2009年12月21日

権力のデッチあげ暴く再審請求書 星野第2次再審 大形敏也

週刊『前進』06頁(2421号6面1)(2009/12/21)

権力のデッチあげ暴く再審請求書
 星野第2次再審闘争勝利へ
 労働組合に持ち込もう
 大形敏也

 11月27日、無実の星野文昭同志と再審弁護団は、東京高等裁判所第11刑事部に、27点の新証拠を添えて第2次再審請求書を提出した。6月の全国総会で確立した、労働者階級の力にトコトン依拠する路線にもとづく勝利だ。翌28日の全国集会では、「これで星野さんを取り戻すことは可能だ」と全員が確信を深めた。星野闘争は新たな段階に突入した。「再審請求書」を手に、労働組合の中に分け入り、再審を求める闘いを全国に広げ、今次再審闘争で絶対に星野同志を奪還しよう。

 沖縄奪還闘争に恐怖

 1971年当時、佐藤栄作首相は「核抜き・本土並み」で沖縄返還を実現すると公約しながら、その実、沖縄を米軍基地の島として固定化しようとしていた。
 沖縄人民は、沖縄戦の後27年間続いた米軍政からの解放を求め、島ぐるみの不屈の闘いを展開していた。日米両政府はペテン的な「沖縄返還」で沖縄人民の怒りを沈静化しようとしたのである。
 71年11月、佐藤内閣は破防法弾圧を発動するとともに、事実上東京都内での集会・デモを一切禁止し、人民に反対の声一つ上げさせない中で、沖縄返還協定の批准を強行しようとしていた。
 11月14日の渋谷闘争は、これと真っ向から対決し、返還協定批准阻止を貫く闘いだった。星野同志が率いるデモ隊は、代々木八幡駅から渋谷に進撃した。途中、神山交番前で阻止線を張っていた機動隊はガス銃を乱射し、闘いの鎮圧に出た。だが、デモ隊は一瞬にしてこれを粉砕し、最後までガス銃で敵対した機動隊員がせん滅された。
 デモ隊は渋谷駅前に結集した労働者階級人民・学生と大合流し、機動隊を粉砕し、深夜まで渋谷暴動闘争を闘った。池袋駅では教育労働者・永田典子同志が虐殺された。
 この日の闘いを頂点とする70年安保・沖縄闘争の爆発は、日米安保体制を揺るがし、日本革命の現実性を日帝につき付けた。これに恐怖した日帝は、星野同志に憎しみを集中し、無実を百も承知で、見せしめ的に無期懲役刑を加えたのである。それは破防法の発動と、反革命カクマルの白色テロルと一体の、大逆流であった。

 ねつ造の証拠で逮捕

 星野同志は無実である。にもかかわらず、国家権力の憎しみを一身に受けて無期懲役刑の攻撃を受けている。星野同志を有罪とする物的証拠はまったくない。あるのは未成年の3人を含む、学生6人のねつ造された「共犯者供述」だけである。
 このうち5人は、公判廷で捜査段階での供述を覆し、それが取調官によって強制され、誘導されたものであることを、体験した本人でなければ語れない口調で証言している。残りの1人は、異様な証言拒否を繰り返した。
 星野同志らのデモ隊の主体は労働者だった。捜査当局は当初、「労働者主犯説」をとった。次々に労働者を逮捕し、その中から「犯人」をつくり出そうとしていた。しかし、完全黙秘の闘いにより、デッチあげは粉砕された。
 捜査方針は、72年、「学生主犯説」に転換された。見込み捜査で、群馬の学生が次々と逮捕された。「殺人罪をつける」「友人を逮捕する」、また、病気の学生に「治療を受けたければ言うことを聞け」との脅しが、連日、朝から深夜まで、長時間の取り調べの中で繰り返されたのである。
 取り調べでは、検事が名前を教え、それが調書にされていった。デッチあげを強いられた5人は「あらかじめ筋書きが作られていた」「記憶の事実を離れて、調書が特定されていった」などと証言している。現場検証に連れて行かれたら、「すでに、位置関係が石墨で書いてあった」とも証言している。
 このようにデッチあげられた調書で、星野同志は、35年間も獄中にとらわれているのだ。

 確定判決の超脆弱性

 確定判決(1983年、東京高裁判決)は星野同志が①「中村巡査を殴打した」②「火炎びん投てきの指示をした」との2点を認定し、星野同志を無期懲役刑にした。殴打に関しては、捜査段階において星野同志の殴打を「明確に供述」しているとして、Kr供述を核心証拠と位置づけている。しかしKr証人は「後ろ姿を見た。実際に殴って当たる部分を見てるわけじゃないけど、星野さんの特徴だったきつね色の上着の腕が振りあがっているのを見た」と公判で証言していた。
 最高裁は、昨年7月の特別抗告棄却決定で、星野同志の服の色は「薄青色」であり、きつね色ではない、Kr証人の服の色に関する供述は間違いである、と明確に認めざるを得なかった。
 にもかかわらず最高裁は、「Krは声で星野と分かったのだ、後ろ姿で分かったのだ」と、Kr証人自身がどこでも一言も言っていないことを勝手に推測して、あくまでも「星野が殴打していた」と、再審請求を棄却し、「星野=無期」を維持したのである。これほどの理不尽はない。
 火炎びん投てきの指示に関して、確定判決が証拠とするのはAo証人とAr証人の2人の供述調書だけである。「殴打」に関して最大の証拠とされたKr供述は、星野同志の声だと特定していない。逆に、星野同志のいた位置とは別の方向から「指示」が聞こえたと述べている。しかも、Ao証人もAr証人も取り調べ段階の供述を公判廷では撤回したのである。
 星野同志を無期懲役刑にしている確定判決はかくも弱くもろい。星野同志は殴打も、火炎びん投てきの指示もしていない。これが真実である。

 学習会開こう

 星野同志と弁護団は東京高裁に攻勢に次ぐ攻勢を掛け、第2次再審闘争で再審・無罪・釈放を絶対かちとる決意である。
 星野同志の陳述書と第2次再審請求書を徹底的に学習しよう。学習会を組織し、星野同志無実の確信を深めよう。その確信と、日帝国家権力への煮えたぎる怒りをもって、職場で街頭で、「再審無罪・即時釈放」を求める「新10万人署名」運動に猛然と打って出よう。全国の労働組合に「星野奪還」への取り組みを全力で訴えるのだ。
 歴史的生命力を喪失した資本主義の大失業攻撃のもとにあって、星野同志の闘いは、松川裁判闘争の地平を超える労働組合の決起を必ず実現できる。労働組合の闘いが中軸に座った時に、広範な市民運動の結集も初めて可能となる。星野同志奪還の展望はここにある。労働者階級の階級的獲得をかけて、星野同志奪還の闘いに総力で決起することを訴える。
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1971年以来の主な流れ
1971.11.14 沖縄返還協定批准阻止闘争(渋谷闘争)に参加。警官1名がデモ隊との衝突で火傷死
1972. 2.21 渋谷事件で殺人罪指名手配を受ける
1975. 8.6 不当逮捕
1979. 2.13 死刑求刑、死刑阻止署名12万筆
   8.21 一審判決、懲役20年
1981. 7   東京拘置所移監、4次の懲罰
1983. 7.13 二審判決、無期懲役刑
1986. 9.17 暁子さんと獄中結婚
1987. 7.17 上告棄却・無期懲役刑確定
   10.30 徳島刑務所移監
1991. 5.15 再審弁護団結成
1996. 4.17 再審請求
2000. 2.22 再審請求棄却決定
   2.24 異議申立
2004. 1.19 異議申立棄却
   1.23 最高裁に特別抗告   
2005.11.14 徳島刑務所、四国地方更生保護委員会要請行動
2006. 1.17 徳島弁護士会人権擁護委員会に人権救済申立
2008. 7.14 最高裁、特別抗告棄却決定
   7.31 最高裁に抗議行動
2009.11.27 第2次再審請求書を提出
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