザーを何台も横にならべて進ませ、進路にあるパレスチナ人の住宅を全て破壊し、逃げ遅れた人々を圧死させた。負傷者が残る住宅もブルドーザーによって破壊され、多くの人々が百数十b四方の更地化された地面の下に生き埋めにされて殺された。
 窓から外の様子をうかがったり、庭の洗濯物を取り込もうとしただけで外出禁止令違反として射殺された例もある。外出禁止解除中に食料や水を探す人々を気まぐれやなぐさみで射撃し、いたぶる行為もしばしば見られた。
 水、食料を探す時間を与えると放送して外出禁止令を一時解き、出てきた高齢者や女性を人質に取り、それらの人々を戦車の前に並べたり、戦車にくくりつけてパレスチナ解放戦士の軍事拠点に接近し、至近距離から攻撃するという卑劣きわまる「人間の楯」作戦も行われた。
 死者の数を増やすために医療活動も徹底的に妨害された。難民キャンプ内の病院は閉鎖され、パレスチナ人の医師、救急車が難民キャンプに入ることも禁止された。救急活動にたずさわる多くの医師、看護師、救急車の運転手が殺傷された。付近の病院も破壊され、電気と水の供給を絶たれ、手術などができない状態にされた。このため、治療すれば助かる多くの負傷者が次々と死んでいった。
 イスラエル軍はジェニンであまりにも残虐な虐殺行為が行われたことを十分に自覚していたからこそ、外出禁止令よりもさらに厳しい軍事的封鎖地域宣言(パレスチナ委任統治時代の英帝の緊急事態法を継承した法律に基づく措置)を行い、報道陣を徹底的に排除したのだ。
 大侵攻したイスラエル軍に対して食料も水もなく不眠不休で2週間に及ぶ英雄的戦闘を貫徹したパレスチナ解放戦士に対しては、残虐な街頭処刑が行われた。大侵攻の最終段階まで旧式のライフル銃で、抵抗拠点を包囲した数十台の戦車と数千人のイスラエル兵と対峙して英雄的に闘いぬいたジェニン難民キャンプのパレスチナ解放戦士たちの指導者、アブ・ジャンダルは、負傷して逮捕された後、難民キャンプの中心部に引き出され、数発の銃弾を頭部に撃ち込まれ、裁判なしで処刑された。

 継続する大侵攻作戦

 われわれはイスラエル軍によるパレスチナ人民大虐殺戦争がいまだ継続中であることを忘れてはならない。イスラエル軍は大侵攻作戦をいったん終了したとしながら、各自治区の周辺に依然として大量の軍を駐留させ、ことあるごとに再侵攻し多くのパレスチナ人民を日々虐殺・逮捕している。また新たにガザやヘブロンなどでも激しい侵攻作戦を展開している。
 大侵攻で破壊された自治区では、今日イスラエル軍による医療活動の妨害活動が続けられているため、自治区内に残った人々の健康状態の重大な悪化が問題となってきている。パレスチナ保健省のアルシャリフ博士の5月4日の記者会見によれば、水、食料、医薬品などの供給システムの破壊によって50万人の子どもたちの間に、破傷風や腸チフスなどの重大な病気が蔓延する徴候があらわれているとのことである。
 こうした状況下でのさらなる軍事侵攻と自治区封鎖の継続は、ジェニン大虐殺と同様の大虐殺を狙うものだ。
 その上でさらにシャロンは、大虐殺を行ったイスラエル軍に対する激しい怒りを持ち、復讐戦に決起する決意を固めているパレスチナ解放戦士が多数存在するガザでの大侵攻作戦を計画している。
 5月7日にイスラエル中部のリション・レツィオンでのハマスによる自爆戦闘で16人が死亡した事件を口実に、シャロンは訪米の日程を打ち切って帰国し、「激しい対抗措置」を実施することを明らかにした。自爆戦闘を行った戦士がガザ自治区から来たという宣伝を行い、今度はガザへの大侵攻を行おうというのだ。
 ガザの難民キャンプは西岸にくらべて規模が大きく、10万人が居住するものもある。そういう人口密集地への大侵攻が行われれば、ジェニン以上の大虐殺が行われる可能性が高いにもかかわらず、シャロンはガザへの侵攻を強行しようとしている。
 5月中旬の時点では、パレスチナ側の戦意の高さ、イスラエル兵の死傷者続出への懸念、軍内部の意思統一の不十分性、作戦情報の漏洩などを原因としていったん準備された侵攻作戦は延期された。決定された作戦の中止という事態は、ジェニン大虐殺後のイスラエルの国内危機を象徴するできごとではある。だが、他方でベンエリエゼル国防相が「戦闘の選択肢は残しておく」と語っているように、イスラエルが機会があればガザ大侵攻を狙っていることを軽視してはならないであろう。

 軍事監獄化めざす緩衝地帯

 シャロンは5月5日に訪米し、「暫定和平案」なるものについてブッシュと協議したが、その真の目的は「テロ撲滅」を口実としたパレスチナ解放運動の解体だ。実際、ブッシュとの協議の主要な議題は、「テロリスト侵入防止」のための自治区とイスラエルとの間の緩衝地帯の建設問題である。
 この緩衝地帯はイスラエルと占領地の境界に全長1000`に渡る2重フェンスと溝で囲った一帯を設け、広いパトロール用の道路と投光器、電子監視システム、監視カメラ、武器・爆発物を検知する設備を設置するというものだ。そのためにイスラエル領と占領地の間の幅5qの土地と、占領地とヨルダンの間の幅10qの土地を新たに略奪し、40万人のパレスチナ人を追放しようというのだ。
 それはパレスチナ人を巨大な軍事監獄に閉じこめるとともに、外部との一切の連絡を遮断してパレスチナ解放運動を封じ込めようとするものである。また、それは占領地の全入植地の防衛体制を飛躍的に強化するために軍隊と警察を恒常的にこの緩衝地帯に張り付ける体制を確立しようとするものである。
 ブッシュとの協議はそのためにかかる莫大な費用を米帝から引き出すためのものであった。緩衝地帯と付帯設備の設置だけで15億j程度かかると言われているが、軍と警察の駐留費用などを含めると200億jの巨費が必要とされている。
 シャロンはこれまでこのような緩衝地帯が莫大な費用を要する上に、緩衝地帯で取り込まれた地域に入植地がさらに孤立し、その防衛に困難が生じるため、その設置を承認しなかった。現在でさえ、例えば50軒のガザのネッザリム入植地を防衛するために1000人の軍隊が駐留しているという状態であり、緩衝地帯が設置されればさらに防衛部隊を強化しなければならない。
 こうした現実をあえて認識した上で今回シャロンが緩衝地帯の設置を本格的に推進しはじめたのは、シャロンがパレスチナ解放勢力の総せん滅を最後的に決断したからに他ならない。そして、そのための莫大な費用は米帝が負担するしかないのであるが、シャロンはパレスチナ解放運動の最後的せん滅なしには、米帝の中東支配体制が総崩壊するという現実をブッシュに突きつけて、今回の協議でその費用負担を要請したのである。
 シャロンは政権成立後34の新たな入植地を建設したが、さらに今後ガザに31軒と480軒の住宅からなる2つの新入植地を建設しようと計画している。3月末以降の自治区大侵攻による大虐殺と自治政府解体攻撃にもかかわらずパレスチナ解放運動が依然として強固に存在し、その士気も高いという現状からして、拡大する一方の入植地防衛のためには、ここで解放運動解体のためのドラスチックな対応策をとらねばならないとシャロンは決断したのである。
 シャロンによるパレスチナ人民抹殺攻撃はまだ開始されたばかりである。われわれは、こうした現実を見据え、パレスチナ連帯の闘いを断固として強化していかなければならない。
 第5項 英雄的戦いの巨大な影響力
 圧倒的な軍事力を動員したイスラエル軍の大侵攻に対し、一歩も引かず旧式の銃で迎え撃ち、2週間にわたって暗闇の中で泥水や下水をすすり、わずかな食料で最後まで拠点を守り抜いたジェニン難民キャンプのパレスチナ解放戦士たちの英雄的戦いは、パレスチナ・アラブ人民の間だけでなく、全世界の被抑圧民族人民の間に巨大な感動をもたらした。それは全世界における新たな民族解放闘争の大発展の時代を告げ知らせる巨大なのろしとなった。
 アラブ諸国ではエジプト、レバノン、ヨルダンなどの隣接諸国のみでなく、サウジアラビア、イエメン、バーレーンなどの産油諸国でも画歴史的なパレスチナ連帯闘争が爆発した(詳しくは『コミューン』6月号参照)。
 パレスチナ人民のイスラエルに対する自爆戦闘によって魂を揺さぶられていたアラブ諸国の人民は、ジェニン難民キャンプでのパレスチナ解放戦士の戦いに触発され、ついに自らイスラエルと米帝に対する闘いに決起しはじめたのだ。
 それは規模の大きさと戦闘性という点でアラブ世界の戦後史を画する内容をもっている。なによりもアラブ人民がパレスチナ人民の武装闘争への共感とそれに対する米帝・イスラエルのすさまじい弾圧政策への怒りをバネとして、米帝の反人民的な中東支配体制そのものに対する闘いを開始したことだ。
 まさに米帝の戦後の中東支配体制そのものを根底から覆す巨大なうねりが開始されたのだ。しかもそれは、中東における武装した民族解放闘争の復権を目指すものとして発展しており、パレスチナ解放闘争への敵対を続けたきた中東反動王制諸国の支配層への怒りの爆発としてもある。
 パレスチナ人民の不屈の闘いによって引き出されたパレスチナ連帯闘争の爆発は、米帝が数々の侵略戦争と中東「和平」策動を通じて実現しようとしてきた中東の新植民地主義的支配体制の強化策動を一夜にして破産の危機に直面させたのである。
 パレスチナ人民の英雄的戦いは帝国主義による戦後の新植民地主義的支配を根底から覆す全世界の被抑圧ムスリム人民の内乱的決起情勢を成熟させている。米帝、イスラエルによるパレスチナ人民へのすさまじい虐殺戦争の実態を目の当たりにして、全世界の被抑圧ムスリム人民は反米帝、反帝国主義の鮮明な旗印を掲げた民族解放闘争へと突進を始めたのである。

 帝国主義諸国の連帯闘争

 こうした闘いとの連帯をかけた帝国主義諸国における闘いも、明らかにこれまでとは質を異にする段階に入った。西欧諸国の反戦活動家たちは、パレスチナ人民支援の闘いを文字通り命をかけた闘いとして展開した。イスラエル軍の銃撃による威嚇にも屈せず、皆殺し戦争からパレスチナ人民を守る「人間の楯」となるために、イスラエル軍に厳重に包囲されたラマラの議長府やベツレヘム聖誕教会に突入したり、イスラエル軍による封鎖によって生命の危機に直面したパレスチナ人民に食料、水、医薬品を届けようとして必死の闘いを展開した。
 そうした闘いは、明確に自覚したものではないにせよ帝国主義的抑圧民族の一員として被抑圧民族に対する「血債」を支払おうとする態度に貫かれたものであり、国際連帯闘争の新たな地平を切り開くものであった。
 帝国主義諸国に戻ったこうした活動家たちやその所属団体によって組織されたパレスチナ連帯集会やデモも、被抑圧民族と連帯して帝国主義の侵略戦争と対決する闘いとして位置づけられたものであり、質的にかつてのベトナム反戦運動をこえる闘いとして実現されている。量的にも4月6日にはローマで5万人の反戦デモ、パリで2万人の反戦デモが行われているし、4月20日にはアメリカのワシントンで10万人、サンフランシスコで3万5千人、全米で20万人のパレスチナ連帯デモが行われるなど、ベトナム反戦運動以来の高揚が見られる。
 それは01年9・11以降の排外主義的な「テロ絶滅」キャンペーンと対決して、帝国主義国内に居住・在住するアラブ諸国人民、ムスリム人民との共同の闘いとして実現され、国際連帯の質的高度化を実現するものであった。

 イスラエルの反戦運動の前進

 イスラエル国内での大侵攻に反対する運動も、排外主義の大洪水の中で質的に新たな地平を切り開いている。いったん40%を割ったシャロンの支持率がイスラエル国内における自爆戦闘に対する激しい恐怖と反発から、再び上がり、世論が大侵攻支持に傾くなかで、イスラエルの反戦運動は苦闘を強いられるが、4月13日には、ジェニンへの軍事侵攻に抗議する3000人以上のイスラエル人のデモが行われている。若い世代を中心とした活動家たちは、31台の大型トラックに水、食料、毛布、医薬品を満載して、デモでジェニンに入るサレム検問所に向かった。イスラエル軍の妨害でデモは解散させられ、積み荷の一部しかジェニンに届けられなかったが、大侵攻最中に激しい弾圧を覚悟してパレスチナ人民と連帯するこうした闘いが組織されたことは注目すべきであろう。
 さらには、5月11日夜にはピースナウなどの主催で、占領地からの軍撤退を求める集会がテルアビブで行われた。この集会は、82年にレバノンからのイスラエル軍撤退を求める20万人集会以来最大規模の10万人集会となった。ジェニン大虐殺に抗議し、自治区からのイスラエル軍の完全撤退を求める声が集会場にあふれ、シャロンにガザ大侵攻作戦の中止を最終的に決定させる重要な契機となった。
 予備役兵士・士官の占領地での兵役を拒否する署名も5月19日の段階で462に達し、さらに増え続けている。徴兵拒否に立ち上がって高校生たちもねばり強い闘いを続けている。
 イスラエルでは大学構内で「外国報道機関による大虐殺のデマ記事に抗議する署名運動」が一斉に行われ、小学校では戦場の兵士に「慰問袋」を送ることが子ども達に強制されるなど、侵略戦争翼賛体制が強化されるなかで、こうした闘いが続けられていることは、イスラエルの反戦運動の新たな質的発展を示している。
 世界大恐慌と世界戦争の時代においてパレスチナ人民支援連帯の闘いを通じて、帝国主義国人民やイスラエル人民の間からこうした国際連帯の闘いが開始されたことは、世界革命にむかっての国際的内乱の時代の到来を告げ知らせるものである。
 われわれはこの日本の地においても、パレスチナ連帯闘争の爆発を実現し、国際的内乱の時代を切り開く闘いの最先端に立たなければならない。

 イスラエルの体制的危機の激化

 イスラエルがこれほどの激しさをもってパレスチナ解放運動の壊滅とパレスチナ人民抹殺戦争にうってでたのは、そうすることなしにはシオニスト国家としてのイスラエルが総崩壊しかねない危機に叩きこまれているからである。
 イスラエルの体制的危機はすでに87年から93年ころまでの第1次インティファーダによって激化していた。インティファーダ弾圧のための軍事支出の増大、治安悪化を原因とする外資の流入の停止、イスラエル経済にとって重要な位置を占める観光収入の激減、移民の流入の停滞など今日イスラエルが直面している危機と同様の危機が次第に激化していった。
 イスラエルと米帝はこうした危機を突破するために、91年のイラク・中東侵略戦争(いわゆる「湾岸戦争」)を仕掛けた。米帝はこの侵略戦争によってイラクを軍事的に制圧するとともに、米帝の軍事力を中東地域に駐留させてパレスチナ解放運動と中東の民族解放闘争を圧殺する体制を構築した。
 イスラエルはこれに呼応してインティファーダに対する弾圧を激化させ、湾岸の反動王制諸国はPLOへの援助を中止し、100万人のパレスチナ人労働者を国外に追放した。
 このような二重三重のパレスチナ解放運動解体策動をテコとして米帝はPLOアラファト指導部の屈服を迫り、オスロ合意に基づく「和平」策動をもって第1次インティファーダを暴力的に抑え込んだ。

 オスロ合意後の経済発展

 5年間の激しい消耗戦を闘いぬき多大な損害を強いられたパレスチナ人民は確かに当初、暫定自治を経てパレスチナ国家を樹立できるとするオスロ合意に幻想を抱いていた。こうしてイスラエルは、つかぬまの和平を利して、93年以降、体制的危機から抜けだし、未曾有の経済的発展を実現した。
 オスロ合意後1年で、イスラエルへの外国投資は46%も増大し、98年まで増大し続ける。インテル、モトローラ、IBMなどの米企業を中心としてハイテク産業への投資が急増したため、イスラエルは中東で最大のハイテク国家に変身し、93年から98年の間にハイテク製品の輸出を毎年15%ずつ増大させた。
 国内総生産も95年から99年までの間に50%も増大し、イスラエルへの移民が90年代にロシアから百万人近く流入したことによって人口も10%も増大した。ロシアからの大量の技術者の流入は、イスラエルのハイテク産業の発展を支えた。
 このようなイスラエルの産業の発展は、オスロ合意に基づくパレスチナ暫定自治の開始によってアラブ諸国のイスラエル製品ボイコットが廃止され、94年以降、20カ国以上がイスラエルとの外交関係を結び、さらに南西アジアとラテン・アメリカにまで市場が拡大したことによって実現された。
 94年にはアジアへの輸出は30%も増加した。特にインドに対しては50%、タイに対しては70%近く増大した。95年には長期間イスラエルをボイコットしていた中国の市場が開放され、イスラエル製品の輸出は急速に増大した。
 90年代の中頃にはイスラエルは研究開発部門、民間航空機と情報産業部門でもロシア、トルコ、シンガポール、インド、フランス、ウクライナ、南アなどと協力協定を結んだ。
 イスラエルに拠点を置く、外国企業の輸入や補助金の流入も長期の投資動向に良好な影響を与えた。
 こうした経済発展の結果、イスラエルの一人当たりの年間所得は92年には1万2600jであったものが、95年には1万5600jに増大し、2001年には2万jを超えた。失業率も92年の11・2%から95年には6・9%に低下した。
 以上のようなイスラエルの経済発展は、中東「和平」策動の推進を前提とした米帝・イスラエル主導の中東・北アフリカ総合開発計画の下で実現された。それは米帝の91年以降の中東軍事制圧体制を背景として、パレスチナ解放運動を解体する「和平」体制を確立し、それを前提としてイスラエルを含む中東・北アフリカアラブ諸国をイスラエルを軸にした経済ブロックに編入するという構想であった。
 こうした構想の下に、94年10月には「第1回中東・北アフリカ経済サミット」が開催され、シリア、レバノン、イラン、イラク、リビア、エジプト、パレスチナ、イスラエルなどが参加した。95年10月の第2回サミットには諸帝国主義国を含めた60カ国から1500人の政府関係者や企業代表が参加し、大々的な政府・民間投資の具体的計画が提示された。
 この構想を主導しようとしたイスラエルは、「中東のハイテク基地」としての地位の獲得を目指して産業構造の転換を実現しようとした。そのためにイスラエルは外資を全面的に導入するとともに、占領地にイスラエルの下請け産業を作り出し、劣悪な労働条件で低賃金のパレスチナ人労働者を働かせようとしたのである。占領地内に工業団地を造成する構想も計画され、パレスチナ人労働者の植民地的搾取体制の確立が目指された。

 オスロ合意体制の完全崩壊

 だが、イスラエルの経済発展なるものは、パレスチナ解放闘争を暴力的に圧殺し、占領地を最終的に併合をすることを前提として実現されたものであった。暫定自治を経てパレスチナ国家を樹立するというオスロ合意の内実は、暫定自治期間に占領地内にユダヤ人入植地を大量に建設して占領地併合を先取り的に進め、本来のパレスチナのほんの数パーセントの土地にパレスチナ人を最終的に押し込めるというものでしかなかった。
 パレスチナ人民がオスロ合意に幻想をもち、パレスチナ国家再建に期待をつないでいる間は、いつわりの平和が継続し、イスラエルの相対的な安定もあり得た。
 しかし、米帝・イスラエルの「和平」策動の真の姿は、95年11月に労働党出身の首相ラビンが極右シオニストによって暗殺され、96年5月に右派リクード党のネタニヤフが首相に選出されると、一挙に明らかになった。
 ネタニヤフの年37平方`にも及ぶ土地を略奪する大々的な入植地拡大政策は、オスロ合意の本質を完全に露呈させた。その後のバラク労働党政権の下でも、ネタニヤフ政権時以上のペースで入植地の建設が進んだ。
 こうした中で最終地位交渉が96年5月から開始されるが、入植地問題、エルサレム問題、難民帰還問題などの最も困難な交渉課題に関する交渉は全くといっていいほど進展が見られなかった。パレスチナ人民はこの最終地位交渉を通じて、イスラエルが一切譲歩する意思がないことを完全に理解した。
 結局、最終地位交渉の過程で、イスラエルが東エルサレムをパレスチナの首都として認めず、難民の帰還を全面的に拒否し、西岸の17・2%、ガザの60%の土地に90%以上のパレスチナ人を閉じこめ、残りの土地を全て併合する決意を固めていることが暴露されたのである。この段階でパレスチナ人民はオスロ合意に対する幻想を完全に払拭した。
 こうして97年には第2次インティファーダともいうべき新たなパレスチナ解放闘争が開始され、97年、98年と街頭でイスラエル軍との激突が連日起きた。それはオスロ合意に基づく「和平」策動が完全に破綻したことを示すものであった。つまり、イスラエルとパレスチナ人民の関係は再びオスロ合意以前の非和解的関係にラセン的に回帰したのである。
 「和平」策動の破産と第2次インティファーダの開始は、イスラエルを再び第1次インティファーダ時代と同様の体制的危機に直面させた。
 極右・リクード党のシャロン元国防相は、こうした情勢を背景として最も暴力的なパレスチナ解放運動圧殺者として登場した。00年9月にエルサレムのイスラム教聖地に多数の武装警官を伴って突入して第3次インティファーダのきっかけを作った人物であるシャロンは、01年1月に首相に就任すると、米帝ブッシュの承認を得て、パレスチナ解放勢力を根こそぎ軍事的にせん滅する方針を打ち出した。

 イスラエルの体制的危機激化

 00年9月の第3次インティファーダ開始以来、イスラエル経済は一気に落ち込み、00年第4四半期の経済成長率はマイナス10%を記録し、01年第1四半期に若干回復するが、以後再び落ち込み、01年10〜12月期には経済成長率はマイナス7・2%を記録した。(図参照)
 これは外資の逃避と流入額の激減、外資によって支えられていたハイテク産業の危機、観光産業の壊滅的危機、周辺アラブ諸国との貿易の停滞(大衆的イスラエル製品ボイコット運動の拡大による)などを原因とするものである。いずれも第3次インティファーダの爆発によって引き起こされたものであった。
 さらには00年9月以来の移民の急減と、移民流出の過去最大化は、イスラエル国家存立の基盤まで突き崩しかねない危機をもたらしている。
 オスロ合意に基づく「和平」策動が完全に破産した以上、シャロンにとってはこうした危機を乗り切るためには、第3次インティファーダを暴力的に鎮圧し、パレスチナ人を抹殺・追放して占領地を全面的に併合するしかなかったのである。
 そのためにシャロンは自治政府の解体と武装組織のせん滅の全面戦争に突進した。だが、そうした政策は諸武装組織のみでなく自治政府の警察官や全パレスチナ人民を武装闘争へと決起させる結果をもたらした。
 パレスチナ人民の総武装決起という事態は、イスラエルによる占領地の軍事支配体制を突き崩した。だからこそシャロンは02年3月末以来の自治区大侵攻へと突進したのだ。
 だが、自治区の破壊とパレスチナ人民大虐殺にもかかわらず、イスラエルの体制的危機はますます深刻化するばかりである。大侵攻で大きな打撃を受けたにもかかわらず、パレスチナ人民の戦意は衰えるどころか、ますます燃え盛っている。ジェニン虐殺に対する怒りは沸騰し、倒れた戦士の屍を乗り越えて次々に新たな戦士が戦列に参加してきている。
 これに対し、イスラエルでは不正義の虐殺戦争への疑問が国民の間に生じ始め、反戦運動が活発化している。90年代の経済発展で比較的豊かな中流層が増大したため、軍内部では予備役をはじめとして激しい戦闘への参加を忌避する厭戦気分も蔓延しはじめている。
 しかも、大侵攻作戦の繰り返しによる軍事支出の一挙的増大(3月末からの3週間の侵攻作戦の直接的費用だけで270億円の支出)と、経済危機による税収の減少で国家財政は危機に陥り、イスラエルは官民の全労働者の賃金凍結を含む「緊急経済政策」を実施し、付加価値税やたばこ税の引き上げ、失業手当・児童手当の削減、省庁経費の一律カットなどを打ち出さざるをえなくなっている(4月末)。もはやイスラエルは米帝の新たな財政援助なしには侵攻作戦を継続することさえ困難になっているのだ。
 だが、それでもシャロンは米帝の全面的財政支援を受けてさらなる大虐殺戦争へと突進する方向を選ばざるをえない。イスラエルの体制的危機はさらに激化する以外にない。
 シャロン政権が凶暴化しているのは、イスラエルこそが戦後最大の体制的危機に陥っているからである。われわれは、パレスチナ・イスラエル問題の根本的・革命的解決が求められる決戦情勢の到来に確信を持ち、総崩壊の危機に陥っているイスラエルと中東新植民地主義体制を護持するための新たなイラク・中東侵略戦争策動を絶対に許さない闘いを断固展開していかなければならない。

 有事法制粉砕の闘いの爆発を

 われわれは今こそ日本の地でパレスチナ人民に連帯する闘いを、有事立法粉砕闘争を大爆発させる闘いとして実現しなければならない。米帝の世界戦争政策に呼応し、自衛隊の中東をも含めた全世界への侵略派兵体制を一挙に確立しようとする有事立法を粉砕する闘いは、闘うパレスチナ・イスラム諸国人民と実践的に連帯する最重要の闘いである。
 パレスチナ人民がわれわれに最も要求しているのは、米帝と日帝の新たな中東侵略戦争をわれわれ自身の決起で阻止することだ。パレスチナ人民の英雄的戦いに真に連帯するために、直ちに有事立法粉砕の大闘争を実現する闘いに決起しよう。