International Lavor Movement 2011/11/01(No.423 p48)

ホームページへ週刊『前進』季刊『共産主義者』月刊『コミューン』出版物案内週刊『三里塚』販売書店案内連絡先English

2011/11/01発行 No.423

定価 315円(本体価格300円+税)


第423号の目次

 

表紙の画像

表紙の写真 6万人が反原発に決起(9月19日 東京・明治公園)

■羅針盤 反原発デモが全国を席巻 記事を読む
■News & Review 韓国
 済州島海軍基地建設に実力闘争
 「労働者の母」李小仙(イソソン)女史が逝去
記事を読む
■News & Review ドイツ
 ゴアレーベン―反原発34年の闘い
 “即時全面撤廃”へ核廃棄物輸送阻止闘争
記事を読む
■News & Review 中国
 大転機、7・23中国高速鉄道の大事故
 大連・労働者大デモが歴史的な勝利かちとる
記事を読む
■特集 原発再稼働阻止・11月労働者集会へ 記事を読む
■翻訳資料
 シンディ・シーハンVSミチオ・カク
 シンディ・シーハンのソープボックスから
 丹沢 望 訳
記事を読む
■Photo News 記事を読む
■世界経済の焦点
 米国債が格下げに
 財政赤字に対処できず/ドル暴落の新段階
記事を読む
■世界の労働組合 ドイツ編
 ドイツ機関士労働組合(Gewerkschaft Deutscher Lokomotivfuhrer:GDL)
記事を読む
■国際労働運動の暦 11月9日
 ■1963年三池炭鉱炭塵爆発事故■  資本の残忍な大虐殺
 炭労の「闘いなくして安全なし」の精神と闘いの重要さを逆に教える
記事を読む
■日誌 2011年8月 記事を読む
■編集後記 記事を読む
裏表紙の写真 イスラエルのデモ(9月3日 テルアビブ)

月刊『国際労働運動』(423号1-1)(2011/11/01)

羅針盤

■羅針盤 反原発デモが全国を席巻

▼労働者を踏みにじる新自由主義攻撃の原点は、1980年代の国鉄分割・民営化だ。この攻撃と真っ向から闘ってきた動労水戸は9月16日、JR東日本による不当労働行為を糾弾しストライキに決起した。そして動労千葉は、10月1日実施予定の京葉車両センターの外注化攻撃に対してストライキを構えて闘っている。この闘いと連帯し、今秋闘争を闘おう。
▼3・11大震災と原発事故から半年後の9月11日、全国で3万人が反原発デモを闘った。東京では1万人を超える大デモが新宿を一周し、新宿を青年・学生の反原発の街に塗り替えた。このデモの先頭に、前日の大会で新執行体制を確立した全学連が立った。そして19日、東京・明治公園には実に6万人の労働者人民が全国から大結集し、60年、70年をも上回る歴史的な大闘争となった。被災地福島の労働者人民も結集し、NAZENが全体を牽引した。すべての人が原発反対、再稼働阻止を訴えた。原発は地上に置かれた原爆だ。「福島原発事故で放出された放射性セシウムは広島原爆の168個分」と言われている。
▼ところが野田政権は、「放射能は安全。文句があるなら出て行け」「国家の言うことにさからうのは非国民だ」というキャンペーンを張っている。日帝・野田政権は今や、デマと暴力で人民に対応するしかないところまで追いつめられているのだ。実際に日帝は10、11日、日本財団(笹川陽平会長)の主催で「放射線と健康リスク」なる「国際会議」を福島医大で行った。世界14カ国・2機関の御用学者を集め、「福島県民の被曝リスクは低い」と大宣伝する攻撃に出たのだ。それを迎え撃って11日には北海道から沖縄まで、デモが日本列島を席巻した。

------------------------TOPへ---------------------------

月刊『国際労働運動』(423号2-1)(2011/11/01)

News&Reviw

■News & Review 韓国

済州島海軍基地建設に実力闘争

「労働者の母」李小仙(イソソン)女史が逝去

 □カンジョン村民が警察権力と闘う

(写真左 カンジョン村を強制鎮圧しようとする警察部隊と激突【9月2日 済州島】)
(写真右 地建設予定地で工事用道路の地ならしのためにクロンビ海岸を破壊している重機)

 韓国済州島(チェジュド)のカンジョン村で、海軍基地の建設が強行されている。平和の島・済州の海軍基地建設は米軍の東アジア展開に重要な一環を占めるものであり、李明博政権が世界大恐慌が深化する中で建設を急いでいるものだ。海軍基地の建設は、済州の独特の火山溶岩の海岸の自然を破壊しつくし、村に反対派、賛成派の葛藤を持ち込んで村の共同体を破壊して進められている。カンジョン村の会の住民、汎対策委員会をはじめとして、支援の労働者、社会団体の活動家、宗教人の反対闘争が連日展開されている。
 9月3日には「平和飛行機」と23台の「平和バス」で全国から800人以上の労働者・市民が駆けつけて、「軍靴に踏みにじられているカンジョン村と共にしよう」と村民とともに集会、「平和コンサート」を行った。
 国家権力は8月末にカンジョン村の会の会長をはじめ、反対闘争の指導者らを逮捕・拘束した。そして、9月2日の明け方、奇襲的に公権力を投入し本土から動員された警察600名を強制鎮圧に投入した。警察は、最後までフェンスが打たれていない場所であるチュンドク三差路にフォーククレーンでフェンスを打った。この過程だけで38名の住民と活動家が連行された。
 韓国本土からの警察権力の投入による「鎮圧」は194
8年の済州蜂起の「鎮圧」という名のもとで3万人以上もの島民を虐殺した4・3抗戦を思い起こさせるものであり、済州島民を軍靴で踏みしだくものである。絶対に許すことができない。
 現在、海軍は本格的にクロンビ海岸(溶岩の海岸)に掘削機を投入して一枚岩などを壊して工事を強行している。国家権力は卑劣にも6日、国会予算決算特別委の調査小委員の議員らが事業団基地訪問調査を終えた直後に工事を開始した。
 カンジョン村の闘いの相手は破綻にあえぐ新自由主義国家権力と米帝だ。われわれ自身に関わる問題として熱い連帯を持って共に闘おう。

 □チョンテイル烈士の母の民主社会葬

(写真 葬礼行進の中の「李小仙オモニ復活の図」。苦痛を受ける労働者民衆を胸に抱く姿だ)

 チョンテイル烈士の母であり、労働者のオモニ(母)と慕われた李小仙女史が9月3日午前11時45分に逝去した。
 李小仙女史は、1970年11月13日のチョンテイルの焼身抗議の後、チョンテイル烈士と約束したとおりに、烈士ができなかった仕事を成し遂げるために、40年以上にわたって労働者の権益伸張、労働運動の発展、そして人間解放のために献身してきた。
 葬礼は「労働者のオモニ、李小仙民主社会葬」として執り行われ、9月7日永訣式、野祭を経てマソク・モラン公園のチョンテイル烈士の墓所付近に安葬された。葬礼は汎国民追慕委員会が主催し、共同委員長を民主労総・キムヨンフン委員長と韓国労総・イヨンドゥク委員長が担った。
 李小仙女史の最後の遺言は「希望のバス」に乗っていって、韓進(ハンジン)重工業で高空籠城中のキムジンスク民主労総釜山本部指導委員に向かって、「必ず生きて降りてきて『闘え』と言え」と言ったことだったという。葬礼式に先立つ9月6日、李小仙女史の遺影を乗せた「希望のバス」が韓進重工業85号クレーンを訪問した。
 9月7日午前7時、出棺式を終え、李小仙女史の棺が500名の労働者民衆とともにソウル大病院の葬礼式場を出て永訣式が行われるテハン路のマロニエ公園に向かって行進した。先頭には6日、李小仙女史が希望バスに乗ってヨンド造船所85号クレーンで会った韓進重工業労働者たちがチョンテイル烈士の遺影を抱きしめて絶叫する李小仙女史の写真を掲げて行進した。その後にはすべての苦痛を受ける労働者民衆を胸に抱く姿の李小仙女史の復活図が続いた。民主労総と韓国労総の旗が一緒に行進した。午前10時、テハン路マロニエ公園で2時間の厳粛な永訣式と献花が行われた。永訣式を終えるとチョンゲチョンのチョンテイル橋に向かい、そこで野祭が行われ、墓地のマソク・モラン公園に向かった。
 労働者のオモニ、李小仙女史は81歳の生涯を閉じたが、すべての苦痛を受ける労働者を「団結して闘え」と励まし続けた、その労働解放に対する熱情はすべての労働者の胸に生き続け叱咤激励し続けるであろう。
 以下は韓進重工業85号クレーンで籠城を続けているキムジンスク指導委員から送られた追悼文だ。
(写真 チョンテイル烈士の像の前に掲げられた李小仙女史の遺影)

 -----------------------------------------------------------

 ●オモニへの追悼詞

 韓進重工業85号クレーンからキムジンスク指導委員

 結局このようにして来られたのですか。「希望バスに乗って韓進の労働者に会いたい」というお言葉が結局、遺言になってしまったのですか。オモニ。倒れられる前に2回も電話をかけてこられて、すぐ降りて行ってお会いすると言えずに、来られないようにしたのが、こんなにも後悔されるとは知りませんでした。辛い労働者がいる所にはどこでも駆けつけられたオモニ。最後に行かれる所さえも、闘う労働者を見られるためにこの遠い所まで訪ねて来られたのですか。
 オモニはそういう方でした。20世紀末の民主化運動過程で倒れていった烈士たちの真相究明と名誉回復のために汝矣(ヨイド)でテントを張って籠城された時、その寒い冬のテントの中でおじさんたちがラーメンを茹でていたといいます。ラーメンよりも多くの薬を飲みながら毎日引きはがされるテントをひっ捕まえて422日を闘われてつくった法案によって、私がとうとう民主化有功者として認められて不当解雇撤回と復職決定まで行って、オモニに電話をおかけしました。感謝するという私の挨拶にオモニは「おまえたちがちゃんと熱心に闘えばお前たちの後の者も恩恵を受けて暮らせるだろうよ」と話されました。自分のものは全部投げ出して、この地の労働者のために生涯をかけられた、オモニはそのような方でした。「労働者は団結しなければならない」と常に強調されたお話はオモニの暮らしから出てくる生涯の哲学であり、知恵でした。ですから今でもそれらのお言葉のように暮らせず申し訳なく恐れ多い限りです。降りていってお会いするという約束も守れず、病院におられる時だけでもお会いしに行こうと決めたことも守れませんでした。待っておられた時間がとても長く、なぜもうちょっと待ってくださることができずに行ってしまわれたのかと恨むこともできません。
 全国の烈士たちの葬礼式を引き受けられたパクソンホ同志もオモニが行かれる道を自分の手でお見送りすることができないことをとても悲しいと言っています。パクヨンジェ、チョンホンヨン、今日で断食23日目のシンドンスン同志、そしてパクチャンス、キムジュイク、クァクチェギュの志を胸に抱いて生きているわれわれ組合員たちはみな同じ心です。正規職や非正規職やそして他の労働者までもすべて同じ息子として胸に抱かれたオモニ。今は天の国でさえ数多くの息子たちを抱いて暮らされるオモニ。先に逝かれた息子を胸に抱いて生きられたオモニに生きている息子たちがのっかって暮らした日々がとても長かったです。
 今、安らかに逝って下さい。腹が減ったという言葉を最後に逝った息子に会って、この世の苦痛などみな降ろして、尽くせなかった話、分かち合うことができなかった情を心ゆくまで分かち合って下さい。
 オモニによって自らが労働者であることを自覚し、闘わなければ何も守れず、変わることもないのだということを悟った数多くの労働者がオモニを記憶することでしょう。オモニ、生前にそうであられたように、遠い道をいとわず来て下さり本当にありがとうございます。ちゃんと生きられるように手もつかんであげられず、勝利の知らせも伝えられないまま、このように哀悼をもってオモニを送りますが、整理解雇がない、非正規職がない世の中で熱心に生きます。
 さようなら。オモニ。
 -----------------------------------------------------------

 □移住労組ミシェル委員長に勝利判決

 ソウル行政法院行政12部は9月15日、移住労組・ミシェル委員長がソウル出入国管理所を相手に起こしていた出国命令などの行政処分取り消し請求訴訟で、ミシェル委員長に対する勝訴判決を出した。
 判決では、法務部ソウル出入国管理所が2010年3月にミシェル委員長が就業していた会社が存在していないとして虚偽就業で滞留ビザを取り消したことに対して、「嘘やその他の不正な方法で各許可を受けたと認定するだけの証拠がない」とした。また、判決は移住労働者の労働組合活動が法的に保障されなければならないという内容を含んでいる。ミシェル委員長が移住労組活動を積極的に行ったことについて「外国人の地位を保証したわが憲法第6条、世界人権宣言、人種差別撤廃国際協約、市民的・政治的権利に関する国際規約などに照らして見れば、団結権、団体行動権などの勤労者としての基本権が外国人勤労者にも認定されると見るのが正しい」と明らかにしている。さらに、「移住労働組合の役員らは以前にも被告から強制退去命令を受けた前歴がある点に照らし、この事件の各許可取り消し処分は、その表面上の理由と異なり、実際には原告の移住労働組合の組合員としての活動を理由としたものではないかとの疑心がつのる」と法務部のミシェル委員長に対する出国命令が移住労組に対する政治弾圧が目的であったことを認めている。
 15日午後1時、ミシェル委員長と移住労働者差別撤廃と人権・労働権のための共同行動(移住共同行動)が法院の前で行政法院の判決を歓迎する記者会見を開いた。
 ミシェル委員長は「すべての方々に感謝する。連帯と支持がなかったら今日の判決もなかっただろう。香港と日本の国際連帯にも感謝する」「韓国に来て法に違反する考えはなかった。移住労働者に労働基本権を保障しない政策が不当であったので、われわれは闘争するしかなかった」「今日の判決で移住労組の正当性が立証された。これからも労働権保障のために闘う」という強い意志を表明した。
 今回の勝利判決は、移住労組に対する露骨な政治弾圧を許してはならないと立ち上がった民主労総をはじめとするすべての労働者の真剣な闘いの成果だ。移住労組の労働基本権保障をかちとる闘いに断固連帯していこう。
 (大森民雄)
(写真 判決後の記者会見で発言するミシェル委員長【9月15日】)

------------------------TOPへ---------------------------

月刊『国際労働運動』(423号2-2)(2011/11/01)

News&Reviw

■News & Review ドイツ

ゴアレーベン―反原発34年の闘い

“即時全面撤廃”へ核廃棄物輸送阻止闘争

 

(写真左 ゴアレーベンの核燃料廃棄物中間貯蔵場) (写真右 ゴアレーベンに運び込まれる放射性廃棄物【2010年11月9日】)

 □反原発闘争の総本山・ゴアレーベン

 『チェルノブイリ・フクシマ、原発との決別』――これは、ドイツで反原発闘争を闘ういくつかの組織・団体が共同で編集したパンフのタイトルだ。〈まえがき〉の冒頭は「チェルノブイリからちょうど25年、フクシマは、核をコントロールすることはできないということを、あらためて全世界に突きつけました」と述べている。そして「フクシマによって、反原発運動は新たな高揚を迎えています。今こそ、ドイツをはじめ、全世界の電力資本に明確なノーを突きつけ、原発の即時全面撤廃をかちとりましょう」と呼びかけている。
 11月労働者集会とちょうど同じ時期に、ドイツの反原発闘争は一つの山場を迎える。核燃料廃棄物が、フランス(北部のラ・アーグ再処理工場)から、西北ドイツ、ベルリンとハンブルクのほぼ中間に位置するゴアレーベンの中間貯蔵場に搬入されようとしているのだ。これは、1995年以来であり、搬入阻止闘争は13回目となる。現地では、この間、施設周辺の放射線量測定値が年間許容値に迫っていることが暴露され、農民の数十台のトラクターを押し立てた抗議集会が繰り返され、秋の闘いへの戦列が固められつつある。
 このゴアレーベンは、ドイツ電力資本と全ブルジョアジー・国家権力が70年代以来、ドイツ帝国主義の核政策の要をなす「核燃料サイクルセンター」を建設するターゲットにしてきた土地である。これに対し、計画発表の当初から地元住民・農民が激しく反対闘争に立ち上がった。彼らは、ただちに反対同盟を結成し、粘り強い実力闘争をもって地域を越えた連帯を形成しつつ、資本と権力の計画を何回も粉砕してきたのである。こうして、ゴアレーベンの闘いは、全ドイツの反原発闘争の総本山の位置を占めて、現在にいたっている。
 この間の攻防戦は、中間貯蔵場への核燃料廃棄物の搬入をめぐる闘いである。ドイツの原発から出た核燃料廃棄物を、フランス〔およびイギリス〕の再処理工場で処理し、国境を越えて、カストール(放射性物質の保管と運搬のための桶状のガラス容器=カスク)に入れて、列車輸送し、ゴアレーベンの中間貯蔵場に持ち込もうという攻撃である。資本と権力は、反対同盟の闘いによって、いったんは断念させられた核燃料廃棄物の最終処分場を、なんとかしてゴアレーベンに建設しようと策動しているが、そのためにも、中間貯蔵場への搬入の継続と確保は、至上命令なのだ。

 □2008年、2010年の輸送阻止闘争

(写真 ゴアレーベンで500人が反原発集会【8月28日】)

 最近の闘いで、とりわけ激烈だったのは2008年と昨年2010年だった。
 2008年11月、フランスからドイツ・ゴアレーベンに向かう核廃棄物運搬列車に対し、国境に接するラインラント=プファルツ州の経過点で、線路に体をしばりつけて、列車の運行を阻止する闘いが、数千人規模のデモの中で行われた。これに呼応して、ベルリン、ハンブルク、カールスルーエなど、ドイツ各地で、廃棄物輸送列車阻止のための、鉄道施設に対する攻撃が続いた。ゴアレーベン現地では、1万6000人のデモ隊が、350人の農民とともに、圧倒的な抗議集会を行った。IGメタル(金属労組)の地区本部長が「安全な核貯蔵庫などない」「ゴアレーベンの核施設、即時撤去せよ」と訴えた。
 昨年2010年の廃棄物輸送列車阻止は、2009年末における社民党=保守党の大連立から、保守=自民党の連立政権への転換という政治情勢のもとで闘われた。メルケル新首相は、社民=緑の党政権の「脱原発政策」からの転換(「脱・脱原発」)を打ち出した。この反原発運動への挑戦に対し、2010年9月18日、ベルリンで5万人のデモが、「原発をただちに廃止せよ」を叫んで政府官公庁地帯を包囲した。
 同時に、ゴアレーベンが核燃料廃棄物の最終処分場として適しているかどうかという地質学的な調査〔ゴアレーベンの岩塩層の分析〕が、前政権下では中止されていたのが、メルケル政権によって再開される、という攻撃が開始されていた。
 こうした状況の中で、11月のカストール輸送に対して、すでに10月段階から、阻止闘争が全国的に呼びかけられ、列車の通過するすべての地方での実力抗議・阻止闘争、そして広範な住民への情宣活動が提起された。
 今回のカストールは、高レベルの核燃料廃棄物を積んでフランスを出発したが、沿線各地の抗議・阻止闘争によって、ゴアレーベンに到着したのは、92時間後であった。これは、前回2008年の「記録」を、13時間も上回るものであった。各地で、線路上にトラックが乗り入れられたり、線路が破壊されたりして、列車は立往生させられた。
 現地では、4000人のデモ隊が、44時間前から、シュラーフザック(寝袋)などを持ち込んで野営し、現場を占拠していた。1万6000人の警官隊が投入された。
 こうして、ゴアレーベンへの核燃料廃棄物搬入阻止闘争は、現地にとどまらない全ドイツ的な闘争として、メルケル反動政権に対して、ますます激烈に展開されつつある。
フクシマ原発事故とその後の破局的展開は、このような反原発闘争の高揚に対して、チェルノブイリにも比すべき巨大な衝撃を与えたのである。
(写真 線路上に座り込み、核廃棄物の運搬を阻止するデモ隊【2010年11月6日 ベルク】)

 □独反原発運動の主張

 ここで、冒頭に引用した『チェルノブイリ・フクシマ、原発との決別』の内容の核心的な提起に触れておこう。それは、@原発事故を、新自由主義のもたらした必然的な結果であること、Aそして、こうした破局的な事態が、世界大恐慌のただなかで起こっていること、B新自由主義は、「資本の暴走」を全面展開させ、いわゆるBRICS諸国をものみこんで、現在の世界危機を深刻化させていること、Cそして、フクシマの衝撃が決定的に激化させた危機を、グロ―バルな工業化(=新自由主義)、その最先端の「原発資本」の支配からの脱却として、好機に転ずる時だということ、Dそのためには、メルケル政権の原発政策の手直しのまやかし性を弾劾しつつ、「脱原発」を掲げながら、「原発資本」の利益に屈服し、利権にありついている社民党や緑の党の欺瞞を打ち破らなければならない――以上の点を、かなりきっぱりと打ち出している。
 このような見解が形成された背景は、やはり70年代以来のドイツの反核運動の現実的展開に他ならない。

 □東西分割下での70年代からの闘いの高揚

 ドイツの反原発運動の歴史を見る場合に決定的な歴史的条件は、戦後ドイツは、帝国主義とスターリン主義によって東西に分割され、階級闘争も分断されてきたこと、そしてその政治的経済的対立の軍事的軸が、NATOとワルシャワ条約機構の核武装的対峙・対決にあったという事実である。したがって、ドイツの反核運動は、60年代までは、反原発というよりは、「戦争か平和か」という問題に直面していたといえる。
 こうした中で、社民党(SPD)が、1959年に、「マルクス主義」を党綱領から削除するという歴史的改定を行ったが、その際、「原子力の平和的利用」という条項を入れた。これが原発建設として現実化するのは、1973年のオイルショック(石油危機)で、その後、「核エネルギーの開発」は、ドイツ帝国主義のEU基軸国としての展開の柱となっていく。
 しかし、実際に原発の建設が開始されると、住民の反対運動が爆発していった。最初の大衆的反核闘争の登場は、ヴュール(南ドイツ・バーデン地方)であった。1975年春、原発の建設予定地を数百人のデモ隊が占拠し、警官隊に排除されると、数日後にデモは数万人に膨れ上がり、数か月にわたって占拠闘争を継続したのだ。その結果、原発建設は中止に追い込まれた。
 この烽火を引き継いだのが、ゴアレーベンであった。ドイツ政府は、この地の岩塩層〔廃棄物の処理に適合しているとされた〕に目をつけ、ここに使用済み核燃料の再処理、廃棄物の処理と貯蔵、そして最終処分を行う〈総合的な核燃料リサイクルセンター〉を建設するという計画を1977年に発表したところ、ただちに抗議運動が、現地を中心に開始された。
 闘争は1979年に本格化し、闘争月間3月には、州都ハノーバーで行われた公聴会を、なんと10万人のデモ隊が全国から結集して包囲した。市内は反原発一色で埋め尽くされ、ついに州首相は、連邦政府に対し、計画の中止を申し入れざるをえなくなった。
 当時の社民党政権の首相シュミットは、再処理工場の建設を中心とする原案のままでの実施は断念したが、最終処理場建設のための岩塩層の調査は継続するとした。この結果、ゴアレーベン闘争は、いわば永続的な性格を持つこととなった。
 翌1980年に調査活動のためのボーリングが開始されると、現地住民は阻止闘争の拠点としてテント村を建て、「自由共和国」を宣言した。このテント村の強制撤去闘争は全ドイツに伝わり、ゴアレーベン闘争は一気に全国化することになった。
 83年には、反原発全国行進が州都ハノーバーへ向けて行われたり、300台のトラクターに乗った農民を先頭とした2500人のデモ、8・6ヒロシマ・デーには、「核の平和的利用も軍事的使用も反対」を掲げた国際連帯行動などが闘われていった。
 86年チェルノブイリ事故は、ドイツの反核・反原発運動に決定的な衝撃を与えた。広大なヨーロッパ大陸の地続きということから、直接放射能の影響を受ける、という問題だけではなく、現地で被曝した子どもたち数百人の治療を、ドイツの医師たちが引き受けた、というつながりが生じたのだ。ゴアレーベン現地の集会では、親たちと子どもたちが一緒になって、「東西の原発、即時廃止」を叫んだ。90年の東西ドイツ統一の動きの中で、ゴアレーベンでの反原発集会では、東ドイツからの参加者とともに、このスローガンが叫ばれた。
 現在に至る核燃料廃棄物輸送阻止闘争が本格的に開始されたのは、1995年の第1回カストール輸送の時からである。デモ・集会禁止、万を超える機動隊の投入という戒厳状態のもとでの「Xデー」(ゴアレーベンの中間貯蔵場への搬入の日)をめぐる闘争が、以後現在にいたるまで12回、闘われてきたのだ。
 今年は、大恐慌・大失業・フクシマ情勢、NAZENとの連帯の開始という状況のなかで、今年の11月が、日独反原発・反失業闘争の決定的な転機になろうとしている。 
 (川武信夫)
(写真 最終処分場建設計画と34年間闘っている市民運動活動家と全学連が交流【8月15日】)

------------------------TOPへ---------------------------

月刊『国際労働運動』(423号2-3)(2011/11/01)

News&Reviw

■News & Review 中国

大転機、7・23中国高速鉄道の大事故

大連・労働者大デモが歴史的な勝利かちとる

 □スターリン主義の危機と腐敗を露呈

 7月23日夜、中国浙江省温州市内で中国高速鉄道事故が発生した。落雷の影響で停止したとされる高速鉄道車両に、後ろから別の高速鉄道車両が追突し、4両が橋から転落した。中国高速鉄道史上、空前の惨禍となった。
 しかしこの事件について政府と鉄道省は真相隠しに躍起となり、今に至るも真相は明らかにされていない。
 何よりも死者の数が不明である。二転三転した政府の発表では死者は40人くらいとされているが、遺族がなんと800人以上もいる。死者1人に20人の遺族? こんなことはありえない。死者の数は少なくとも200人以上いないと、計算が合わない。
 だが、政府は正確な死者の数を発表せず、事実と異なる数字で事故を小さく見せようとし、さらにマスコミにも「政府発表以外の死者の数を発表するな」と通達さえ出している。さらに事故原因となるといまだ正確な発表はなく、真相は闇に包まれている。
 そして、こうした事故原因隠蔽を示す最大の事態が、事故車両の「埋葬」である。
 事故が起きた翌日の24日早朝、驚くべきことに鉄道省は早々と生存者の捜索を打ち切り、事故車両を破壊して、穴を掘って埋めてしまうという暴挙を強行した。香港の新聞は、埋められようとしている事故車両に生きている人間が写っている写真を掲載した。また実際に、生存者の捜索が打ち切られて以降、命令に従わなかった捜索隊が生きている幼児を発見している。中国スターリン主義はこの事故の真相を隠蔽するために、生存者の救出などまともにやらず、生き埋めさえも平然と強行したのだ。
 しかも、中国高速鉄道をめぐっては、鉄道省と資本が完全に癒着し、工事推進のために賄賂が飛び交い、その賄賂の見返りとして工事業者の手抜き工事がまかり通っているというのは、周知の事実である。この利権があるからこそ、全国で次々と今高速鉄道が建設されているとさえいえる。
 今回の事故の真相究明が進めば、こうした癒着の現実、腐敗の現実が満天下にさらされるのは必至であり、だから真相は絶対に明らかにされてはならないのだ。
 あるテレビ番組は、今回の事故車両「埋葬」問題から、過去の鉄道省の汚職事件の数々まで報道し、この事件の背後にあるスターリン主義官僚と汚職の問題を公然と示唆した。番組責任者は番組の最後で「処分されたとしても、ジャーナリストとして言わなければいけないことがある」と述べた。実際にこのジャーナリストはただちに処分されたが、この番組はネットでも次々と流れていった。
 中国高速鉄道事故は、このように中国スターリン主義の反動的な本質と底なしの危機と腐敗を全面的にさらけだした。そして中国の先端技術なるものの虚偽性・でたらめ性を暴露することとなった。それは中国の今の高成長・大国化の本質的な脆弱性の象徴とさえいえる。そして生き埋めも平然と行い、虫けらのように労働者の命を奪う本質、総じて中国スターリン主義体制の末期的な姿をこの事件は象徴的に示した。
 こうした中国スターリン主義のあり方を、この事件を通じて14億人の中国の労働者民衆は直接的に認識し、公然たる怒りの声を上げた。マスコミへの統制がきかなくなり、処分覚悟で事実を報道しようとするマスコミ労働者が次々と現れた。一方でネット規制も次々と書き込まれる情報に対応しきれなくなった。削除しても削除しても、新しく書き込まれる情報の方が圧倒的に多く、破綻してしまったのである。14億人の怒りと決起の前に、中国スターリン主義の治安体制の柱としてある情報統制自身も事実上崩壊してしまった。中国スターリン主義は7・23高速鉄道事件で、その支配の破綻を完全に暴露したといえる。
 こうして中国スターリン主義は、ジリジリと後退を強いられる状況に入っている。
(写真上 破壊され埋められる高速鉄道車両【7月24日】)
(写真下 高速鉄道事故に抗議する遺族たち)

 □7・23以降、続々とストに立つ労働者

  中国政府は追いつめられ、鉄道省が一度埋めた列車を掘り起こして政府への非難をかわそうとした。温家宝首相は「病気ですぐに来れなかった」としきりに言いわけをしながら現地を訪れて事故現場で献花し、遺族などの前で「真相究明」を約束せざるを得なかった。しかし1カ月以上たった今も、何ら調査報告は発表されていない。こうした中国政府の対応の中に、労働者階級は中国スターリン主義の「後退」という事態をはっきりとつかんだ。
 7・23中国高速鉄道事件以降、労働者のストライキは次々と爆発していく。

【杭州と上海でのタクシー労働者ストライキ】

 8月1日、杭州と上海でそれぞれタクシー労働者のストライキが闘われた。杭州では3分の2のタクシー労働者が争議に参加したと言われている。燃料費の高騰に抗議し、上納金の低減、タクシー料金の値上げ、さらに老後保障などを要求し、また余りに酷い道路の混雑緩和を訴えてのストライキであった。
 中国のタクシーは請負という形をとっており、会社と請負契約を結んで、売上金を上納している。つまり実質は労働者なのに形の上では個人営業とされ、徹底的に会社から搾取されている。燃料費も自己負担になる。老後保障などは一切ない。激しいインフレの下での燃料費などの物価高が彼らの生活を追いつめ、ストライキの爆発となった。
 杭州では2日に入ってタクシー労働者が国道近くの警察派出所を占拠し、国道104号線を封鎖して抗議をするというところまで闘いが発展している。激しい労働者と権力の実力闘争が闘われている。
(写真 上海のタクシー労働者のスト【8月1日】)

【貴陽市での衣料労働者ストライキ】

 8月2日には、貴州省貴陽市で、三五三五服装工場の労働者が、戦闘的なストライキに立ち上がっている。工場は、退職する労働者に320元(約4200円)の退職金しか払わず、現職労働者に対しては特別手当などの支給をとりやめた。さらに労働者が食事をとる食堂を民間業者に貸し出して風呂屋にしてしまうという暴挙! こうした攻撃に対しての工場の労働者は、ストライキに決起するとともに市の主要道路を封鎖した。市政府は武装警官を導入したが、労働者は一歩も引かずに抗議行動を貫徹した。

【安順市での暴動】

 7月26日には、貴州省安順市で城管(行政権力直轄の街の治安公務員)によって露天商が白昼公然と虐殺された事件をきっかけに、数千人の住民が決起し、武装警察と激突する事件が起きている。

【長沙での鉄道労働者ストライキ】

 さらに8月2日から、中国・湖南省長沙市の鉄道労働者がストライキに決起した。長沙機関区の全運転士300人以上がストライキに参加しており、スト継続のまま労働者100人以上が、北京の鉄道部へ上訴に行こうとした。
 このストライキは、中国の鉄道労働者の過酷な現実を示している。数カ月にわたって残業代が支払われない上、特別手当もなく、超過労働が続いて10日以上自宅に帰ることができない。会社全体が定めた運転士の労働時間は、1カ月に8・6往復相当の時間とされている。ところが実際には、彼らは13往復をさせられており、超過労働時間の賃金はピンはねされ、家に帰っても休息時間は短くて半日も休めない。奴隷的な現状に対する怒りが大爆発した。
 中国革命の原点には、1920年代の鉄道労働者の闘いがあり、彼らのストライキ闘争があった。その当時の鉄道労働者の過酷な労働の現実が、今またスターリン主義の労働者支配と搾取・抑圧のもとで再現され、歴史を超えて鉄道労働者が再び闘いの表舞台に、新たな中国革命の主人公として登場しようとしている。7月23日に起きた中国高速鉄道の大事故は、これを激しく促進しているのである。

 □全面勝利した大連の闘い

 8月14日、大連で歴史的なデモが闘われた。
 8月8日、台風の影響で大連市内にある福佳大化石油化工公司工場近くの防波堤が決壊、有毒物質が近隣に流れ出す危険が高まった。14日に、この有害物質が流出し汚染する可能性のある化学工場の操業の停止と移転を求めて、1
万人の大連の労働者・市民がデモに立ち上がり、市政府庁舎を包囲した。デモ隊は警察隊とも激しく激突し、これを撃退。さらにスローガンには「腐敗反対」などの政府を批判するスローガンも登場し、大連のデモは反政府デモになっていった。
 これに恐怖した大連市政府は、デモ発生からわずか7時間後に「化学工場の操業停止と移転」を確約する。このような対応は、中国スターリン主義においてはまったく異例の事態であり、7・23高速鉄道事故をきっかけにして、それ以降激しく噴出している労働者民衆の怒りに中国政府自身が心底恐怖し、譲歩せざるを得なくなっていることを示している。
 この大連で起きた事態は、歴史的な事態といえる。中国の労働者民衆は、この事件で「闘えば勝てる!」という確信をつかんでしまった。すなわち、今まで中国の労働者民衆の闘いを実体的にも心理的にも封殺してきた天安門大弾圧体制が、核心的な部分で破綻し、その壁をぶち破って決起し勝利できる展望を、この事件で中国の労働者民衆がつかんでしまったのだ。これは決定的なことでる。
 したがって7・23中国高速鉄道事件と8・14大連大デモは、中国の階級闘争の歴史的な転換点になった事件であり、日本の3・11原発事故に匹敵するような意味を持っている。7・23情勢下での新たな階級闘争への突入である。
 その後も中国では次々と暴動的事態が発生している。
・8月26日には無錫で商業地域の取り壊しと売却に反対して1000人のデモが発生。この取り壊しで5万人の失業者が出るといわれており、「私たちは食べなければいけない、生きなければいけない」という横断幕を掲げてデモを闘っている。周辺でビデオを撮っていた少年が警察によって虐殺されたという報道もあるが、デモ隊の表情は勝利感に満ちている。
・杭州でも8月23日、幹部の不正に抗議してデモをし、警察隊の弾圧をかわすために2
000人がデモで警察隊と激突している間に、別働隊40
0人が市政府前に結集するという陽動作戦を展開し、堂々と抗議闘争を行った。
・さらに9月3日には、珠海の手袋工場の経営者が50人の労働者の2か月分の賃金2万元を支払わないまま会社の資産をすべてもって夜逃げしたことに抗議して、道路を封鎖して賃金の支払いを要求する闘いを逮捕者を出しながら決行している。
 一方で中国スターリン主義のウイグル支配も大きな揺らぎを見せており、こうした事態も含めて労働者階級の闘いが一切を決する事態に入っているのである。7・23高速鉄道事件を歴史的な転回点として、新たな激動過程に突入した中国の労働者階級の闘いとの連帯をかけて、11・6労働者集会の1万人結集をかちとっていこう!
 (河原善之)
(写真 1万人の労働者・市民がデモに立ち上がり、警察隊と激突【8月14日 大連】)

------------------------TOPへ---------------------------

月刊『国際労働運動』(423号3-1)(2011/11/01)

(写真 反原発全国一斉行動で1万人がデモ行進。「すべての原発いますぐなくそう!全国会議【な全】」が牽引した【9月11日 新宿】)

特集

■特集 原発再稼働阻止・11月労働者集会へ

 はじめに

 9・11―19反原発全国一斉行動は、19日明治公園の6万人大結集を始め全国約100カ所で10万人が立ち上がった。反原発闘争は完全に新たな段階に突入した。全原発停止・廃炉、再稼働阻止の闘いが猛然と火を噴いている。地の底から沸き上がる原発への怒りを職場に持ち込み、闘う労働組合をよみがえらせれば、原発は絶対に止められる。青年労働者・学生の闘いが決定的だ。「反原発・反失業11・6日比谷大集会」に集まり、原発を止めよう。
 第1章は、内部被曝・低線量放射線が、人々に数年、数十年の時を経てガンなどの病気と死をもたらす危険性を提起している。第2章は、「核の平和利用論」の批判。核を基軸とする戦後世界体制からそれがいかに成立・展開してきたのか、日本共産党の裏切りを含めて全面的に明らかにしている。第3章は、核・原発を推進してきた御用学者を徹底断罪している。

■第1章

 低線量内部被曝の重大性 ―全原発の即時停止・廃炉を

 ■原発再稼働のための被曝隠蔽

 東京電力福島第一原発事故発生の3月11日から半年が過ぎた。しかし、10万人の住民がいまだ避難生活を強いられ、事故の収束もめどがたたず、放射能がたれ流されている。世界原発事故史上、類例のない4基もの原発の爆発によって、大量の放射能(「死の灰」)が空や海へ撒き散らされた。その量は、経産省原子力安全・保安院の資料によるとセシウム137の場合、広島原爆168発分になる。溶融した核燃料は「炉の詳細な状態がわからない」(東電)と現状が確認されておらず、水蒸気爆発・臨界核爆発の危機も否定できない中で、事故現場にはまだ広島原爆数千発分の膨大な放射能が燃え残っているのだ。
 さらに広範囲にわたる放射能汚染の実態が日毎に明らかになってきている。除去された汚染土は行き場のないまま増大する一方で、主食の米をはじめとする食品の汚染問題が深刻さを増している。子どもに対する20_シーベルト、原発事故現場で作業する労働者に対する250_シーベルトという、殺人的被曝基準が、今もなお強制され続けている。
 福島原発事故がもたらしたこのような事態を見れば、全原発の即時廃止しかありえないことは、明々白々ではないか。
 だが、野田新政権は原発再稼働を宣言した。絶対に許せない。労働者人民の怒りは燃えさかり、9月11日には全国で4万人が反原発闘争に一斉決起し、同19日には東京・明治公園で6万人が大挙結集し再稼働阻止・全原発廃絶の巨大な狼煙をあげた。資本主義打倒に向かって青年労働者を軸に労働者階級人民の根底的・歴史的決起がついに始まった。
 その対極で、反原発の大反乱に追いつめられ革命の恐怖におののく日帝国家権力・原発推進勢力は、労働者階級人民の敵としての正体もむき出しに密集し始めた。9・11デモの12人の不当逮捕が示すように、なりふり構わぬ治安弾圧に打って出てきている。同時に、福島現地を主対象に、被曝実態の大がかりな隠蔽策動に走り始めているのだ。
 福島県民に対する「健康調査」の開始、さらに9月11〜12日の福島県立医大での「放射線と健康リスク」国際会議は、国内外の原発推進機関・人員を寄せ集め、200万福島県民を対象に被曝データを収集・独占する、それをもとに被曝を否定ないし徹底的に過小評価して原発再稼働・核政策続行を狙うという反革命宣言以外の何ものでもない。福島県労組交流センターをはじめ福島の労働者人民は、この憎むべき国際会議に怒りの抗議を断固たたきつけた。
 ヒロシマ・ナガサキ、ビキニ、チェルノブイリで核の戦争と実験と事故によって人民を被曝させるばかりか、人体実験のモルモットにさえして「放射能が人体に及ぼす影響」のデータを採る、そして被曝実態を隠蔽する。このような極悪な手法が、ただただ原発再稼働・核武装化推進の目的のためにだけ、日帝支配階級によって福島の地に持ち込まれようとしているのだ。その先兵になっているのが、「100_シーベルトの積算線量で、リスクがあるとは思っていない」「内部被曝の方が10分の1リスクは少ない」などと大ウソをつく御用学者・山下俊一である。絶対に許せない!

 ■ヒロシマ・ナガサキと残留放射能

 帝国主義戦争の大量破壊・大量虐殺の決定的武器として、第2次世界大戦の渦中で原爆開発競争が始まった。原爆の材料であるウランやプルトニウムは、放射線を出し人体を殺傷するきわめて毒性の高い物質である。米帝は、放射性物質の軍事利用、すなわち、放射能で食品を汚染させ、50万人を殺す計画も立案していたのだ。
 また、原爆をつくったロスアラモス国立研究所を拠点にしてマンハッタン計画の医学班のもとで、プルトニウムを人体に注射しその動向を調べる内部被曝の人体実験が行われた。その対象になったのは米国内の病院の患者(4歳の子どもも含まれていた)で、1944年から始められ、戦後も続けられた。プルトニウムの量を調べるため血液・排泄物が採取され、死亡した患者は、解剖され内臓・肋骨などが切り取られた。遺体発掘まで要求することに対し、多くの近親者は怒りをもって拒否した。
 そして原爆の材料・プルトニウムを生産するハンフォード核施設では、多数の労働者と周辺住民が被曝し、広範囲にわたって放射能汚染が今も続いている。
 米帝は、1945年8月6日広島に、9日長崎に原爆を投下した。日本を占領した米軍は、「米日合同調査団」をつくり、日本の科学者・医学者たちをも調査団に組み込み、大規模な原爆調査を推し進めた。その目的は、原爆の破壊力と殺傷力の効果を詳細に調べ上げ、対ソ連を軸とした戦後世界支配の決定的武器として原爆を独占していくことにあった。とりわけ放射能による被曝データの収集は、米帝にとって最重要の機密資料となった。
 原爆は、熱線や爆風のみならず放射能による新たな大量虐殺兵器として初めて戦争に使用された。放射線の殺傷力を調べるために、数十万の広島・長崎の被爆者がターゲットにされた。米国内で開始された放射能の人体実験が、被爆地広島・長崎で大規模な形で行われていった。それは、被爆者へのモルモット扱いの検査強行(「検査するだけで治療は一切なし」)で悪名の高いABCC(原爆傷害調査委員会)に引き継がれていく。現在、福島県民に対する「健康管理調査」に名を連ねているのが、このABCCの後継組織である日米共同機関・放射線影響研究所(放影研)だ。
 占領直後の1945年9月6日、マンハッタン計画の副責任者である米軍准将のトーマス・ファーレルは、「広島・長崎では、死すべき者は死んでしまい、9月上旬現在において、原爆放射能のために苦しんでいる者は皆無」と暴言を吐いた。また、被爆調査団のスタッフとしてプルトニウム原爆炸裂後の長崎に来たスタッフォード・ウォーレンは、「残留放射能とがれきの放射能はいかなる犠牲者も生まなかった」と言い放った。
 当時、原爆症で地獄の苦しみの中にいた無数の被爆者の存在を全面否定したのである。45年末までに広島で14万人、長崎で7万人が死亡した。肉親探しなどで入市し、残留放射能が原因で多くの人が亡くなっている。日帝の植民地支配によって渡日を余儀なくされたり、強制連行され軍事工場で働かされた朝鮮人も被爆し、数万人が亡くなっている。その後も、原爆の後遺症で死亡し苦しんでいる人々がたくさんいるのである。
 にもかかわらず、ファーレルのでたらめな見解をそっくり踏襲して、1968年に日米両政府は国連に「被爆者は死すべき者はすべて死に、現在では病人は一人もいない」という原爆被害報告を提出した。そしてこの見解は200
3年の「原爆症認定集団訴訟」提訴時にも日帝政府に継承されていた。
 これが帝国主義の基本認識なのだ。
(図 被曝を無視・過小評価する核推進側の見解)

 ■ビキニで放射能の人体実験

 1953年12月に米大統領アイゼンハワーは、「アトムズ・フォー・ピース」(原子力の平和利用)を宣言した。対ソ核戦争体制のもと核配備を続行し、ビキニ環礁などでの核実験を繰り返しつつ、濃縮ウランと原発の売り込みに乗り出す。改進党の中曽根康弘を先頭に独自の核武装化を狙っていた日帝支配階級は、原発導入に向け、翌年3月2日、原子力予算案を国会に提出し成立させた。
 その前日の3月1日、米帝は太平洋のビキニ環礁で広島型原爆の1000倍もの破壊力をもつ水爆実験を強行した。それは放射能の人体実験でもあった。地元マーシャル諸島全島に「死の灰」が降り、多数の島民が被爆した。また周辺海域で操業中の第五福竜丸など1000隻の日本の漁船も被爆した。米軍は水爆実験で大量の「死の灰」が発生し、風が島民の住む島々の方向に吹くことを事前に知りながら、ロンゲラップをはじめ四つの環礁の住民に警告もせず避難措置もとらず、被爆するままに強制したのだ。実験の3日後、ロンゲラップ島の住民64人全員は、米軍によってクェゼリン環礁に強制的に移住させられた。
 その後、マーシャル諸島人民に対して、米帝は「医療ケア」とはまったく逆の「プロジェクト4・1」という名の人体研究を行っていく。毎年AEC(米原子力委員会)から派遣された医者が、島民の血や尿や髪などを採って帰った。ロンゲラップ島の住民などをモルモット扱いして40年以上の長期間、「放射能の人体に及ぼす影響」を追跡調査していったのだ。ヒロシマ・ナガサキと同様に、検査だけして治療はしなかった。島民から収集した被爆データは、当初はAECに、後にはその後継組織・DOE(米国エネルギー省)の健康研究室に集中管理された。
 水爆実験から3年経た1957年に米帝は、高い残留放射能が残っているロンゲラップ島に対する「安全宣言」を出し、他島に移住させられていた住民を帰還させた。
 「被曝した人々の親類などで、事故の時島を離れていた100人以上のロンゲラップ住民のグループが、被曝住民と一緒に島に戻され、研究用の理想的な比較集団として貢献した」「ロンゲラップ島の放射能汚染は、人間の住居には安全だとしても、その水準は、地球上の人の住むいかなる地域よりも高い。この島に人々が住むことは、人体への放射線に関するきわめて貴重な生態学上のデータを提供するであろう」(AEC『コナード報告』)
 島民は、水爆実験直後の被曝に加え、帰島後に放射能で汚染された水や魚や果実などを体内に摂取して、甲状腺傷害や白血病、流死産が多発した。このままでは全島民が放射能で殺されてしまう危機感をもった島民は、1985年にロンゲラップ島を脱出し、他の島へ移住した。それまでの28年にもおよぶ長期間、米帝は内部被曝のデータを島民からとり続けたのである。
 このような米帝の人体実験の凶悪きわまる犯罪行為に対し、マーシャル諸島人民は、核実験即時中止と健康被害補償を要求し闘い続けてきたのである。

 ■内部被曝を隠す帝国主義

 ここまでヒロシマ・ナガサキ・ビキニにおける米帝による放射能の人体実験と被曝隠しについて述べてきた。同じことが今、日帝によって福島で行われている。
 米帝は、内部被曝が、低線量でもガンや白血病などの晩発性の病気を発症させ命を奪うことを知っていた。ゆえに帝国主義者は、内部被曝を一貫して否定してきた。それを認めたら広範な内部被曝を不可避とする核政策が不可能になるからだ。
 広島、長崎、ビキニ、スリーマイル、チュルノブイリ、そして核・放射能がもたらす災厄、内部被曝がもたらす疾患に対して、政府の責任を追及する闘いが続いてきた。核・原子力の廃絶を求め、帝国主義の存立基盤である核・原子力政策を存亡の危機に追いやってきた。
 帝国主義は福島で、核政策を護持するために「内部被曝は問題ない」「低線量被曝は問題ない」と大ウソをついている。事実は逆に、低線量の放射線を長時間放射する方が高線量の放射線を瞬間的に浴びるよりも簡単に生体細胞を破壊するという「ペトカウ効果」が明らかになっている。

 ペトカウ効果

 ペトカウ効果について、『内部被曝の脅威』(肥田俊太郎/鎌仲ひとみ著)を参考にして述べてみたい。
 カナダの医師で生物物理学者であるアブラム・ペトカウは1972年、カナダ原子力委員会のホワイトシュル研究所で、まったくの偶然から次のような大発見をした。
 それは、「液体の中に置かれた細胞は、高線量放射線による頻回の反復放射よりも、低線量放射線を長時間、放射することによって容易に細胞膜を破壊することができる」ことを実験で確かめた。
 ペトカウは牛の脳から抽出した燐脂質でつくった細胞膜モデルに放射線を照射して、どのくらいの線量で膜を破壊できるかの実験をしていた。エックス線の大装置から260_シーベルト/分の放射線で、全量35シーベルトを照射してようやく細胞膜を破壊することができた。
 ところが実験を繰り返すうち、誤って試験材料を少量の放射性ナトリウム22が混じった水の中に落としてしまった。燐脂質の膜は、ナトリウム22からの0・01_シーベルト/分の放射線を受け、全量7ミリシーベルトを被爆して破壊されてしまった。そして放射時間を長く延ばすほど、細胞膜破壊に必要な放射線量が少なくて済むことを確かめた。
 こうして、「長時間、低線量放射線を照射する方が、高線量を瞬間放射するより簡単に細胞膜を破壊する」ことが証明された。
 放射線の人体に対する影響の医学的解明を阻んでいた、放射線に対する細胞膜の壁が突破された。「低線量の内部被曝は危険ではない」との論拠がここに打ち破られた。

 ペトカウ効果と疾患

 人体の細胞はすべて体液という液体に包まれている。体内の放射性物質から照射されるアルファ線、ベータ線などの低線量放射線は体液中に浮遊する酸素分子に衝突して、電気を帯びた活性酸素に変化させる。荷電して有害になった活性酸素は、電気的エネルギーで内部を守っている細胞膜を破壊し、大きな穴を開ける。
 その穴から放射性物質が細胞内に飛び込み、細胞内で行われている新陳代謝を混乱させ、細胞の中にある遺伝子に傷をつける。遺伝子を傷つけられた細胞が死ねば何事も起こらないが、生き延びると細胞は分裂して、同じところに同じ傷を持つ細胞が絶えず生まれ変わって生き続け、何らかの機会に突然変異を起こす。細胞が内臓、諸臓器を構成する体細胞なら白血病、ガン、血液疾患などの慢性疾患を起こして死に至る。生殖に関わる細胞なら代々、子孫の生殖細胞に傷が受け継がれ、何代目かの子孫に障害を発生させる。
 これがペトカウ効果説が明らかにした低線量放射線の内部被曝の構造である。

 ペトカウ効果の発展

 ピッツバーグ大学医学部放射線科のスターングラス教授は、ペトカウ説を基礎にして研究を深め、以下の結論に到達した。
・放射線の線量が非常に低い低線量域では生物への影響はかえって大きくなる
・低線量放射線の健康への危険度はICRP(国際放射線防護委員会)が主張する値より大きく、乳児死亡の倍になる線量は4・5_シーベルトである
・アメリカや中国の核実験の放射性降下物によって乳幼児の死亡率が増加した
・放射性降下物に胎児期被爆した子どもに知能低下が生じた
・スリーマイル島原発事故によって放出された放射能によって胎児死亡率が増加した
 これに対して、アメリカでは数々の反論が行われた。
 だが肥田俊太郎氏は、「広島・長崎で爆発後市内に入市した多数の内部被曝者を長年継続して診てきた私は、彼らの経験したいわゆる『急性症状』と、数カ月から数年、十数年後に彼らの発症したぶらぶら病症候群は、内部被曝による低線量放射線の影響と診るのが最も良く説明できる」とペトカウ説を断固支持している。
 さらに『ペトカウ効果』の著者であるラルフ・グロイブは、次のことを明らかにした。
・ペトカウ効果は病気に対する抵抗を担当する細胞に障害を与えることを証明した。このことは感染の危険の増加を意味する。子宮内で育ちつつある胎児の免疫組織はまだ十分に発育していないので、特に侵されやすい
・低線量の放射線は、最終的には以前に予想もしなかった損傷を起こしてしまう。これにはインフルエンザ、肺炎などの感染症、その他加齢による病気、肺気腫、心疾患、甲状腺疾患、糖尿病などが含まれる。発育する胎児への脳障害は特に深刻である
・死の灰や原発放射線に起因する危険の増加を示す多種多様な統計資料が過去にあったが、ペトカウの発見以前はそれらを説明することができなかった。
 1950〜89年の40年間にアメリカの婦人(白人)の乳ガン死亡者が2倍になっていたことが公表された。政府はその理由を「石油・化学産業の発展による大気と水の汚染」と説明した。
 この説明に統計学者のグールドは不信を抱き、全米3053郡の40年間の乳ガン死亡者数を分析し、増加している1319郡を割り出し、それらの郡が原子炉から100以内にあることを突き止めた(図参照)。
 原発から漏れ出ている低線量放射線が、周辺住民(婦人)の健康を蝕んでいることが全米規模で実証されたのだ。
 福島県民200万人を対象にした長期に及ぶ大規模な「健康調査」は、広島・長崎の被爆者をモルモット扱いにしたABCCの後継組織・放影研と連携し、国連の核政策推進機関・IAEAと連携して行うと言っている。ヒロシマ・ナガサキ・ビキニを繰り返すな! 労働者人民の健康・生命を原子力に従属させ、あまつさえ核の人体実験にまで手を染める帝国主義を労働者階級人民の怒りでぶっ倒そう! 団結して全原発の廃炉を絶対にかちとり、日帝の核武装を阻止しよう。
(写真 黒く塗られた郡が、近くに原子炉があり乳ガンの死亡者が多い)

■第2章

 「核の平和利用」論批判 ―戦後世界体制と核・原発

 「核の平和利用賛成」を公然と打ち出した日共

 日帝・野田政権は、湧き起こる反原発闘争を圧殺して原発再稼働へ突進しようと反革命的本性をむき出しにしている。日本経団連と連合幹部は、口を揃えて「産業・経済のために原発は必要だ」などと主張し、労働者の雇用を盾にあくまで原発を維持しようと必死になっている。
 連合幹部や社民党・共産党などの「脱原発」には、フクシマの怒りと連帯する立場も、放射能汚染の現状に立ち向かう決意もない。8月25日付毎日新聞紙上での社民党・福島と共産党・志位の対談では、共産党は「5〜10年以内に」、社民党は「2020年までに」原発ゼロをめざすと言うが、当面の再稼働を絶対阻止する方針もない。
 とりわけ志位は「核エネルギーの平和利用の将来にわたる可能性、その基礎研究までは否定しない」と主張し、改めて「核の平和利用賛成」の立場を公然と打ち出した。原発が安全でないのは、あくまで「現在の科学と技術の発展段階」での話だと言うのだ。
 『前進』2504号坂本論文で暴露されているように、そもそも日共は「平和利用賛成」の立場から一貫して原発を推進してきた。要するに「科学技術が発達すれば原発は安全になる。だから、もっと核の開発・研究を進めろ」という立場であり、原発推進派の言う「福島を教訓にして、日本が率先して安全な原発を開発すべき」との主張と寸分の違いもない。しかも原発事故の原因を「科学技術の未発達」に解消し、事故を起こした国家・資本の責任をとことん免罪するものでしかない。現に事故によって被害を受け、命を脅かされている人々のことも、これまで原発労働によって被曝を強制されてきた数十万の労働者のことも、まるで眼中にない。
 何より、この「対談」における福島と志位の態度は、かつて日共の「ソ連の核はきれいな核だ」という主張をめぐって社共が泥仕合を演じ、原水禁運動を分裂に追い込んだ過去を何一つ反省せず、党利党略の醜悪な争いを続けていることを示している。社民党・福島に至っては、菅に「脱原発議員としてばりばり一緒にやっていきましょう」と秋波を送っている始末だ。
 このような既存の勢力が、早晩破産を突きつけられるのは明白だ。今こそフクシマの怒りをわがものとし、これまで反核闘争に混乱と分裂をもたらしてきた「核の平和利用」の欺瞞を打ち破り、一切の核・原発の廃絶に向けて闘いの前進を切り開いていかなくてはならない。
 そのためにも、反原発闘争を日本革命の戦略的課題としてはっきり位置づけることが決定的に重要である。本章では、戦後世界体制と帝国主義の核政策について捉え返し、「核の平和利用」論への批判を通じて、反原発闘争の革命的意義を明らかにしたい。

 戦後世界体制と核

 核エネルギーは、第2次大戦末期、米帝による広島・長崎への原爆投下をもってその恐るべき姿を人類の前に現した。それは、帝国主義戦争のもっとも凄惨で犯罪的な帰結であるとともに、核によって世界を支配する戦後政治の出発点であった。
 米帝を基軸とする戦後の帝国主義世界体制は、一方におけるドル・ポンド国際通貨体制の確立と、他方における帝国主義軍事ブロック=集団安保体制の形成とを両軸として成立した。それは、大戦終結と同時に世界中(とりわけアジア)で爆発した戦後革命を暴力的に圧殺し、帝国主義とスターリン主義の「平和共存」体制のもとに全世界人民を力ずくで組み敷いていく過程であった。
 ここにおいて、米帝の世界支配政策の決定的な威圧手段をなしたものこそ、核兵器の独占とそれに基づく核戦略体系であった。広島・長崎への原爆投下という歴史的大犯罪は、全世界とりわけソ連をはじめとするスターリン主義圏に対し、米帝の圧倒的な軍事的優位を誇示し、それをテコに帝国主義への屈服を迫るとともに、戦後革命に立ち上がる各国の労働者人民を威圧・制圧することを狙った一個の巨大な反革命としてあった。
 だが、その後ソ連の原爆保有(49年)により米帝の核独占は破られ、以後米ソを軸に果てしない核軍拡競争が起こり、原水爆実験の激烈な応酬が展開されるようになった。これに対し、50年のストックホルム・アピール(全世界5億人が署名)を皮切りに世界規模で反核闘争が爆発した。日本では、朝鮮戦争下の超厳戒体制のもとで広島の被爆者が決死の反戦反核闘争に立ち上がった。労働運動は米占領軍の思惑に反して「左旋回」し、全国的な反戦闘争を展開した。さらに、54年3月ビキニ事件を契機に原水禁運動が始まると、55年8月の第1回世界大会までに国内3000万筆、世界6億筆の署名が集まった。
 世界支配の手段としての核が、逆に帝国主義の支配を脅かす反戦反核闘争の高揚を生み出したのである。

 「平和利用」論の登場

 ソ連の核保有により核独占を打ち破られ、国際的な反核闘争の高揚と非難の声に追いつめられた米帝は、従来の核政策からの決定的な転換を迫られた。そこで打ち出されたのが、53年12月のアイゼンハワー国連演説に端を発する「核の平和利用」である。
 その内容は、@国際原子力機関(IAEA)の設立、A各国政府から供出された核物質のIAEAによる管理・貯蔵・防護、BIAEAを通じての核の平和利用の推進、というものであった。だが、米帝自身は核兵器の開発・使用をやめる意図はまったくなく(ビキニ水爆実験はそのわずか3カ月後だ!)、むしろ「平和利用」の美名で核政策を正当化し、核独占を維持し、他国の核政策をも米帝の監視・統制下に置くことを目的としたものだった。
 このように「核の平和利用」とは、世界中の人々の核廃絶の訴えを踏みにじり、「核との共存」を全世界人民に強制する攻撃以外の何ものでもなかった。それは時期的にも戦後革命の圧殺――とりわけアジアを中心とする革命的動乱をヤルタ=ジュネーブ体制の枠内に最後的に収拾していく過程と完全に重なっており、その意味で一個の決定的な反革命に他ならない。
 さらに、いまひとつ重要な問題は、「核の平和利用」が米帝の集団安保戦略としてあるということだ。すなわち、米帝は54年2月の特別教書で核物質・核関連技術の提供を「二国間ベース」で行うことを表明、相手国との間で原子力協定を締結し、原子力や軍事の情報交換、原発事業への米民間企業の進出、核物質の放出などを行う方式をとった。「平和利用」と称する二国間協定を通じて、事実上の核軍事同盟が形成された。

 日帝の原発政策と核武装の野望

 アイゼンハワー演説を受けて、日本では中曽根康弘、岸信介、正力松太郎(元読売新聞社主)らが中心となり、原発導入を開始した。それは、ビキニ事件を受けて高揚する原水禁運動を「平和利用」の名の下に鎮静化させ、日本の核武装化へ道を開くことを狙ったものだった。中曽根による原子力予算の成立(54年)に始まり、「自衛のためなら日本は核武装できる」と公言する岸政権が、59年に黒鉛炉原発の導入を閣議決定した。黒鉛炉は「発電用に使っても核兵器用プルトニウムを年間10`グラム作れる」と69年の防衛庁安全保障調査会報告書にも明記されている代物だ。
 昨年10月の放送されたNHK番組『核≠求めた日本』では、日帝が60年代後半に水面下で核武装化を画策し、同じく核武装化を狙う西ドイツの外交官と極秘で協議していたことが暴露された。そこでは、「日本は憲法9条があることで、平和利用の名のもとに誰にも止められることなく原子力の技術を手にした。日本は核弾頭を作るための核物質を抽出することができる」と断言する日本側の驚くべき発言が記録されている。事実、69年の極秘外交文書では「当面核保有しない政策を採るが、核製造の経済的・技術的潜在能力は常に保持する」と明記されていたのだ(「わが国の外交政策大綱」2010年11月公開)。ここでも、「核の平和利用」は核武装を準備する体のいい隠れみのにすぎないことが、あからさまに述べられているのである。
 なお、番組内で当時の内閣調査室主幹がはしなくも語ったように、日本の核武装化への踏み込みは「安保騒動以上の騒ぎになる。内閣の一つや二つすっ飛ぶ恐れがある」というほどの政治危機をもたらすものだった。日帝の公然たる核武装化を根底的に阻んできた力は、60年安保闘争、70年安保・沖縄闘争を頂点とする日本の労働者人民の闘いであった。
 80年代の中曽根政権の登場と新自由主義攻撃の全面化は、まさにこうした階級的力関係の大転換をかけた反動的挑戦であった。国鉄分割・民営化で労働運動の中枢を破壊し「お座敷をきれいにして憲法を変える」ことを階級的使命として登場した中曽根は、「下北半島を原子力のメッカに」とぶち上げて六ケ所村核燃料サイクル施設の建設に着手、87年には日米原子力協定を改定した。核兵器級プルトニウムの抽出を可能とする核燃料サイクルは、従来の原子力政策からの決定的飛躍であり、その技術や施設を持っていること自体が潜在的核武装力に他ならない。現在、日帝は国内だけで核兵器1250発分に相当するプルトニウム10dを保有している。
 いまひとつ重要なことは、この核燃料サイクル計画が日帝の死活をかけたエネルギー戦略、資源争闘戦戦略としてあったということだ。すなわち、74〜75年恐慌とオイルショックの直撃を受け、「石油を確保できない帝国主義」としての致命的な脆弱性をまざまざと突きつけられた日帝は、他の帝国主義に対抗しうる新たなエネルギー政策として、核燃料サイクルを独力で確立することに活路を見出そうとしたのである。
 今日、核燃料サイクル計画は、その絶望的な技術的困難性と非経済性ゆえに欧米諸国でさえ撤退しているが、日帝だけはなお「力ずくでも進めていくべき課題」(2001年経産省エネルギー庁長官の発言)だとして、異常な執念をもってしゃにむに推進していくことを国家戦略としているのである。
 以上のように日帝の核政策は、すべて「核の平和利用」の建前のもとに行われてきた。はっきりさせておきたいのは、「核の平和利用」とはあくまでも帝国主義の政策だということだ。徹頭徹尾、帝国主義国家とブルジョアジーが自らの利益と階級支配の維持のために「利用」するものでしかなく、その「利用」自体がどこまでも反労働者的・反人民的な所業に他ならないのである。
 そもそも核という恐るべき破壊力が、帝国主義(ブルジョアジーとその政治委員会)の手に握られていること自体が問題なのであって、これをどういう建前で「利用」するかが問題の核心ではない。戦争を不可避とし、絶えず戦争を続けてきた帝国主義の支配のもとで、核という巨大な破壊力が「平和的に利用」されうるなどと考えること自体、まったくの幻想である。また、たとえ兵器転用がなかったとしても、すでに日本では40〜50万人ともいわれる労働者が原発で被曝労働を強制されてきたのであり、こんなものを「平和利用」だと認めるような思想は断じて労働者階級の立場ではない。日本共産党のように「平和利用なら賛成」などという主張は、帝国主義の核政策に対する綱領的屈服であり、「平和利用」の名のもとで展開される一切の核戦略を容認・推進するものでしかないのである。
 反原発闘争は、日帝の死活をかけた国家戦略としての核・原発政策の放棄を迫るものであり、それ自体が日帝打倒の革命闘争として発展せざるをえない。原発にすがることでしか延命できないブルジョアジーの存在は、もはや人間の生きる社会とは相いれない。「反原発×反失業」を真正面から掲げる階級的労働運動の新潮流を11・6労働者集会1万人結集の力でつくり出し、プロレタリア革命の血路を切り開こう。
(写真 六カ所村の「核燃料サイクル」施設)

■第3章

 原発御用学者を許すな ―新自由主義・民営化粉砕

 日本に54基もの原発を建設し、福島原発事故を引き起こした政府・東電。これは「専門家」として「安全」とお墨付きを与えてきた御用教授の協力なしにはあり得なかった。御用学者と大学の腐敗を断罪する。

 福島原発事故の犯罪者達

◆事故後も「大丈夫」とデマ宣伝・関村直人

 事故直後からたびたび「原子力工学の専門家」としてNHKに出演し、水素爆発後も「問題ない」と断じ、「メルトダウンはあり得ない」などと繰り返してきたのが関村直人(東京大大学院工学系研究科教授)だ。そのすべてが事実を隠蔽するための大ウソであったことは今や完全に明らかになっている。
 そもそも、関村は東電や三菱重工などの原発関連企業から金を受け取り、原発推進の研究をしてきた輩(やから)であり、福島原発事故を引き起こした大犯罪人だ。
 福島第一原発1号機は11年3月26日に設計寿命の40年を迎えている。しかし今年2月7日、原子力安全・保安院は今後10年間の運転継続を認可した。その技術評価を専門家として行ったワーキンググループの主査が関村だ。その直後、福島原発事故は起こったのだ。その報告では「高経年化対策上着目すべき経年劣化事象」「耐震安全性を満足しない結果」を認めながらも、運転継続を許可している。
 しかも、昨年8月に福島第一原発1号機への立ち入り検査まで行っているのだ。事故直前に福島原発の危険性を認識しながら「安全」だとお墨付きを与えていたのだ。さらに、07年中越沖地震の際も、経産省のワーキンググループ主査として柏崎刈羽原発の再稼動を推し進めた張本人でもある。大学の権威を使って、「安全」と大ウソをつき続けてきた大犯罪人だ。

◆グロテスクなまでの腐敗の極致・鈴木篤之

 核燃料サイクル推進派の筆頭・鈴木篤之(東大名誉教授、大学院工学系研究科教授、日本原子力研究開発機構理事長)は、今年4月1日付の文書で「原子力は国民の生活に不可欠なエネルギー源」「原子力機構は、『もんじゅ』をはじめとする原子力エネルギーに関する研究開発を中心に……原子力エネルギーのさらなる飛躍に挑戦していきます」などと公言している。昨年8月の就任あいさつでも「原子力技術」「もんじゅ」の推進を掲げていたが、原発事故直後においてもほんの少しの反省もない。根っからの原発推進学者なのだ。
 この鈴木、実は原子力安全委員会委員長の前任者(現委員長、班目春樹)でもある。09年5月には、その委員長として「原子力発電の安全に携わっている多くの人は最善を尽くしており、改善の余地はあまりない」「リスクは客観的なようで、ある種の割り切り」「日本の事業者は世界トップレベルなのだから自信を持つべき」などと語っている。そして、09年11月には福島原発の耐震性について「安全」のお墨付きまで与えていたのだ。
 そもそも鈴木は、自身の著書やインタビューなどでプルトニウムの有用性や安全性を擁護している「プルトニウム信奉者」だ。こんな輩が原発を規制する機関と原発を推進する機関の代表者を歴任している。まさに、「原発ムラ」のグロテスクなまでに腐敗した姿を体現する人格だ。

◆原発の危険性は「割り切り」・班目春樹

 鈴木の後を継ぎ、10年に原子力安全委員会委員長に就任したのが、東大教授出身の班目春樹だ。福島原発事故の際、政府側の「専門家」として対応した人物だ。しかし、「水素が発生しても、格納容器の中だけで、建屋に出ていかないので大丈夫」などとデタラメな対応を進めた。
 班目は、05年にインタビュ
ーに答え、「原子力発電所を設計した時には、応力腐食割れなんて知らなかった」と原発が技術的に確立されていないことをあけすけに認めている。そして、「原発は儲かる」「最終処分地の話は結局お金」「2倍払いましょう。それでも手を挙げないんだったら5倍、10倍払いましょう。どこかで国民は納得する」などと人間を見下し、すべて金で解決できると放言している。こんな奴が原発の「安全」を守る責任者になるなど、本当にふざけきった話だ。
 さらに07年2月、浜岡原発差し止め訴訟で班目は証人として出廷。原発建設を擁護している。複数の非常用発電機が起動しない可能性を指摘された際、「そのような事態を想定していたら、設計ができなくなる」「どこかでは割り切る」などと回答。「地震だったら大変なことになるんだという、抽象的なことを言われた場合には、お答えのしようがありません」とまで証言している。まさに指摘された通りの事態が福島で起きたのではなかったか!
 福島原発事故を受けて、事故の対応や過去の発言を追及された班目はいまだに「割り切り方が正しくなかった」などと抗弁している。こんなデタラメを行ってきた連中に、今こそ責任を取らせなくてはならない。

◆地震の危険性も隠蔽・衣笠善博

 原発建設予定地にある活断層を意図的に過小評価し、耐震設計に不備があっても原発を稼働できるよう審査してきたのが、衣笠善博(東京工業大大学院総合理工学研究科教授)だ。衣笠によって過小評価された活断層の上に建設された原発は、全国各地に存在する。福島原発についても、双葉断層を過小評価して建設を進めさせたのが衣笠だ。しかも、東日本大震災を引き起こした海底断層については、その影響が考慮さえされていない。政府の耐震指針は、「大きな地震を起こす断層は事前に発見できる」という前提になっているにもかかわらずである。
 そもそも06年に新耐震指針が検討されている時にも、島根原発付近の活断層が事前調査で見逃されていたことが明らかになった。指針案の修正が求められたが、委員の一人であった衣笠は「分科会で一度は合意した議論を蒸し返すもので、到底受け入れられない」と押し通した。その島根原発で3号機を建設するための活断層調査に「技術指導」を行ったのも衣笠だ。しかも、それと同時に原子力安全・保安院の審査の委員まで担っていた。自分で作らせた報告書を、自分で審査して建設許可を出していたのだ。
 このように、次々と活断層を過小評価することで、通産省の技官から名誉教授にまで成り上がってきた極悪人が衣笠だ。福島原発事故後、断層の再調査が各電力会社によって行われたが、いずれも「問題ない」というものだ。衣笠も同様に、徹底的に断罪しなくてはならない。

◆福島の人たちに被曝を強制する殺人者・山下俊一

 政府は福島の人々を放射能から守るのではなく、むしろ避難させないための基準を設定さえしている。そして、被災地において「健康に影響はない」と政府にお墨付きを与え、被曝を強制する最悪の役割を果たしているのが山下俊一(長崎大医学部教授を休職、福島県立医科大副学長、福島県放射線健康リスク管理アドバイザー)だ。
 30回以上行った講演で「放射線の影響はニコニコ笑っている人にはきません」「年間100_シーベルト未満ならリスクはゼロ」「将来ガンになった場合、原発事故に原因があるのではない」などと語ってきた。子どもたちを放射能から守る福島ネットワーク代表の中手聖一さんは「彼を信じて子どもを外で遊ばせた親たちは今、わが子を被曝させてしまったことへの後悔と罪悪感で苦しんでいます」と怒りを語る。
 また、福島では長期にわたる「健康調査」が計画され、山下はその責任者でもある。しかも、この「健康調査」は放射線影響研究所(放影研、旧ABCC)と連携するという。放影研は、終戦直後に米国防総省が広島に設立したABCCがその前身だ。ABCCはヒロシマ・ナガサキの被爆者に対し「調査はしても治療はしない」と徹底したモルモット化を行い、そのデータをいまだに秘匿している。
 歴代の理事長には、チェルノブイリ原発事故時の調査団委員長で「放射能による健康影響は認められない。精神的ストレスの方が問題」とした重松逸造、菅政権の内閣官房政策調査員で「チェルノブイリでの死者は43人。福島の周辺住民に放射線の影響は起こらない」と公言する長瀧重信がいる。「健康は原子力に従属する」という殺人者集団なのだ。この連中と連携し行われる「健康調査」とは、健康被害の責任から政府・東電を免罪し、福島の人たちを使って「人体実験」まで行おうというものだ。
 山下俊一は絶対に許すことのできない最悪の「殺人者」だ。ところが長崎大学学長は、「(山下教授は)専門家として福島の原発事故による健康影響について一貫して科学的に正しい発言をしています」などと何の根拠もなく断定し、擁護している。

 腐敗の構造生み出した新自由主義・民営化

 こうした御用学者をのさばらせてきた大学の腐敗も、膨大な若者の非正規職化も、そして原発も、新自由主義が生み出したものだ。新自由主義は、利潤のためなら、学問的真理も、労働者の生活も、人間の命さえも犠牲にして構わないというものだ。そのために、労働者の団結と労働組合を破壊し、賃金を切り下げ、民営化・外注化による非正規職化を全社会化してきた。
 新自由主義は、大学においては、学生が社会や政治のことを考えること、人間としての誇りや主体性を奪うことに最大の力点を置いてきた。学生運動、学生自治会を解体することで、大学・教育を金儲けの道具にしてきた。
 とりわけ国立大学の法人化(04年)以降、その現実は一気に進められた。就職難を利用し学生を競争させ、高い学費でボロ儲けし、借金漬けにして放り出す。研究者は必死で企業を回らなければ研究することもできない。そして「どんな助成のチャンスにもすがりたい」という状況につけ込み、電力会社は「原発マネー」で大学を買収してきたのだ。
 この腐敗した大学が今、福島の人々の生活を奪い、さらには子どもたちや若者の未来まで奪おうとしている。そして、学生は事故以前から大学で未来を奪われ続けてきた。原発は被爆労働、非正規労働なしには成り立たない「産業」だ。大学が学生から未来を奪い、若者が非正規職に突き落とされることと一体で、原発が存在している。「原発産業」は新自由主義の腐りきった姿そのものであり、その帰結が福島原発事故だ。

 新自由主義を打ち破る国鉄闘争・法大闘争

 この新自由主義と大学キャンパスにおいて闘い、勝利してきたのが法大闘争だ。06年3・14弾圧以降、国家権力・大学当局との「死闘」の中で、法大文化連盟と全学連は団結した学生の力に依拠して闘いぬいてきた。そのただなかから、全学連は今年ついに斉藤郁真君(法政大・法)を委員長とする新たな執行部体制を生み出し、法大闘争の「勝利宣言」を発した。法大闘争勝利の地平を全国大学へ拡大し、大学を学生の手に取り戻す巨大な学生運動を復権するときが来た。
 職場において新自由主義と対決し勝利しぬいてきた動労千葉は、職場から外注化・民営化・非正規職化と闘う団結をつくりあげてきた。そして、当局の宣言した10月1日の外注化実施を阻止するという歴史的な勝利を収め、計画の白紙撤回にむけて闘いを継続している。
 労働者・学生が団結すれば新自由主義を打ち破ることができることを、動労千葉や法政大の闘いは示している。今こそ御用学者をキャンパスから追放し、大学を学生の手に取り戻す時だ。教育の民営化と対決し、キャンパスに学生の団結体=学生自治会をよみがえらせよう! 反原発・反失業を掲げ、新自由主義と闘う労働組合・学生自治会の復権を! 11・6全国労働者総決起集会に集まろう!

------------------------TOPへ---------------------------

月刊『国際労働運動』(423号4-1)(2011/11/01)

翻訳資料

■翻訳資料

シンディ・シーハンVSミチオ・カク

シンディ・シーハンのソープボックスから

丹沢 望 訳

 【解説】

 今回の翻訳資料は、シンディ・シーハンさんが日本で広島・長崎・沖縄・東京を訪問し、日本の仲間とともに反原発・反失業・反戦の闘いを行って帰国した直後に行われた著名な米・理論物理学者・ミチオ・カク(加来道雄博士。日系3世のアメリカ人)とのラジオ放送での対談だ。
 ミチオ・カク博士は、現在ニューヨーク私立大学物理学教授であるが、科学解説者として人気があり、各種のテレビの科学番組などにも出演している。とりわけ原発問題では、正確で明晰、わかりやすい科学的解説を行い、早期に福島第一原発の炉心溶融が起きていることを明らかにした。現在、アメリカでは最も著名で、原発問題について正しい見解を持ち、アメリカの反原発運動に大きな影響を与えている理論物理学者だ。
 シンディ・シーハンさんがカク博士との対談を通じて、今回の日本訪問で明らかになった日本の原発政策や原発事故の現状をアメリカの労働者人民に伝えたことは、アメリカの反原発運動の発展にとって非常に大きな意義を持っている。
 また日本の労働者人民が、原発事故の重圧に屈することなく、その責任を追及し、原発の即時全面廃止に向けて続々と決起し、巨大な運動をつくり上げようとしていることが、シンディ・シーハンさんによって明らかにされたことは、同じように反原発の闘いを開始しているアメリカの労働者人民に対して大きな勇気を与えるであろう。
 原発問題に関して大きな発言力と影響力を持つカク博士が、この対談の中で福島原発問題についての見解を明らかにし、同時にアメリカの原発政策に対する批判を行っていることも重要だ。
 日本訪問を通じてシンディ・シーハンさんは、原発が労働者人民に全面的に敵対するものであることを鮮明に把握し、日米の反原発、反戦運動の連帯した闘いの発展を促進する役割を引き受けてくれた。彼女は原発を廃止するためには、労働者人民が自らの力に依拠して決起し、闘うことこそが重要であることを日本の闘いから学び、アメリカの労働者人民にもそうした闘いを開始することをアピールしてくれている。
 NAZEN(すべての原発いますぐなくそう!全国会議)の呼びかけ人に名をつらねてくれたシンディ・シーハンさんは、日本の労働者人民の闘いと連帯し、アメリカでの反原発闘争の発展のためにこの対談を組織した。
 われわれは、このようなシーハンさんの闘いに応え、今こそ原発の全面的廃止の闘いを圧倒的に爆発させよう。

 ………………………

シンディ・シーハン(以下CS) シンディ・シーハンのソープボックスにようこそ。番組ホストのシンディ・シーハンです。ただいまシンディー・シーハンのソープボックス.comのラジオ放送を行っています。
 さて私は2週間の日本旅行から帰ったばかりです。それは非常に疲れ、体力を消耗する旅でした。ついには高熱を出し、数日間ベッドで寝ていなければなりませんでした。
 こういうことを除けば、この旅はすばらしい旅で、私は福島の原子炉のメルトダウンや、地震と津波の結果、日本で何が起きているのかについて多くを学びました。それだけでなく、原発と原子爆弾に反対する新たな運動を組織し、活性化するための非常に熱心でひたむきな組織的活動が日本で行われていることについても学んできました。アメリカが2発の大量破壊兵器を何の罪もない人々の上に落としたその日に日本の広島と長崎に行けたこと、そして、人間の生存本能がいかに偉大なものであるかを知り、またこの悲惨な爆撃の後に人々が広島と長崎という二つの都市と自分たちの生活を再建するためにどのように協力し合ってきたかを知ることができたことは、大きな感動でした。それは福島の人々に、大惨事からの復興は可能であるという希望を与え、鼓舞するものであるに違いないと私は考えています。
 今日の私のゲストはミチオ・カク博士で、今日、わたしたちは原子力発電と大惨事を引き起こしかねないエネルギー創出技術が存続可能かどうかについて話をする予定です。カク博士をこの番組にお招きできて私は非常にわくわくしています。(中略)
 彼は、理論物理学者で、ベストセラー作家で、科学の普及者です。「弦の場の理論」の共同提唱者です。この理論は「ひも理論」の一分野をなし、四つの基本的自然力をひとつの理論に統合しようとしたアインシュタインの研究を引き継いでいます。
 ミチオ・カク博士は、ディスカバリー、BBC、ABC、サイエンス・チャンネル、CNNなどのテレビに出演しており、今回はシンディ・シーハのソープボックスに出演してくれます。彼は、『ディスカバー』、『ワイアド・アンド・ニューサイエンティスト』などの人気のある科学雑誌などに執筆しており、「私とアイザック・ニュートン」というドキュメンタリーにも出演しています。また、BBCが最近放映したシリーズ「時間」などの彼自身が書いたドキュメンタリーの紹介役を務めてもいます。(以下略)
CS ドクター・カク、シンディ・シーハンのソープボックスにようこそ。
ミチオ・カク博士(以下DMK) このショーに出演できてうれしいです。
CS 私は日本に行ってきたばかりで、あなたによろしくというたくさんの人たちの挨拶を持ってきました。
DMK そうですか。
CS 日本に行った時には、高レベルの恐るべき放射線が検出される驚くようなホットスポットが計測されています。地震は3月11日に起きましたが、福島で起きたような大惨事は収束しているようにはみえません。あなたはどう予測していますか。日本での大惨事に対するあなたの考えはどんなものですか。
DMK そうですね、ちょうど数週間前に、放射線レベルが通常の値よりも約100万倍も高い二つのホットスポットが、原子炉で見つかりました。つまり、労働者はこの放射線にわずか数秒間さらされただけで、致命的な放射線量を浴びることになります。これによって除染作業は遅延させられることになります。原子炉の状態もまったく安定していません。彼らは来年の初頭ぐらいには原子炉を安定させたいと望んでいます。ですから、原子炉はいまだに爆発までの時間を刻む時限爆弾のようなものなのです。もし二度目の地震が起き、別のパイプが破断し、労働者が避難すれば、大惨事はあちこちで起きるでしょう。
 三つの炉心が100%の炉心溶融を起こしたのに、人間の想像力を超える破局的事態を回避できた理由は、一人の原子炉のオペレーターが、上司の命令に反して原子炉を海水で満たしたからです。彼は、上司の命令に反し、原子炉を海水で満たし、結果として原子炉を破壊したのですが、破局を引き起こしたはずの原子炉の格納容器の破壊をかろうじて防ぎました。
CS 個人的なことですが、あなたは日系アメリカ人ですね。 
 あなたがCNNで世界の人々は福島で何が起きているのかについてウソをつかれているとお話ししているのを見ましたが、これについてのあなたの個人的考えはどういうものですか。
DMK ご存知のように、日本の人々はある時期までは、政府を非常に信頼していました。しかし彼らは政府から何度もウソをつかれました。多くの人々にとってはそれは我慢の限度を超えるものになりました。彼らはガイガー・カウンターなどの放射線測定器を自分で購入しています。つまり、彼らは政府をもはや信用していないのです。個人的には、現在日本に私の親戚がいます。放射線が各地に拡散し、心配をしなければならない子どもたちがいるため、何人かの親戚は日本から出国しました。
 ご存知のように高い放射線レベルが各市で観測されています。東京は福島原発から1
50離れていますので、放射線レベルは低いということははっきりさせておきましょう。しかし、東京よりも遠く、原発から200も離れている場所で高い放射線レベルが検出されています。放射能は、魚や野菜、とりわけ植物に含まれています。雨水や飲料水、ミルクのなかにも含まれています。それは低いレベルですが、あらゆる地域で観測することができ、日本にいる親戚である私の一族に直接的な影響を与えています。
CS メルトダウンした原発からそれほど遠くないところからは、避難できるお金を持っている多くの人々は避難したり、子どもたちを遠くへ避難させることができました。日本で私が共に行動した人たちは、避難するお金のない人々については、東電と日本政府が、この避難や、原発に近い地域からの子どもたちの避難を援助すべきですが、そうなっていないため避難できていないと言っています。彼らは、広島と長崎の原爆投下の後に行われたように、人々を実験材料に使っています。アメリカと日本の政府は核兵器の人間に与える効果についての実験で協力していますが、被災した人々を助けようとはしていません。現在日本の人々が直面している問題は、彼らが支援を受けていないということです。
DMK そのとおりです。政府が被災地の子どもたちのために放射線測定器を供給していないのは国家的なスキャンダルだと私は考えています。地方の行政がイニシアチブをとっています。福島県は、幼稚園児年齢の子どもたちのために線量計を購入しています。幼稚園の子どもたちが線量計をつけて学校に行ったり、両親に線量計とは何なのかを教えられるという光景を想像することができますか?
 だから人々は自分たちでイニシアチブをとろうとしているのです。彼らはもはや政府を信用していません。ところで、3月に原子炉の事故が起きた時、われわれアメリカの物理学者たちは、自分たちのコンピュータ・コードを使って、アメリカの原発事故のシュミレーションを行いました。その結果われわれは、政府がウソを言っているか、意図的に情報を隠しているか、単に記者会見をうまくできないかのどれかだということがはっきりとわかりました。
 政府は炉心には何のダメージもないと言っていましたが、われわれには、明らかに炉心がダメージを受けたことがわかっていました。われわれはそれがいかに深刻かを、炉心から放出されている放射線から察知していました。ですから、われわれのコンピュータを使って、私たちは、日本政府や東電が国民をだましているか、単に無能だということを示すこともできました。この情報は現在では手に入れることができますが、それは政府や東電に対する不信の念を増大させるものとなっています。国民がだまされていたという事実、そして国民が政府や電力会社を信頼していたという事実がありますが、何カ月もたった今になって、国民が無意味に大量の放射線にさらされていたということがわかったのです。
 数日前に明らかになったスキャンダルは、原発事故が進行している時に、政府はデータを発表せず、放射線測定器を特に放射線の非常に高い地域に配布しなかったということです。このため、国民は事故の初期の高いレベルの放射線に不必要にさらされたのです。
CS 福島で起きたことと、BPのメキシコ湾原油流出事故とを比較したり、相互関係を検討したりしていますか。この事故でもこの地域のアメリカ国民は、意図的にあるいはBPが愚かだったために、正しい情報が与えられなかったのですよね。
DMK はい、それにハリケーン・カトリーナやその災害現場で起きたことも比較することができますね。原子炉をつくった技術者や災害現場の堤や堤防を建設した技術者は、百年に一度の嵐が自分の生きている間に起きるとは考えていなかったのでしょう。ですから、たとえばニューオーリンズのハリケーン・カトリーナの際には、技術者は自分たちがつくった堤防は百年に一度の嵐には耐えることができないことを理解しました。だが彼らの態度は、「百年に一度の嵐は自分たちの時代には起きないだろう。孫の時代にも起きないだろう。だから何を心配する必要があるだろうか」というものでした。こうしているところに百年に一度の嵐が襲ってきたのです。
 福島の原発事故でも同じことが言えます。技術者は巨大津波が原発施設を押しつぶすだろうということをはっきりと理解していました。だが、福島でも「そんな津波は自分の一生の間にも自分の孫の時代にも起きないだろうから、心配する必要はない」ということになったのです。もちろん百年に一度の嵐に備えるならば、それは非常に高くつくであろうし、百年に一度の地震、百年に一度の嵐、百年に一度の災害に備えて準備するならば、原発は経済的に開発することはできないであろうし、この基準を満たさなければならないとしたらそれは原発を非経済的なものにするでしょう。
CS 原発で利益を得ている人にとっては非経済的でしょうが、今回のような事故で苦しまなければならない人々や、原発の近くに住んでいる人々にとっては、常に大惨事の危険性があるのです。ところで、あなたは日本人がどういう人たちであるか知っていますよね。日本人は禁欲的であるということで有名です。彼らはゴジラ映画に出てくる人々とは違って、無謀でパニックに陥りやすい人たちではありません。彼らは非常に実際的な人々ですが、他方で彼らは全地域からの避難の可能性は何か彼らの頭越しになんとなく現れてくるものであると言っています。あなたは、全国土から退避しなければならなくなる破局的事態や大惨事について予測していますか。
DMK 福島にはさまざまの崩壊段階にある五つの原子炉があることを理解してください。原発事故はいかなる意味でも収束していません。もし次の地震が起きたり、配管の破断が起きれば、事故は再びあちこちで発生するでしょう。最悪の場合のシナリオでは、主要な配管が壊れたり、第二の地震が起きた場合、労働者を避難させなければなりません。原発でポンプが動かなくなれば、それは自分たちの手で水を原子炉に注入しなければならないことを意味します。もし労働者がいなければ、事態は悪化するのみです。労働者のすべてが撤退した時点で、水位は下がり始め、原子炉は再び溶け始め、格納容器の破壊が起きるでしょう。これはコントロールできない量の放射線を環境中に放出することを意味するのです。それはわれわれの理解を超えた破局となります。
 25年前のチェルノブイリでは、事故は1基でだけ起き、炉心のわずか25%が気化し、空気中に放出されだけだということを理解してください。ところが福島では、3基の原子炉が事故を起こし、炉心の100%が溶融しています。諸段階の溶融物が格納容器から漏れています。そしてもし事故が再度起きれば、事態はチェルノブイリ以上に悪化します。チェルノブイリでさえ、60万人の労働者が必要であったことを理解してください。この数字をもう一回繰り返させてください、60万人の労働者です。50万人以上の労働者が最終的に原子炉を半安定状態に持ち込みました。しかしチェルノブイリ事故は収束したわけではありません。原子炉は溶融し続けており、炉心はチェルノブイリの地中に溶けて浸透しています。それでも50万人の労働者が使われたのです。放射線量が高レベルであったため、多くの労働者は一度にほんの数分だけ作業に投入されました。(中略)……日本では非常にひどい状態の三つの原子炉があり、ポンプがまだ稼働していないため、原発は安定していません。そしてそれは、事故はいたるところで再燃する可能性があるということを意味しているのです。
CS 解決策は何ですか、ドクター・カク。この原発事故は理解できないことだらけだと思えます。(中略)
DMK 今は、第1号炉は、格納容器の部分的破壊のためにそこから漏出し続けている放射能を封じ込めるためにサランラップのようなプラスチックで包まれています。現在、ヒューリット社は除染には10年間が必要であると予測しています。この数字は誰も信じていません。なぜなら、チェルノブイリでは25年かかっているし、事故はまだ収束していないからです。スリーマイルでは完全に管理下に置くのに14年間かかっています。日立は、三つの原子炉事故を最終的に収束させるのに30年かかると予測しています。
 しかし、アメリカでは多くの技師が個人的には50年から100年が必要だと言っています。まず第一に、炉心溶融の程度を撮影するために炉心にテレビカメラを設置しなければなりません。次に、溶けた炉心を炉内から取り出さなければなりません。これらの作業はすべて水中で行われます。空気中では大量の放射能が出るからです。ご想像がつくと思いますが、事故を起こした原発を管理下に置くためには数十年がかかるのです。
CS 大変ですね。それではアメリカでの原発問題に戻りましょう。福島の原発と同じ炉心を持つ原発がアメリカには23基あります。
DMK そうですね。ゼネラル・エレクトリック社のマーク1沸水型原子炉ですね。
CS アメリカの原発は洪水や山火事で危険な状態になったこともあります。原子炉は地震や火事、洪水から安全に守られていません。私は、太陽が太陽フレア期に入ると、大きな太陽フレア現象【訳注 太陽表面での爆発現象で磁気嵐などを地球に引き起こす】がエネルギーの創出を何年も中断させることがあるということを本で読んだことがあります。巨大な太陽フレアは原発と関連がありますか?
DMK 11年毎に太陽の北極と南極は放射線を爆発的に放出します。これは太陽周期と呼ばれています。われわれのエネルギー時代はまだ歴史が浅いので、まだこの太陽フレアに直撃された経験を持っていません。(中略)しかし、いつかは、この太陽の黒点から発射される爆発的放射線に焦点があてられるでしょう。それは1859年に起きたことを再度繰り返すことになるでしょう。1859年には、太陽フレアが地球を最も多く直撃したと記録されています。すべての計器類が計測不能になりました。電信線には自然発生的に通電しました。通信労働者は電信線を流れる電気で感電しました。通常はノルウェーやスウェーデンでだけ見ることのできるオーロラが、キューバのような南の国でも見られました。(中略)もちろんキャリントン現象【訳注 イギリスの天文学者、リチャード・キャリントンが発見した、太陽の磁気爆発とオーロラ発生の因果関係)】は非常にまれなことです。それは百年に一度起きる現象です。しかし、もしそれが起きれば、原子力発電所の電源を一掃するでしょう。実際、われわれは北アメリカ全体で原発は機能停止に陥ると考えています。全地球測位システムを搭載する衛星やインターネット、天気予報は機能を停止するでしょう。一都市だけでなく太陽フレアに直撃された数千の都市で巨大な停電が起きるでしょう。私の所属するアメリカ物理学協会は、数カ月前に、1859年の現象が再び起きた場合の財産の損害は2兆jに達するだろうと発表しています。このような現象がもう一度起きれば、世界経済を麻痺させるでしょう。
CS このような電源遮断がおきた場合、原発にはどのような危険が迫るでしょうか。世界中でたくさんのメルトダウンが起きる可能性があるのか、それとも、太陽フレアの影響を受けた地域でのみそれが起きるのでしょうか。
DMK 危険なのは電源のショートでしょう。そうなると電源が失われます。それは原発事故の初期に福島で起きたことです。不運なことに、発電機は原子炉の地下に置かれており、津波がやってくると、ほとんど直ちに電源が失われました。もしそこでキャリントン現象のような太陽フレアによる制御不能が起きれば、多くの原発でいくつもの電源喪失が起きるでしょう。そのため、配管には水が循環しなくなりますが、それは福島で起きたよう水位の低下をもたらします。(中略)
CS 日本のようにわれわれは、反原発運動を復活させる必要があります。それはかつて大きな成功を収めましたが、今こそそれが可能な時です。
DMK バラク・オバマがユカマウンテンの核廃棄物保管所を閉鎖したことを忘れてはいけません。これは、100以上の商業用原子炉と軍事用原子炉から出される高レベルの放射性廃棄物を収容する連邦政府の核廃棄物保管所がひとつもなくなくなったことを意味するのです。つまりわれわれは、アメリカの原発を支える核廃棄物の排出が不可能になったという問題に悩まされているのです。われわれは現在それを各原発に貯蔵していますが、それは非常に危険なことです。これは、核廃棄物問題を解決するまでは、原発はもはや推進できないということを意味しています。(中略)
CS ご存知のように私は、反戦活動で知られています。それに私は平和を守り、再生可能で環境にやさしいエネルギーを擁護することは非常に重要であると考えています。核エネルギーはそういうエネルギーではないと考えています。(中略)
 視聴者の皆さんがもっと多くの情報を得ることができるように、あなたのウエブサイトを教えてくれませんか。
DMK はい。もし私の著書などについてもっと情報を得たいのでしたら、mkaku.org
を見てください。(中略)
CS あなたは、誰にも理解できるように、科学を大衆的に普及してきました。カク博士、シンディ・シーハンのソープボックスに出演してくださってありがとうございました。
DMK いえいえ、どういたしまして。
(写真 8・6広島大行動に参加したシンディ・シーハンさん【前列右】)

------------------------TOPへ---------------------------

月刊『国際労働運動』(423号5-1)(2011/11/01)

■Photo News

 ●チリで新自由主義攻撃への歴史的反撃

 (写真@A)

 新自由主義の実験場と言われていたチリで、学生と労働者の歴史的反撃が開始された。教育を破壊する新自由主義に対するチリ全土での学生デモ、学校占拠、機動隊との激突がすでに3カ月間にわたって闘われている(写真@)。労働者も、8月24日の48時間ゼネストを始め、数十万人の街頭デモに決起している(写真A)。73年の反革命軍事クーデター以来の支配体制に対する根底的な反撃がついに開始された。

 ●イタリアでゼネスト

  (写真BC)

 9月6日イタリアでは、ベルルスコーニ政権が強行しようとしている大規模な緊縮財政攻撃に反対して数百万人の労働者が8時間のストライキに決起した。この闘いは、秋のヨーロッパ各国でのゼネストの先陣を切った(写真BC)

 ●イスラエルで「100万人行進」

 (写真DE)

 イスラエルの労働者階級がついに歴史的な決起を開始した。新自由主義攻撃の下で苦しむイスラエルの労働者は、真の敵はアラブ人労働者ではなく、イスラエル国内の資本家とその政府であるという明確な認識をもって街頭デモ、ストライキに決起している。9月3日には、ついに60万人の労働者が全国各地で巨大なデモに打って出た(写真DE)。エジプトを始めとする中東革命の波がイスラエルにも波及し、米帝の中東支配の要を打ち砕こうとしている。

 ●韓国・済州島で海軍基地建設阻止の闘い

  (写真FG)

 8月24日、ソギボ市カンジョン村の海軍基地建設現場での工事開始に対し、カンジョン村の住民が実力阻止行動に決起した(写真F)。警察との激突で村長など5人が逮捕された。村民たちは5人の釈放を求めて警察署前での座り込み闘争に決起した(写真G)。この新基地は米海軍の対中国ミサイル防衛基地であり、これに反対するカンジョン村民の村ぐるみの闘いが展開されてきた。

------------------------TOPへ---------------------------

月刊『国際労働運動』(423号6-1)(2011/11/01)

世界経済の焦点

■世界経済の焦点

米国債が格下げに

財政赤字に対処できず/ドル暴落の新段階

 □財政再建の方針で民主・共和が対立

 2011年8月5日、S&P(スタンダード・アンド・プアーズ)は米国債をAAAからAA+に格下げした。1941年以来、米国債格付けは70年間も維持されてきたが、初めて格下げされた。
 米国では、政府の債務残高の上限を議会が決めている。その上限額は14兆2940億jだった。しかし5月16日には、あと25jで上限に達するところまで迫った。
 ガイトナー財務長官は、8月2日までに上限引き上げ法案が決着すれば、既存国債償還は可能と見ていた。しかし議会内の対立は激しく、期限までの決着が危ぶまれてきた。格付け会社は国債格付けを見直す可能性を予告していた。また恐慌対策による米国債務の急増で、プライマリーバランスがGDP比でマイナス9%に達し、償還の深刻度も大きかった。
 結局、米国の公認格付け会社の大手3社がそろって格下げの見通しを発表したことから、共和党も決着を急ぐ姿勢を示し、8月2日に決着したが、S&Pは格下げに踏み切った。
 S&Pの変更発表を要約すれば次の通りである。
 長期債AAA、短期債A―1については変更しない。長期債の見通しについては「ネガティブ(投機的)」に変更。最上位の格付けを変更しないのは、米国経済が柔軟性に富み、高度に多様化され、金融政策が生産活動に効果的に寄与しており、米ドルに対する信頼が米国の対外流動性を支えている、としている。
 一方、見通しを「安定的」から「ネガティブ」に変更したのは、他のAAA取得国(英・独・仏・加)に比して、米国の財政赤字が大きく(対GDP比が2003〜08年は2〜5%、2009年は約13%)、債務残高も増加しているからである。米国債の市場保有残高9・7兆jに対し、政府内保有残高が4・6兆j(合計14・3兆j)にも上り、その解決策がはっきりしない。したがって、2013年度までに有効な財政再建計画が策定されなければ、AAA所得国より財政見通しが明らかに劣る、との判断となった。
 格下げの根拠は、政治の弱体化だ。国債デフォルトの危機の中で、上限引き上げ法案が、ティーパーティー(茶会)派などの議員の強硬な反対で決着が難航したという政治危機だ。民主・共和の対立とは、財政再建の方針の違いだ。共和党・ティーパーティー派は富裕層の増税に頑強に反対し、民主党は社会保障費の削減が大幅になるのには反対、という対立だ。民主党幹部は「約40年議員をやってきたが、ここまで強硬な勢力に対処するのは初めてだ」と嘆く。財政力が決定的に低下してしまったため、財政再建をめぐって収拾のつかない国内対立に陥っているのだ。
  決着した内容は、債務上限の2・1兆jの引き上げ、今後10年間で2・4兆jの財政赤字削減の二つである。   決着した内容は、債務上限の2・1兆jの引き上げ、今後10年間で2・4兆jの財政赤字削減の二つである。
 上限問題が決着したにもかかわらず格下げしたことについてS&Pは、「債務上限問題が決着しても赤字削減が十分でないと判断した場合は格下げに踏み切る。今後10年間で4兆jの赤字削減が達成されない場合、90日以内に5割以上の確率で格下げを断行すると警告していた」と語っている。S&Pの判断は、今後10年間の赤字削減は4兆j程度が必要で、上限上乗せは2・1兆jではあまりに低すぎるいうことだ。

 □ブレトンウッズ協定以来のドル通貨の歴史

 米国債がこれまでAAAと最上位だったのは、債券発行元である米帝が基軸通貨国だったこと、そしてドル建てだったことによる。ドルはアメリカの通貨であるとともに、世界の基軸通貨として君臨してきた。〔世界各国の外貨準備のドルの比率は、年々低下している。グラフ参照〕
 ドルが国際通貨となったのは、1944年のブレトンウッズ協定からだ。第2次大戦後、アメリカは世界の金の3分2を保有した。そこでは唯一ドルだけが金と交換することができ、各国通貨はドルと固定相場で結ぶというIMF(国際通貨基金)体制、いわば「金ドル本位制」が形成された。
 しかし、米帝は60年代のベトナム戦争などで大幅な財政赤字を抱え、さらには国際競争力の低下から貿易赤字に転落した。これにより、金の準備高を超えるドル紙幣の発行を余儀なくされ、米帝が保有する金が大量に国外に流出。これに対抗するため、71年には金ドル交換制を停止した。その後40年にわたって停止されたままであり、これは廃止にほかならない。ここに「金ドル本位制」は崩壊した。
 金の裏付けを失ったドルには本来、世界通貨としての経済的基礎は何もない。アメリカの通貨であるというだけである。ところが、そのアメリカがなお圧倒的な経済力・政治力・軍事力をもって世界支配を維持したことから、ドルもまた基軸的通貨としての位置を保持したままの状態が何十年にもわたって続いてきたのである。
 金ドル交換制停止以降の米経済―世界経済は、金とのリンクの切断により、財政・金融を野放図に拡張することができるようになった。それが、以来40年近くにもわたる帝国主義の延命を支えることにもなったが、同時にこの過程はブーム=バブルとその崩壊を何度も引き起し、結局は現在の世界大恐慌に行き着いてしまったのである。そして、その世界大恐慌が日・欧に続いて米帝の国家財政危機にまで進展し、それがもたらす政治危機とも相乗しながら、ついに米国債の格下げにまでいたったのだ。
 米国債は世界の国債市場の中心に位置する。発行者はアメリカ国家である。つまり、米国債の格下げとは、米帝国家への信用度の格下げだ。それは同時にドル信用への格下げである。ここに世界大恐慌はドル暴落への新たな段階に入ったと言える。
 9月19日にオバマは、増税などによる今後10年で3兆jの財政赤字削減計画を打ち出した。赤字削減額を倍増する案だ。しかし、3兆jのうち半分の1・5兆jは富裕層・大企業への増税で賄うとしており、オバマ自身が実現できないことを百も承知だ。にもかかわらず財政赤字削減計画を口先だけでも積み増しているのは、そうしないとドルが暴落してしまうからだ。今や米帝は、ドル暴落に戦々恐々となっている。

 □世界同時の株下落と円高の急進展に

 「格付け会社がなんと言おうと我々はこれまでも、これからも、いつもトリプルAだ」――史上初の米国債格下げが現実となった8月5日から週の明けた8日、オバマ大統領がこう演説しても米国の株価は下がり続け、ダウ平均終値は前週末比で634j安と史上6番目の下げ幅で終えた。株価暴落は欧州・中国やブラジルなど新興国に広がり、世界は同時株安の様相を呈した。
 米国債の格下げなのだから米国債が暴落するはずのところだが、実際は世界中の株価が暴落した。それは、7月以降の米国の経済指標が弱かったうえ、欧州の債務問題がイタリア・スペインに波及しており、さらに新興国の中国・インド・ブラジルなどではインフレ懸念が持ち上がっていたためだ。このタイミングで米国債格下げが現実となって不安が広がり、日本の円や米国債、さらには金などにマネーが逃避したのである。しかし、この株安がリーマン・ショックを超える危機に発展した場合、「世界にはもう防波堤がない」と市場関係者は口にする。
 米国では、08年以来、8000万jの財政投入から量的緩和第1弾=QE1、そしてQE2と金融緩和が実地されてきた。これ以上の金融緩和はインフレ・生活破壊・ドル減価を引き起こすので、そう簡単にQE3とは行かない。また、債務上限の引き上げと今後10年間の財政削減で合意したばかりで、さらなる財政出動も不可能だ。中国はリーマン・ショックの時は4兆元(49兆円)の財政出動を行って大恐慌下の世界経済を牽引したが、今は暴動が爆発しており、インフレとバブル問題への対処で財政出動する余地も少なくなっている。
 他方のヨーロッパでは、国家債務危機がギリシャ・アイルランド・ポルトガルから、スペイン・イタリアへ波及している。両国の国債利回りは6%にまで上昇し、危機ラインである8%に迫る中、米国債格下げと世界同時株安を受けた8月8日に欧州中央銀行(ECB)は両国の国債の買い取りを開始した。イタリア・スペインのGDPは大きく、その破綻となるとギリシャ・アイルランド等とは比較にならない破滅的事態と化す。この間はEUとIMFが救済に乗り出してなんとかなってきたが、イタリア・スペインが財政破綻すればもはやEU・IMFをもってしても両国を支えるのは難しい。
 米国債の格下げを契機に世界同時株安、円高、欧州の財政危機の新たな進行、という形で大恐慌が深化している。全帝国主義国が財政政策を使い切り、むしろ財政危機が最大の体制的危機を引き起し、ついに万策尽きて防波堤のない大恐慌の激化に転落しつつあるのだ。

 □29年大恐慌と比しても経済を衰退させた米帝

 米国債の格下げは歴史的な事態にほかならない。第1次大戦までは一般に、国債は戦争など非常時のための資金調達であり、経済的にはその償還が焦点となるぐらいだった。ところが29年大恐慌への対応の過程で、米国債はその性格を変えていった。
 1931年、アメリカ連邦予算は第1次大戦後初めて赤字となった。しかし、公的債務はまだ168億jでしかなかった。翌32年、「復興金融公庫(RFC)」が創設される。金融機関の破綻を防ぐため、政府拠出の20億jを銀行に融資する機関である。これにより連邦予算の赤字は3分の2も増大した。33年、ルーズベルトは、「復興金融公庫」に8・5億jもの資金を拠出した。財政赤字は6倍に膨らんだ。さらに失業対策、公共事業などでも財政支出を増大させた。連邦政府の財政赤字は対GDP比4〜5%にもなった(33〜36年)。
 こうした恐慌対策は一定程度奏功し、35年頃には景気は回復に向かうが、37年をピークに再び後退する。39年には公的債務は420億j、GDP比44%とさらに膨らんだ。結局、問題は何も解決されずに第2次大戦へ突入した。
  第2次世界大戦は戦費調達のための公的債務を再び膨らませた。一方で、軍事産業への投資と連合軍への軍事物資の供給により、その代償として諸外国から巨額の公的資金が支払われた。アメリカの金保有は38年には世界の56%だったが、48年には75%にも上った。こうした金保有などを条件に44年にブレトンウッズ協定が結ばれ、国際通貨基金(IMF)と世界銀行が設立され、戦後の世界経済の枠組みが形成された。   第2次世界大戦は戦費調達のための公的債務を再び膨らませた。一方で、軍事産業への投資と連合軍への軍事物資の供給により、その代償として諸外国から巨額の公的資金が支払われた。アメリカの金保有は38年には世界の56%だったが、48年には75%にも上った。こうした金保有などを条件に44年にブレトンウッズ協定が結ばれ、国際通貨基金(IMF)と世界銀行が設立され、戦後の世界経済の枠組みが形成された。
 こうして29年大恐慌時の米国債は、30年代ニューディール政策のテコとなり、さらに戦争をとおした巨大な富のアメリカへの集中と戦後の世界支配権の確立のテコとなった。29年恐慌後とニューディールに代表される国家財政のあり方もまた、それまでとは次元の異なるものであり、1970年代まで連なる帝国主義政治支配の基礎となってきた。
 しかしわれわれの目の前で深化・激化しているこの大恐慌は、そうして延命してきた米帝=基軸国がついに決定的に没落する中で起きている。帝国主義の最末期のあり方である新自由主義が破綻し崩壊する中で、帝国主義の20〜21世紀の全矛盾が爆発しているのである。
 (富田五郎)

------------------------TOPへ---------------------------

月刊『国際労働運動』(423号7-1)(2011/11/01)

世界の労働組合

■世界の労働組合 ドイツ編

ドイツ機関士労働組合(Gewerkschaft Deutscher Lokomotivfuhrer:GDL)

ドイツ機関士労働組合(Gewerkschaft Deutscher Lokomotivfuhrer:GDL)

 ■概要

 GDLは、150年の歴史を持つドイツで最も古い労働組合で、1867年にドイツ機関士協会(VDL)として創設された。現在のGDLは、ドイツ国内の鉄道運転士および車掌の7割以上を組織し、組合員数は3万4000人を超える。ドイツの東西統一により、旧西ドイツ国鉄(Deutsche Bundesbahn:ドイツ連邦鉄道)と旧東ドイツ国鉄(Deutsche Reichsbahn:ドイツ国有鉄道)が1994年初めに統合、民営化された。その際に誕生したDB(Deutsche Bahn)グループは、グループの中核会社であるドイツ鉄道(Deutsche Bahn AG)とその他数社の民間鉄道会社により構成されるが、ドイツ鉄道の運転士の80%以上がGDLに組織されている。  GDLは、150年の歴史を持つドイツで最も古い労働組合で、1867年にドイツ機関士協会(VDL)として創設された。現在のGDLは、ドイツ国内の鉄道運転士および車掌の7割以上を組織し、組合員数は3万4000人を超える。ドイツの東西統一により、旧西ドイツ国鉄(Deutsche Bundesbahn:ドイツ連邦鉄道)と旧東ドイツ国鉄(Deutsche Reichsbahn:ドイツ国有鉄道)が1994年初めに統合、民営化された。その際に誕生したDB(Deutsche Bahn)グループは、グループの中核会社であるドイツ鉄道(Deutsche Bahn AG)とその他数社の民間鉄道会社により構成されるが、ドイツ鉄道の運転士の80%以上がGDLに組織されている。
 GDLは鉄道運転士の職能組合としてスタートしたが、2002年には鉄道および公共交通に働く労働者全般を受け入れるようになった。現委員長は、2008年に選出されたクラウス・ヴェゼルスキである。

 ■ドイツ史上最大の鉄道スト

 ドイツ国鉄の民営化後も依然として34000kmに及ぶ鉄道網の法的所有者は連邦政府であり、ドイツ鉄道の株式も100%連邦政府の保有であった。2007年7月末に連邦内閣は、ドイツ鉄道一部民営化に関する法案を閣議決定した。GDLは、労働条件の改善と賃金の30%引き上げを要求して7月3日と10日に全国的なストライキを貫徹し、実質的な民営化に対する反対も加わって、95.8%の圧倒的な決議により闘争の継続を決めた。GDL以外の2つの鉄道労組、TRANSNET(交通運輸労組27万人)とGDBA(ドイツ鉄道=交通労組7万人)は、2008年1月からの45%の賃上げと600ユーロの一時金で妥結していた。
 GDLは、2007年10月12日に22時間ストライキを行ったのに続き、11月14日に貨物輸送のストを断行、15日に全国で旅客輸送のストに入り、17日までの3日間、62時間のストライキを貫徹した。ドイツの鉄道史上で最大規模のストであった。
 貨物輸送は40%以上が運休した。部品が届かず、一部の自動車工場が操業停止に追い込まれた。旅客輸送について経営側は臨時ダイヤを編成、長距離列車の3分の2を確保したが、近距離電車は旧西側地域で50%、旧東側地域で10%しか運行できなかった。

 ■新自由主義に抗するドイツ階級闘争を牽引

この歴史的鉄道ストによって爆発した鉄道労働者の闘いは、現在に至るまで波状ストをもって戦闘的に闘われている。ドイツ経団連は、「ドイツ経済の国際競争力が損なわれる」と悲鳴をあげ、TRANSNETとGDBAの両労組【この2労組は、2010年末に右翼的に合同して、EVG〔鉄道交通労組〕を結成した】がGDLを攻撃し、スト破りを策動した。
 しかし、GDLの職場や組合支部からは、「実力闘争断固支持」「よくやってくれた」「長年の賃金カット、労働強化にこれ以上我慢できない」「おれたちも続くぞ」「フランス のように闘おう」「労働者はストをやるしかない」「打撃をあたえてこそストライキだ」と檄文やメールが集中し、上部機関の制止をふりきって、ランク&ファイルは各地で連帯デモ・集会を行っている。マスコミでさえ、「通勤客(その圧倒的多数は労働者)は60〜70%が支持」と伝えざるをえなかった。  しかし、GDLの職場や組合支部からは、「実力闘争断固支持」「よくやってくれた」「長年の賃金カット、労働強化にこれ以上我慢できない」「おれたちも続くぞ」「フランス のように闘おう」「労働者はストをやるしかない」「打撃をあたえてこそストライキだ」と檄文やメールが集中し、上部機関の制止をふりきって、ランク&ファイルは各地で連帯デモ・集会を行っている。マスコミでさえ、「通勤客(その圧倒的多数は労働者)は60〜70%が支持」と伝えざるをえなかった。
 この鉄道ストが起爆力となり、その大衆的圧力のもとで、ドイツ労働総同盟内最大の労組であり、体制内労組の中心である統一サービス労組(Ver.di、組合員220万人)の指導部も、ストに踏み切らざるをえなくなった。

 ■動労千葉との連帯

 3・11の東日本大震災によって引き起こされた原発事故は、世界中に大波紋を与えているが、動労千葉が3・11直後から世界へ向けて発信している『震災レポート』のアピールに応じて、「日本や福島の機関士のみなさんのためにドイツの機関士たちができることがあるでしょうか」とすぐに支援のメッセージを送ってくれたのが、GDLのランク&ファイルの労働者であった。
 この8月には、ドイツを訪問した動労千葉国際連帯委員会と全学連のメンバーが、GDLの組合員たちと熱く議論を交わし、交流を深めた。

------------------------TOPへ---------------------------

月刊『国際労働運動』(423号8-1)(2011/11/01)

国際労働運動の暦

■国際労働運動の暦 11月9日

■1963年三池炭鉱炭塵爆発事故■

資本の残忍な大虐殺

炭労の「闘いなくして安全なし」の精神と闘いの重要さを逆に教える

 1963年11月9日に起きた三井三池炭坑の炭塵爆発事故と国鉄鶴見事故は、炭鉱事故、国鉄事故の歴史上それぞれまれに見る大きな事故で、これが同じ日に重なったことで「魔の土曜日」などと呼ばれた。階級的に許すことのできない負の記念日である。
 二つの事故はいずれも、高度成長政策のもとで、合理化、労働強化、安全無視の攻撃がもたらした労働者大虐殺である。それは運転保安や坑内の安全を階級的に位置づけて闘う指導がなかったという労働組合の問題でもあり、今日につながる問題を突き出している。

 ●増産最優先の過酷な現場

 この日午後3時10分、三井鉱山三池鉱業所三川坑第一斜坑の坑口から約150
0b付近で炭塵爆発が発生した。当時坑内は1200人以上が働いており、死者458人、一酸化炭素中毒患者839人を出した。
 炭塵爆発は水をまいて炭塵を減らすことで防ぐことができる。対策は難しいものではない。これまで三池では、炭塵が増えればすかさず水がまかれてきた。ところが、1960年の三池闘争敗北以後は、再三の抗議にもかかわらず炭塵の危険度を測るテストさえ行われなかった。なぜそんなことが許されたのか。以前は労働者はこのような状態の坑内に入りはしなかった。その場でテストを要求し、安全措置をとらせるまで入坑を拒否して闘った。だから事故は未然に防がれていた。
 だがこれこそ資本が最も憎んだ職場闘争であり、三池の大量指名解雇通告はこれを根絶やしにしようとする資本の攻撃だった。この職場闘争のおかげで三池鉱山は赤字になったと言われ、そのリーダーは「生産阻害者」と呼ばれた。12
78人の指名解雇は300人の「生産阻害者」を中心とするものだった。
 三池闘争は、総資本対総労働の対決と言われたが、炭労・三池労組が敗北し、資本の望み通り「生産阻害者」はいなくなり、職場闘争は影を潜めた。出炭量は大幅に上昇した。
 三池闘争前は、1人当たり月産14dだったのが敗北後は35dに増えた。作業員と保安員の比は、前は6対4だったのが、後は8対2にされた。事故発生現場にはベルトコンベアが12台あるが、前は各1人、プラス巡視員2人の計14人の保安員がいたのが、12台全部につき1人、巡視員1人の計2人、実に7分の1に減らされていたのだ。
 安全を完全に無視した増産体制が強制されていた。
 しかも、これほど大量の死者、重傷者を出した事故後の対応がまた許せないものだった。爆発事故後3時間あまり、資本は大したことはないと救出をさぼった。458人の9割が一酸化炭素中毒死である。まさに見殺しの3時間だ。また三川坑とつながっている四山坑には事故を知らせず、作業を終了時まで続けさせた。こうした二重三重の無責任体制、合理化・保安削減・事後後の救出サボ・責任回避によって引き起こされた大量虐殺であり、階級的大犯罪だ。
 それは、「闘いなくして安全なし」という炭労のスローガンが三池闘争敗北以後投げ捨てられてきた結果であり、職場闘争が圧殺された代償だった。

 ●同日起きた国鉄鶴見事故

 今回は詳しく触れる紙数がないが、鶴見事故も、超重大な事故である。前年62年5月の三河島事故(死者160人)に続いて、この鶴見事故では死者161人、負傷者120人の大惨事となった。この日午後9時40分、貨物線を走行中の貨物列車後部3両目の貨車が突然脱線、引きずられて架線柱に衝突、隣の東海道線に乗り上げた。そこへ横須賀線下り列車と上り列車が同時に進入、二重衝突し、上下列車の乗客に死傷者を出す事故となった。
 石田礼助国鉄総裁の下での、厳しい独立採算・勤務能率向上・職場支配権強化・検修合理化の攻撃によってもたらされた事故である。これとの闘いは、1972年船橋事故以来の動労千葉の運転保安闘争によって切り開かれる。
 ----------------------------------------------------------------

 ■三池炭鉱戦後略年表

1945年12・17 三川坑で最初の労働組合結成
53年8・7 「英雄なき113日の闘い」
55年6・15 長期生産計画闘争
59年12・8 三井資本、大量指名解雇通告
60年8・10 闘争は中労委斡旋案受諾で終結
63年11・9 三池三川坑で炭塵爆発事故
66年10・25 839人の患者中744人に治癒宣告、労災保険の打ち切り通告
67年7・15 CO中毒患者救済立法求め75人が坑道に144時間の座り込み
68年1・25 炭労は三井鉱山提案の協定に正式調印、完全屈服  68年1・25 炭労は三井鉱山提案の協定に正式調印、完全屈服 
72年11・16 2家族4人が損害賠償請求訴訟
73年5・11 三池労組後援でマンモス訴訟
84年1・18 三井有明鉱火災事故、83人死亡
87年7・17 三池CO中毒訴訟原告団が和解案受け入れ
93年3・26 単独訴訟と和解拒否派32人判決
97年3・30 三井鉱山閉山

------------------------TOPへ---------------------------

月刊『国際労働運動』(423号9-1)(2011/11/01)

日誌

■日誌 2011年8月

3日東京 動労千葉鉄建公団訴訟 結審強行
動労千葉鉄建公団訴訟の第28回口頭弁論が、東京地裁民事11部(白石哲裁判長)で行われた。この場で白石裁判長は、JR東海会長であり1047
名解雇の張本人である葛西敬之の証人採用を最後的に拒否し、問答無用に結審を強行した。動労千葉組合員と支援する会会員の大街宣が行われた
6日千葉 三里塚現闘本部破壊に反撃
政府・成田空港会社(NAA)は天神峰現闘本部撤去の強制執行を1000人近い警察機動隊と警備員を動員して強行した。反対同盟農民と現地支援部隊、急を聞いて駆けつけた動労千葉や反対同盟顧問弁護団、市東さんの農地取り上げに反対する会などの仲間たちとともに6時間におよぶ徹底的な弾劾闘争をたたきつけた
5日広島 「な全」結成集会に700人
広島市東区民文化センターで「すべての原発いますぐなくそう!全国会議(略称・な全)」の結成集会が開かれ、全国から700人の闘う労働者人民が結集した
5日広島 産別ごとに全国交流集会
広島市の東区民文化センターで国鉄、郵政、教労、自治体、医療・福祉、合同・一般、民間交運・電通・金属など産別ごとの全国交流集会が開催された
5日広島 郵政非正規ユニオンを支える会結成
郵政非正規ユニオンと連帯し、労組交流センター全逓労働者部会と合同・一般労組全国協が中心になって「郵政非正規ユニオンを支える会」が結成された
6日広島 8・6大行動 広島と福島が一つに
「ヒロシマ・ナガサキ、フクシマをくり返すな!すべての核と原発をなくせ! 戦争をとめよう」と掲げた被爆66周年8・6ヒロシマ大行動が広島県立総合体育館小アリーナで行われた。地元広島、そして遠く福島から駆け付けた労働者・学生を先頭に1685人が集まった。「原発いらない!核もいらない」「すべての原発なくそう」。被爆66年を迎えた広島の街に、エネルギッシュなデモコールが響きわたった
6日広島 8・6ヒロシマ宣言集会
午前9時から原爆ドーム前で「すべての原発を今すぐなくそう!8・6ヒロシマ宣言集会」が行われた。1100人が集まり、市内デモを闘った
6日広島 450人が祈念式典を糾弾
早朝、全国被爆者青年同盟と被災地で闘う仲間を先頭に450人が8・6広島―8・9長崎反戦反核闘争全国統一実行委員会が主催した菅来広・祈念式典弾劾デモに決起した
7日広島 青年労働者集会 青年部が続々登壇
オキナワとヒロシマを結ぶ全国青年労働者集会in Hiroshimaが、広島工業大学で開かれた。「原発なくせ! 非正規なくせ! 首切りなくせ! すべての闘う青年部は広島に集まれ!」を掲げて全国から270人が結集した オキナワとヒロシマを結ぶ全国青年労働者集会in Hiroshimaが、広島工業大学で開かれた。「原発なくせ! 非正規なくせ! 首切りなくせ! すべての闘う青年部は広島に集まれ!」を掲げて全国から270人が結集した
7日広島 全学連大会―9・11へ全国学生集会
全学連は、全学連大会―9・11反原発デモの爆発へ全国学生集会をかちとった
9日長崎 核・戦争・原発へ怒り新た
朝の「長崎原爆朝鮮人犠牲者追悼早朝集会」に参加した労働者・学生は、午前10時過ぎから爆心地近くの城栄公園で、菅首相の平和祈念式典出席を弾劾する集会を開いた。平和公園に向かうデモ隊は、原爆投下時刻の午前11時2分、式典会場に通じる坂道の下で、怒りのシュプレヒコールを上げた。午後1時半から長崎県勤労福祉会館で「反戦反核反原発・長崎集会」が開かれた。全国統一実行委の主催で115人が結集した
10日東京 教科書闘争 杉並で育鵬社採用阻む
杉並区教育委員会は、歴史・公民ともに帝国書院の教科書を採択した。東京・西部ユニオンと反原発署名1千万署名運動・東京西部など朝から300人以上が区役所を取り巻き、育鵬社採用を阻止した
11日沖縄 基地、核・原発なくそう
実行委員会が主催する「『反戦の母』シンディ・シーハン8・11沖縄講演会」が沖縄・那覇市のパレット市民劇場で開催され、160人が結集した。沖縄の労働者・労働組合が軸となり、3・11情勢と切り合う沖縄闘争、沖縄と福島をつないで反原発の巨大なうねりをつくり出す闘いの開始だ
12日東京 郵政東京多摩支店当局が暴力行為
6月に結成された郵政非正規ユニオンの委員長に対して、東京多摩支店当局により、組合を敵視するむき出しの暴力的脅迫行為がなされる事件が発生したことがわかった。ユニオン執行委員会は15日、支店長あての抗議声明を発した
12日東京 福島の農林漁民が日比谷で大集会
福島県農林漁業者総決起大会が、日比谷野外音楽堂で開催された。約3千人が大型バスを連ねて福島県内や避難先から集まった
15日東京 戦争翼賛の靖国参拝を弾劾デモ
反戦共同行動委員会が靖国神社参拝阻止デモを闘いぬいた。法政大学の正門前の外濠公園に労働者・学生が集まった。右翼が沿道から妨害を図り、警察・機動隊は労働者1人を公務執行妨害をデッチあげて不当逮捕したが、こうした敵対を打ち破って全原発廃炉へ突き進むデモを闘いぬいた
15日東京 第17回8・15労働者・市民のつどい
早朝の靖国参拝阻止デモを引き継ぎ、「原発とめよう 世の中かえよう 8・15労働者・市民のつどい」が東京・中野区のなかのゼロ小ホールで行われ、575人が会場を埋めた
17日東京 今すぐ除染と疎開を¢ホ政府交渉
衆議院第一議員会館で、子どもたちを放射能から守る福島ネットワークが主催する「福島の子どもたちの声を届けよう!」院内集会と対政府交渉が行われた
18日東京 江戸川で山田真医師講演会に100人
江戸川区の御用講演会に怒り、不信を持った人たちが集まって、「子どもたちを放射線から守る全国医療者ネットワーク代表」の山田真さんの講演会が開催された。区民ら100人近くが集まった
19日広島 反戦被爆者の会・大槻泰生会長逝去
反戦被爆者の会の大槻泰生会長ががんとの壮絶な闘いの渦中で逝去された。享年84
19日大阪 首切り基本条例反対≠ナ抗議
大阪府知事・橋下と大阪維新の会が、9月府議会に「職員基本条例」「教育基本条例」を提出しようとしているの対し、4人の教育労働者の呼びかけで大阪府庁前抗議行動を行った
20〜21日大阪 婦民全国協が大阪で総会
婦人民主クラブ全国協議会第28回全国総会が開催され、全国から83人が結集した。総会には、三里塚芝山連合空港反対同盟婦人行動隊の宮本麻子さん、労組交流センター全国女性部と八尾北医療センター労組を代表して灰垣美佐子さん、八尾市議の末光道正さん、泉佐野市議の国賀祥司さんが参加し、ともに闘うあいさつを行った
21日東京  11・6労働者集会の第1回実行委 21日東京  11・6労働者集会の第1回実行委
11・6全国労働者総決起集会の第1回実行委員会が、都内で開催された。呼びかけ4団体からの問題提起と熱気あふれる討論が展開され、いよいよ11月労働者集会に向けた闘いが本格的にスタートした
24日東京 郵政非正規ユニオン、雇い止めに抗議郵政非正規ユニオン委員長Aさんに対して、多摩支店は、9月末日をもって委員長本人を雇い止めにする旨、予告通知を行ってきた。A委員長と組合員たちはただちに激しい怒りと抗議の意志を表明、解雇阻止へのあらゆる闘いに踏み出す意志を明らかにしている
24日韓国 済州海軍基地 工事着工阻止で激突
済州島(チェジュド)で新たな海軍基地建設の着工をめぐる攻防が火を噴いた。西帰浦市江汀(カンジョン)村の海軍基地建設現場で施工業者がクレーンを組み立て始めた。これを阻止しようとしたカンジョン村の住民が警察と激突した
24〜26日長野 自治労長野大会決戦
長野市で開かれた自治労第83回定期大会は、民主党政権下で自治労本部を先兵に本格的に始まった公務員首切り・民営化攻撃に対して、現場の怒りが爆発する場となった。全国労組交流センター自治体労働者部会と長野労組交流センターは、議場内外一体となった闘いで自治労本部を追い詰め、公務員制度改革推進・現業切り捨ての本部方針を打ち返した。
25日東京  子ども福島ネットが対政府交渉 25日東京  子ども福島ネットが対政府交渉
子どもたちを放射能から守る福島ネットワークなどが主催する「子どもたちを守れ! 食の安全と『避難の権利』確立を! 対政府交渉」が参議院議員会館で行われた
26日大阪 職員・教育基本条例阻止、連続行動
9月議会に橋下知事・維新の会から「教育基本条例案」「職員基本条例案」が提出されようとしている。これに対し、関西労組交流センターに結集する教育労働者は、第2波府庁前行動を行った
28日山口 上関原発絶対阻む¢S国集会
上関町室津港横の埋立地で、「8・28さようなら上関原発全国集会」が開かれた。原発に反対する上関町民の会、上関原発を建てさせない祝島島民の会、原水爆禁止山口県民会議、長島の自然を守る会の4団体が主催した。集会には地元山口、中国地方を始め関西、首都圏など全国から大型バスで続々結集し、1250人が集まった
30日東京 動労千葉 偽装請負を告発する大集会
動労千葉が主催した「JRの偽装請負を告発する大集会」が、すみだ産業会館で開かれた。動労千葉の田中康宏委員長はこの場で「今日の集会は動労千葉の戦闘宣言の場だ。今日を期していつでもストライキに立てる闘争態勢に入って欲しい」と述べ、京葉車両センターでの構内運転業務一部外注化を組織の総力をあげて阻止することを宣言した。動労千葉組合員を先頭に450人が結集した
30日千葉 市東孝雄さん2つの農地裁判
千葉地裁で市東孝雄さんの2つの農地裁判(行政訴訟・農地法裁判)が開かれた。三里塚芝山連合空港反対同盟と労働者・学生・市民が傍聴席を埋め、多見谷寿郎裁判長による口頭弁論打ち切りと早期結審の策動と全力で闘いぬいた
30日東京 星野再審ビデオ国賠第2回口頭弁論
東京地裁で星野再審ビデオ国賠訴訟第2回口頭弁論(民事第45部・石井浩裁判長)が開かれた

------------------------TOPへ---------------------------

月刊『国際労働運動』(423号A-1)(2011/11/01)

編集後記

■編集後記

 園の5万人集会は、10万人集会と言ってもいい位の大集会となった。3・11以後、世界は日本の階級闘争に注目していたが、ついに日本で10万人といえる大集会とデモが起きた。
 何しろ数がすごい。明治公園はあふれ、その周辺の道という道に人があふれた。千駄ヶ谷の駅から降りられない人もいた。60年安保、70年安保と比較してもそれを超えるような大集会と大デモだった。世界大恐慌と大震災・原発事故という日帝の危機に対して、日本の労働者階級人民の怒り、本当の力を見せつけた。
 この力のすべてを次は11・6労働者集会へ、が合言葉だ。体制内の枠を超えた労働者の自主的な決起だった。労働組合は変えられる。その時に労働者は社会の主人公となる。原発廃止・再稼働阻止へさらに進もう。

------------------------TOPへ---------------------------