ZENSHIN 2001/05/07(No2004 p10)

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週刊『前進』(2004号4面1)

こんな教科書を使わせてはならない 歴史歪曲と戦争賛美と皇国史観
 「つくる会」教科書採択阻止へ

 目次

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 日帝・文部科学省は「新しい歴史教科書をつくる会」の歴史と公民の中学教科書を検定合格させた。それは日帝のアジア再侵略戦争宣言である。アジア人民の怒りの決起にこたえ、連帯して、「つくる会」教科書を弾劾し、採択を阻止しなければならない。「つくる会」歴史教科書の際だった特徴は、日帝の戦争犯罪の事実や被害者数などに関する記述が、全編をとおしてただの一カ所もないことである。検定意見により加筆した個所でも「これまでの歴史で、戦争をして、非武装の人々に対する殺害や虐待をいっさいおかさなかった国はなく、日本も例外ではない」と抽象的に記すのみで、日本の戦争犯罪それ自身を抹殺している。その一方で、他国の戦争犯罪は具体的人数をあげて記している。ここに彼らの致命的な弱点と犯罪性がある。ついに登場した歴史歪曲・戦争賛美・皇国史観の教科書を絶対に教室で使わせてはならない。東京・杉並で七月採択阻止の大運動を巻き起こせ! 都議選必勝をかちとろう。

《“歴史を裁くな”と戦争犯罪を居直る》

  歴史的な事実を抹消し美化狙う

 「つくる会」歴史教科書の冒頭には「歴史を学ぶとは」と題して、次の三つの文章がある。
 @「歴史を学ぶのは過去の事実を知ることではない。過去の人が過去の事実についてどう考えていたかを学ぶことだ」
 この言葉は「つくる会」が過去の歴史的事実をいかに恐れているかを自認するものであり、過去の事実を教えないために登場した教科書であることを公言したものだ。
 「過去の人がどう考えていたか」と言うが、そこには侵略されたアジア人民、暗黒支配下の労働者人民は存在しない。その反対に、侵略者・弾圧者であった当時の日帝支配階級の「考えていたこと」だけを歴史として教え、侵略と戦争の歴史のすべてを正当化し賛美しようとしているのだ。
 A「歴史を学ぶとは、今の時代の基準からみて、過去の不正や不公平を裁いたり、告発したりすることと同じではない」「歴史に善悪を当てはめ、現在の道徳で裁く裁判の場にすることもやめよう」
 これは「つくる会」歴史教科書の狙いを示す言葉である。そもそも「つくる会」の大目的は、歴史教科書から南京大虐殺、軍隊慰安婦、七三一部隊、強制連行などの侵略の具体的事実の記述を抹殺することである。日帝の植民地支配責任・戦争責任を追及するアジア人民、それと連帯した日本人民の闘いをたたきつぶすために登場したものなのだ。
 日帝の過去の侵略と戦争を裁くな、批判するな、反省するなと強弁し、居直り肯定することが、この教科書の目的なのである。
 B「歴史は民族によって、それぞれ異なって当然かも知れない。国の数だけ歴史があっても、少しも不思議ではないかも知れない」
 ここでは、歴史を学問でも科学でもなく、世界中どこでも通用するものでもなく、日本の中だけで通用する自己中心的なものにすると言っている。何のためにこんなことを言うのか。天皇制を賛美し、神話を歴史としてまかり通らせるような教育は世界のどこでも通用しないからだ。そのことを自覚した上で、“日本だけの歴史゜をつくろうと言っているのだ。
 戦前の学校教育は、つくり話にすぎない天皇神話を歴史的事実として教え、デマをそのまま暗唱させた。そのことによって、「天皇陛下万歳!」と言って戦地に赴くことのできる兵士を育てた。
 「つくる会」教科書はその再現をめざし、新たな侵略戦争に向けた愛国主義と排外主義の「皇国史観」教育、「天皇に忠実な兵隊」をつくる戦前式教育を復活させようとしているのだ。

  戦争責任追及に追いつめられて

 一九九〇年代、歴史教科書における侵略戦争の記述は、日本軍軍隊慰安婦政策、南京大虐殺、強制連行の記述が増えるなど、一定の改善を見せてきた。とりわけ九七年度以降使われてきた中学用歴史教科書では、全社で日本軍軍隊慰安婦政策が掲載された。
 その背景には、朝鮮・中国―アジアの、日本軍軍隊慰安婦とされた人びとを始め多くの戦争犯罪の被害者・遺族からの日帝に対する告発・糾弾の闘いと戦後補償裁判の提訴があり、また教科書執筆者の取り組みや教育労働者の闘いがあった。
 これに対して九五|九六年以降、「自由主義史観研究会」(代表・藤岡信勝)などの勢力が攻撃を始めた。教科書の日本軍軍隊慰安婦や南京大虐殺の記述を「反日的・自虐的・暗黒的」と非難し、教科書から排除せよと叫んで運動を展開した。
 九七年には「新しい歴史教科書をつくる会」(会長・西尾幹二)を結成し、以降、産経新聞、自民党の国会・地方議会議員や右翼諸団体、宗教団体などとの組織的な協力を進行させ、独自の教科書作成と教科書採択運動を展開してきた。
 そして今、戦争翼賛の「つくる会」教科書が登場した。この攻撃の背景には明らかに、日帝中枢から噴きだす侵略と戦争、改憲への激しい衝動がある。
 とりわけ九七|九八年恐慌と日帝の没落帝国主義化の危機、九七年日米安保新ガイドライン調印―九九年周辺事態法制定をとおした「戦争をする国家」への反革命的踏み切り、世界大恐慌の本格化と日帝の体制的危機という問題がある。
 今、戦争と改憲=戦争国家化以外に延命できないところに追いつめられた日帝は、日本労働者人民総体への階級決戦として教育改革攻撃をかけてきているのだ。
 今、日本の労働者人民の決起が問われている。「つくる会」教科書採択を絶対に阻止しなければならない。南朝鮮・韓国を始めとするアジア各地で猛然たる糾弾の闘いが巻き起こっている。日帝の戦争犯罪の生き証人であり、民族解放闘争の主体である日本軍軍隊慰安婦を始めとする戦争被害者と遺族がその先頭に立っている。
 この闘いと連帯してわれわれが総決起するならば、必ずや日本人民の階級的魂を揺り動かし、アジア人民と連帯した壮大な国際主義的共同闘争を切り開くことができるのだ。
 極右小泉、そしてファシスト石原都知事や山田杉並区長と真っ向から対決し、街頭・地域で、職場・学園でとことん討論を巻き起こし、「つくる会」教科書の七月採択を絶対に阻止しよう。

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《侵略の加害事実の抹消》

 台湾・朝鮮の植民地支配は民族を抹殺する攻撃だった

 まず、日帝の戦争犯罪の中でも決定的な台湾と朝鮮に対する植民地支配についてどう記述しているか。
 「一八九五年、日清両国は下関条約を結び、清は朝鮮の独立を認めるとともに、日本政府の財政収入の三倍に当たる賠償金三億円を支払い、遼東半島と台湾などを日本に割譲した」
 日帝が一八九五年から一九四五年まで、実に五十年間にわたって台湾を植民地支配したという事実そのものを消し去っている。
 では朝鮮の植民地化についてはどうか。
 「日本政府は、韓国の併合が、日本の安全と満州の権益を防衛するために必要であると考えた。……こうして一九一〇(明治四三)年、日本は韓国内の反対を、武力を背景におさえて併合を断行した(韓国併合)」
 あたかも「日本の安全と満州の権益を防衛するために必要」な防衛的行動であったように描きあげるとんでもない主張だ。(当時日帝は、日露戦争によりロシアから中国東北部の鉄道の権益を獲得し、南満州鉄道株式会社を設立して勢力拡大を進めていた)
 植民地支配は、民族そのものの圧殺であり、あらゆるものを奪い去り、隷属させるものである。台湾と朝鮮への植民地支配とは、アジアにおける後発帝国主義としての日帝が、欧米帝国主義に伍してアジア勢力圏化を推し進めるために強行したものであり、中国全面侵略戦争と東南アジア侵略戦争の出撃拠点とするためのものであった。この歴史を消し去ることなど、絶対に認められない。
 次に、植民地支配の実態をいかに記しているか。
 「韓国併合のあと、日本は植民地にした朝鮮で鉄道・潅漑(かんがい)の施設を整えるなどの開発を行い、土地調査を開始した。しかし、この土地調査事業によって、それまでの耕作地から追われた農民も少なくなく、また、日本語教育など同化政策が進められた」
 検定意見により「耕作地から追われた農民」「日本語教育など同化政策」の言葉がつけ加えられたが、その前段に「鉄道・潅漑の施設を整えるなどの開発」をもってくることで、「日本の植民地支配は韓国に恩恵をもたらした」論にまとめあげようとしている。
 日帝は植民地支配によって、台湾人民・朝鮮人民に何をもたらしたのか。
 そもそも一九一〇年八月の韓国併合自身、日本軍と警察隊がソウル市内を制圧する中で、強制的に調印されたものだ。同年十月の朝鮮総督府の設置に先立って、新聞は廃刊、集会・結社は禁止、一万六千三百人の憲兵や巡査が展開して、朝鮮全土は永続的な戒厳令下に置かれた。朝鮮総督府の総督は司法、行政、立法の三権を掌握し、天皇に直属するという、暴力的な天皇の直轄支配だった。
 一〇〜一八年に「土地調査事業」を実施、全農民の八〇%近くが土地の所有権を奪われた。奪い取った土地の多くは朝鮮総督府の所有となり、日本人に安く払い下げられた。朝鮮人民の生活は破壊され続けた。
 三七年の日中戦争開始以降は、朝鮮人を完全に「皇国臣民化」させるための「内鮮一体」を提唱した。三八年三月には朝鮮語を正課からなくし日本語の常用を強要。四〇年二月には「創氏改名(名前を奪って日本名を強制)」を実施し、応じない人には官憲や教師を総動員して脅迫や圧力を加えた。
 これらは朝鮮人民の抵抗闘争を武力で押さえつけ、民族の独立を奪い、民族の尊厳を奪い、生活を破壊し、生命まで奪った残虐な支配であった。しかし一九年三・一独立運動に代表されるように、朝鮮人民の民族解放闘争は日帝の敗戦までやむことはなかった。

 強制連行の実態

 こうした中で、台湾人民・朝鮮人民を日本国内と日本の侵略戦争の最前線に連れ去った強制連行が強行された。「つくる会」教科書には、「強制連行」という言葉はない。検定意見によって、以下の文が書き加えられただけである。
 「徴用や徴兵などは、植民地でも行われ、朝鮮や台湾の多くの人々にさまざまな犠牲や苦しみをしいることになった。このほかにも、多数の朝鮮人や占領下の中国人が、日本の鉱山などに連れてこられて、きびしい条件のもとで働かされた」
 ここでも、「多くの人々」「さまざまな犠牲や苦しみ」などと、事実を消し去ろうとしている。
 だが強制連行の実態はどうだったのか。三九年に「国民徴用令」を公布した日帝は、四五年八月までに炭坑、金属鉱山、軍需工場、土建業、港湾運輸などに約百五十万人の朝鮮人を強制連行して強制労働させた。四四年には朝鮮に徴兵制を敷き二十三万人を戦場に動員し、最前線の労働に軍属として十五万人以上の朝鮮人を動員した。それは「深夜や早暁、突如男手のある家の寝込みを襲い、或は田畑で働いている最中にトラックを廻して何げなくそれに乗せ、かくてそれらで集団を編成して北海道や九州の炭坑へ送り込む」(鎌田沢一郎『朝鮮新話』)というものだった。
 台湾人も、台湾総督府の資料だけでも南方各地に九万二千七百四十八人、日本国内に八千四百十九人を動員した。戦時下における人狩りは朝鮮、台湾から中国大陸にまで及んだ。
 強制連行された朝鮮人・中国人は、極限的な暴力支配のもとで酷使され、死亡した人びとも数知れない。こうした中で朝鮮人・中国人は、四五年六月の秋田県花岡鉱山・鹿島組出張所での中国人六百人の蜂起に代表されるように、文字どおり命がけの決起を続けた。
 この強制連行の結果、四五年八月の敗戦時、日本にいた朝鮮人は約二百六十万人、台湾人を含む中国人は約十万人に及んだ。

 軍隊慰安婦政策

 この教科書が押し隠そうとしている重大事実の中でも最大のものは、日本軍軍隊慰安婦問題だ。そもそも「つくる会」は、日帝の植民地支配責任・戦争責任を追及するアジア人民の不屈の糾弾闘争への憎悪が原動力となった運動である。
 九一年の金学順さんの決起を皮切りに、全アジアで日本軍軍隊慰安婦とされた女性たちが陸続と決起、その闘いの中で、九七年度から使われた歴史教科書では七社すべてに「従軍慰安婦として強制的に戦場に送り出された若い女性も多数いた」などと記述された。これを粉砕するために結成されたのが「つくる会」だ。
 「つくる会」歴史教科書の検定合格の運動と一体のものとして進められた政府・文部省、自民党の教科書内容への介入により、今回検定に合格した他の教科書でも、日本軍軍隊慰安婦については、七社中四社が全面削除し、記述した三社のうち二社は「慰安婦」の言葉を使わなくなった。このことを「つくる会」会長西尾幹二は「運動の成果」と誇っている。
 日帝の戦争責任を追及し闘う生き証人としての日本軍軍隊慰安婦の存在そのものの抹殺が、「つくる会」運動の核心的狙いなのだ。
 では、日本軍軍隊慰安婦政策とは何であったのか。
 日帝は、憲兵や警察によって暴力的に連行し、あるいは稼ぎ口があるとだまして連行し、二十万人とも推定される女性が日本軍軍隊慰安婦とされた。日本軍の侵攻に伴ってアジア・太平洋全域に設置された慰安所には、朝鮮・台湾から十歳そこそこの少女たちも強制連行され、想像を絶する虐待を受けたのである。女性たちの圧倒的多数は戦場から生きて帰ることもできず、生き延びることのできた女性たちも戦後沈黙の中で苦痛に満ちた半世紀を強いられた。
 日本軍軍隊慰安婦政策とは、日帝によるアジアの被抑圧民族に対する組織的国家犯罪であり、その本質は朝鮮・中国・アジアの他民族抑圧・抹殺政策そのものであった。この残虐な戦争犯罪の事実を消し去ることを、日本人民の階級的・国際的責務として、絶対に許してはならない。

 中国人民30万人を殺害した南京大虐殺は消せない史実

 日帝は台湾と朝鮮を足場に敗戦の四五年まで凶暴な侵略戦争を継続した。三一年柳条湖事件、三二年「満州国」なる日帝のかいらい政権のデッチあげ、三七年七月七日の盧溝橋事件(関東軍が「兵士が行方不明になった」とデッチあげて中国軍を攻撃)から中国全面侵略戦争に突き進んだ。そして四一年十二月八日には日米戦争に突っ込み、また同日、東南アジア侵略戦争に突進した。
 この「十五年戦争」における日帝の戦争犯罪を抹殺する主張について、最大の攻防点である南京大虐殺にしぼって見ていきたい。
 「つくる会」教科書では、南京大虐殺に関する記述が二カ所ある。
 「(三七年)十二月、南京を占領した。(このとき、日本軍によって民衆にも多数の死傷者が出た。南京事件)」
 「この東京裁判では、日本軍が一九三七(昭和一二)年、日中戦争で南京を占領したとき、多数の中国人民衆を殺害したと認定した(南京事件)。なお、この事件の実態については資料の上で疑問点も出され、さまざまな見解があり、今日でも論争が続いている」
 後者は、「今日、この裁判については、国際法上の正当性を疑う見解もある」として、大虐殺の事実そのものに疑問をはさみ、否定している。
 南京大虐殺をめぐっては、右翼勢力が一貫して「南京大虐殺はまぼろし」と主張し、その事実を抹殺しようとしてきた。現都知事の石原慎太郎も、その先頭に立ってきた人物だ。しかし中国人民の告発と闘いによって、また多くの人びとの真相究明の取り組みによって、「南京大虐殺否定論」は完全に粉砕されてきた。にもかかわらず「つくる会」教科書は正面から「南京大虐殺否定論」を主張しているのだ。
 南京大虐殺は、まさに世界史的にも類例を見ない戦争犯罪であり、帝国主義戦争の残虐の極致を示したものであった。それは三七年十二月十三日の南京城攻略をはさんで、十二月初めから三八年三月まで三カ月以上におよぶ、中国の投降兵・捕虜と一般市民の無差別大量虐殺であり、さらに市民に対する強姦(ごうかん)、暴行、略奪・放火の全体をさし、犠牲になった人は二十万人をはるかに超え、三十万人にもおよぶ。
 まず捕虜の組織的殺害が行われた。日本軍が十二月十三日に南京城を攻略した時には、十万人近い中国兵が逃げ遅れて投降した。それに対し日本軍は「事変だから戦時国際法は適用しない」と組織的に殺害した。日本側資料で明らかになっているだけでも第一六師団は二万四、五千人の捕虜を「片づけ」、山田支隊は幕府山付近で一万四千七百七十七人を捕虜にして揚子江岸で射刺殺した。第九師団は六千六百七十人を「処断した」。ほかにも資料に残っている捕虜の殺害は多くある。これだけでも数万人が殺害された。
 さらに市内掃討と集団処刑である。日本軍は「軍人が軍服を脱いで便衣(平服のこと)に着替えて市内に潜伏している」として、「便衣兵の剔出(てきしゅつ)」の名で、青壮年を片っ端から処刑した。この数は日本側の記録によってだけでも一万五千人をこえ、南京城外も加えればはるかにふくれあがる。
 さらに非戦闘員である一般市民への残虐行為、とりわけ女性に対する強姦殺人である。日本軍は女性を見つければ年齢を問わず片っ端から強姦し殺害、さらに子どもも高齢者も片っ端から皆殺しにした。一般市民の死者数を正確に数えることは不可能だが、当時の南京安全区の国際委員会の委員長ラーベ(ナチス党支部長)が、城内だけでも「五万か六万くらい」と報告している。一般市民の被害は市内よりも周辺農村部の方がはるかに多い。
 「つくる会」教科書は、修正前の申請本では、「当時の資料によると、そのときの南京の人口は二十万人で、しかも日本軍の攻略の一カ月後には、二十五万人に増えている」と記していた。しかし実際には、南京戦が始まる前の南京の城市部の人口は百万を超え、近郊県部の人口は百三十万以上であった。さらに南京攻略の時には、南京防衛軍の約十五万人の兵士が加わっていた。「人口は二十万人」というのは、南京大虐殺の事実を覆い隠すためのデマである。
 しかも南京大虐殺の犠牲者数を示すものとして、南京で犠牲になった人びとの遺体埋葬記録がある。慈善団体などが虐殺され放置された遺体を埋葬した数を記録している。「世界紅卍会南京分会」が合計四万八千七十一体、「崇善堂」が合計十一万二千二百六十七体、「中国紅十字会南京分会」が南京周辺で二万二千六百七十一体、「南京自治委員会」(日本軍のかいらい機関)の衛生局が一万七百九十四体である。これらの中には、いったん埋葬したものを改めて埋め直したために重複している数はあるかもしれないが、いずれにせよおびただしい数であることは間違いない。
 南京大虐殺とは絶対に消すことのできない史実である。「つくる会」教科書がこの事実を消し去ることを絶対に許してはならない。

 「アジアを解放」「自存自衛」と日帝の侵略戦争全面肯定

 以上のように「つくる会」教科書は、歴史の事実を徹底的に抹殺し、歪曲し、ねつ造している。その目的はただ一つ、「日本の戦争はアジア解放と自存自衛のための正義の戦争だった」と描くことにある。
 「つくる会」教科書は、四一年十二月真珠湾攻撃による対米開戦について「日本の戦争目的は、自存自衛」であったとするために、次のように記している。
 「アメリカ、イギリス、中国、オランダの諸国が共同して日本を経済的に追いつめるABCD包囲網が形成された」「(四一年)十一月、アメリカのハル国務長官は、日本側にハル・ノートとよばれる強硬な提案を突きつけた。ハル・ノートは、日本が中国から無条件で即時撤退することを要求していた」
 いずれも“アメリカに追い込まれた結果の自存自衛の戦争だった゜と日帝の戦争を正当化しようとする。
 しかしはっきりさせるべきことがある。日米戦争|第二次大戦は、レーニンが『帝国主義論』において第一次大戦について記したのとまったく同じく、「どちらの側から見ても帝国主義戦争(すなわち、侵略的、略奪的、強盗的な戦争)であり、世界の分けどりのための、植民地や金融資本の『勢力範囲』等々の分割と再分割とのための戦争」だったということだ。
 当時世界は、世界大恐慌と大不況にあえぐ各国帝国主義が、生き残りをかけて植民地・勢力圏の排他的な囲い込みに入り、世界経済が完全にブロック化していた。ドイツ、日本などの後発帝国主義は、生き残るためには侵略と膨張を必要とした。日本の「大東亜共栄圏」構想は、帝国主義間争闘戦で生き残るための勢力圏化攻撃であった。
 こうした中で日帝は、最も凶暴な帝国主義として、中国|アジア侵略戦争と対米戦争に突き進んだ。「アメリカが悪い」と言って日帝の戦争を正当化することなど、けっしてできない。
 次に「アジア解放の戦争」論の犯罪性だ。
 「(四一年十二月の東南アジア侵略戦争突入の後に)日本政府はこの戦争を大東亜戦争と命名した。日本の戦争目的は、自存自衛とアジアを欧米の支配から解放し、そして、『大東亜共栄圏』を建設することであると宣言した」
 「戦争の当初、日本軍が連合国軍を打ち破ったことは、長い間、欧米の植民地支配のもとにいたアジアの人々を勇気づけた。……一九四三年十一月、この地域の代表を東京に集めて大東亜会議を開催した。会議では、各国の自主独立、各国の提携による経済発展、人種差別撤廃をうたう大東亜共同宣言が発せられ、日本の戦争理念が明らかにされた。……これらの地域(インドネシア、インド、ビルマを指す)では、戦前より独立に向けた動きがあったが、その中で日本軍の南方進出は、アジア諸国が独立を早める一つのきっかけともなった」
 まさに歴史の偽造だ。朝鮮・中国|アジア人民の闘いは、侵略帝国主義=日帝にこそ向けられていた。そして日帝の植民地支配や侵略戦争があれほどの暴虐と残虐の限りを尽くしたのは、日帝自身に、アジア人民の民族解放闘争に対する根底的な恐怖があったからにほかならない。南京大虐殺はその典型である。
 日帝は、帝国主義間戦争としての対米戦争に敗北したばかりではなく、アジア人民の不屈の民族解放闘争の前に敗北したのである。朝鮮・台湾人民の民族解放と独立を求める闘争、中国・アジア人民の抗日戦争によって、結局日帝は敗北したのだ。
 しかも、「つくる会」教科書が「自存自衛の戦争」「アジア解放の戦争」と主張する戦争は、日本帝国主義のほんの一部の支配層・ブルジョア階級の階級的利害をかけた戦争であった。
 日本労働者人民は、スターリン主義の裏切りの中で、プロレタリア階級として解体され、屈服した結果として、アジア侵略に動員され、階級的・国際主義的連帯の相手であるアジア人民に対して、自ら侵略の刃を向けるという犯罪に手を染めた。それは自らの階級的利害とはまったく相反する、自らを支配し抑圧する階級のための戦争だった。
 日本労働者人民は、この歴史への階級的自己批判をかけて、日帝の戦争責任追及と、「連帯し、侵略を内乱へ」の闘いに総決起しなければならない。「二度とあやまちは繰り返さない」という戦後の誓いと決意を、今こそ貫きとおさなければならない。
 日帝の侵略と戦争を真っ正面から賛美し、子どもたちに再び侵略の銃をとらせる「つくる会」教科書を、闘うアジア人民と連帯して絶対に粉砕しよう。
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 証言 17歳の私に戻して 金学順(キムハクスン)さん

 私が慰安所に連行されたのは十七歳の春です。日本軍は道端にいる女性をそのまま無条件に連れて行きました。軍人は朝鮮女性を人間扱いせず、蹴ったり殴ったりしながら連れていったんです。私と友だちは満州の方に、それも前線に行かされました。一緒に連れていかれた女性がエミコ、そして私がアイコと名のりました。日本名を使っていましたが、すべて朝鮮の女性です。
 私の父母の故郷は北にあります。父は独立運動をしていて、三・一運動に加担したことで両親は満州に追われ、私は吉林省で生まれました。そして私が百日を迎えた頃、父は日本軍の銃によって殺されました。父が殺されただけでも辛いのに、そのうえ自分がこんな目にあって日本人を見るのも嫌です。
 しかし、日本政府が従軍慰安婦のことは知らない、民間業者がやったことだ、そんな事実はなかったという態度をとっていると聞いて、いてもたってもいられなくなったんです。
 私はJALの飛行機で(日本に)来たんですが、窓の外を見ると翼に日の丸のマークがありました。その瞬間五十年間私の人生をめちゃくちゃにした日本に対する思いが込み上げてきました。
 昨日の提訴(九一年十二月六日、東京地裁)では十七歳の頃に戻してほしいといいました。私は日本政府に補償してくれといってるわけではありません。お金がほしいわけじゃないんです。胸の中につまっている恨(ハン)をといてほしい。このことを考えるだけで胸がつまって身の震える私の恨をといてほしい。
 過去にあったことはあったこととして、認めて謝ってほしいと思います。そうしたら私の心もすっきりします。そういった事実があったことを教科書なりなんなりで若い人たちに教えるようにしてください。
 日本には三十六年間多くの朝鮮人を殺し、朝鮮という国をなくそうとした歴史があります。名前まで奪い、日本名を名のらなければ学校に通えなかったんです。日本は朝鮮を併合し、中国と戦争をし、太平洋戦争をしました。日本の人は戦争、争いをなくすようにしてほしいと思います。
 PKOの海外派兵に反対する人を見て、日本にもこういう人がいるんだなと大変感心しました。日本は経済大国であり、軍事大国です。日本が今になってどこに何を派兵しようとしているのか。本当にやめてほしい。これから先こんな不幸なことがないように、平和的に生きれたらどんなにいいでしょうか。〔九一年に勇気ある証言に立った金学順さんは、九七年十二月十六日に逝去された〕

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週刊『前進』(2004号5面1)

《天皇のための死を賛美》

 「玉砕」「特攻隊」の美談化は再び青年に銃をもたせるため

 全員に死を強要

 「つくる会」教科書の戦争賛美の極致は、特攻隊や日本軍の「玉砕」を美談に仕立て上げていることだ。
 「アリューシャン列島のアッツ島では、わずか二千名の日本軍守備隊が二万の米軍を相手に一歩も引かず、弾丸や米の補給が途絶えても抵抗を続け、玉砕していった。こうして、南太平洋からニューギニアをへて中部太平洋のマリアナ諸島の島々で、日本は降伏することなく、次々と玉砕していった」
 「つくる会」教科書は、「降伏することなく玉砕した」と美化しているが、実際は悲惨この上ない地獄絵であったのだ。
 アッツ島の守備隊二千五百七十六人は、孤島で増援を求めながら戦闘を続けていた。しかし、大本営は、二万五千人の戦死者・餓死者を出したガダルカナル島の二の舞になることを恐れて撤収。アッツ島守備隊は見捨てられた。攻撃に参加できない傷病者は全員自決させられ、最後の突撃で全員が戦死したのである。
 ゛玉砕″とは玉が美しく砕けるように名誉や忠義を重んじて、いさぎよく死ぬことという意味である。何が゛美しい″のか! 実態は侵略戦争の結果としての犬死にであり、惨劇の極致であったのだ。しかも「生きて虜囚の辱めを受けることなかれ」と、降伏して捕虜となることを厳しく禁じ、全員が死ぬことを命令されたのだ。
 しかし大本営はこれを「玉砕」と発表した。そして山崎部隊長を軍神に仕立て上げ、ブロマイドまで作製して全国の学校に配り、山崎部隊は一発の弾丸、一兵の救援、一塊の食糧も求めず全員が「玉砕」したと大宣伝した。以後、大本営はニューギニア、インパール作戦、フィリピン…で次々と全員戦死−全滅していったことの代名詞としてこの言葉を用いた。「玉砕」||それは天皇の軍隊による死の強制だった。
 四四年のビルマのインパール作戦では、弾一発、米一粒もなしと言われた状況で、三度にわたり進撃命令が出され、作戦に参加した九万弱の兵士のうち約三万人余が戦死。約四万人余が傷病でたおれた。傷病者は自決を強制された。残存兵員は作戦前のわずか八、九%だった。退却路は゛白骨街道″と言われた。
 同時に、東南アジア・太平洋諸島の人民は、日帝の侵略戦争と日米戦争の展開によってじゅうりんされ、虐殺されていった。日米帝国主義戦争は、戦場となったアジア・太平洋全域にとてつもない惨劇・破壊・犠牲をもたらした。
 侵略の銃を握った日本の労働者人民は最後は、天皇の軍隊(皇軍)として全滅させられたのである。
 天皇ヒロヒトは「戦いのことなればこのくらいは当然」と統帥部を鼓舞し、ガダルカナル奪回、サイパン死守への執着にみられるように戦局の巻き返しのために軍を励まし続け、死体の山が築かれていった。

 生命は“消耗品”

 「ついに日本軍は全世界を驚愕(きょうがく)させる作戦を敢行した。レイテ沖海戦で、『神風特別攻撃隊』(特攻)がアメリカ海軍艦船に組織的な体当たり攻撃を行ったのである」
 四四年十一月のレイテ沖海戦で日本海軍は戦艦武蔵など主力艦や空母を沈められ、連合艦隊は壊滅した。もはや日帝は戦争継続能力を喪失していた。
 こうした中で「神風特攻隊」が編成され、米軍への体当たり戦法が行われた。自爆高速ボート「震洋」、人間魚雷「回天」、人間ロケット「桜花」…。日本軍はこの特攻戦法を組織的かつ積極的に採用し、文字どおり人間の生命を消耗品のように使い捨てにした。
 通常の二倍の爆弾を搭載し、副操縦席や爆弾投下器もない、「体当たり」以外に能力のない飛行機が製作された。後には、離陸すると車輪が機体から離れる「帰還不能機」(棺おけ飛行機と呼ばれた!)さえ試作された。
 特攻戦死者は敗戦までに四千四百人に達した。特攻隊員の多くが二十歳前後の若者だった。学徒出陣組も加わっていた。命令を出した大本営の参謀たちは逆にほとんどが生き残って、戦後、豊かな恩給生活を送った。天皇ヒロヒトは、特攻機の出撃を聞いて「そのようにまでせねばならなかったか。しかし、よくやった」と言った。
 「玉砕」や「特攻隊」は、スターリン主義の裏切りのもとで国内での階級闘争が敗北した結果、侵略の銃を握り、数千万人のアジア人民虐殺に手を染めていった労働者人民の行き着いた先だった。最後は、文字どおり日帝と天皇制の一日一日の延命のために、労働者人民の生命が消耗されていったのである。
 一九四五年二月、元首相の近衛文麿は「敗戦は必至である。国体(=天皇制)の護持よりも心配なのは、敗戦に伴って起きる共産革命」と戦争終結の準備を進言せざるをえなかった。しかし天皇ヒロヒトは「もう一度戦果をあげてから」と戦争継続に固執した。
 ここに国体=天皇制護持・本土決戦の時間稼ぎのための沖縄戦が準備されていった。それはまったく勝ち目のない捨て石作戦だった。そして沖縄戦では「玉砕」の極限||日本軍による住民虐殺や「集団自決」||が強制されたのである。

 国体の捨て石に

 「一九四五(昭和二十)年四月には、沖縄本島でアメリカ軍とのはげしい戦闘が始まった。日本軍は戦艦大和をくり出し、最後の海上特攻隊を出撃させたが、猛攻を受け、大和は沖縄に到達できず撃沈された。沖縄では、鉄血勤皇隊やひめゆり部隊の少女たちまでもが勇敢に戦って、一般住民約九万四千人が生命を失い、十万人に近い兵士が戦死した」
 「つくる会」教科書は、沖縄県民が積極的に戦ったかのように美化して描いている。そして日本軍による沖縄県民の虐殺や集団自決の強要、国体護持のために沖縄が「捨て石」にされたことを隠ぺいしている。「勇敢に戦った」などというのは完全なウソである。
 一九四五年四月一日、米軍は艦船千五百隻、兵員十八万という大軍で沖縄本島に上陸した。陸軍を中心とした沖縄守備軍は米軍の本土上陸を引き延ばす持久戦術の方針をとっていた。そのため沖縄県民を避難させる措置をまったくとらず、逆に県民を総動員して戦場に駆り立て、中学生や女学生も戦闘員や看護婦として動員したのである(鉄血勤皇隊、ひめゆり学徒)。
 男子生徒は、戦場の最前線で働く通信兵や特攻切り込み隊として戦闘に参加させられ、千七百七十九人のうち半数の八百九十人が戦死した。女子学徒は、傷病兵の看護など戦場を軍とともに行動させられた。米軍に南端の喜屋武半島まで追いつめられた後、解散が命じられ、逃げ場を失った多くの女子学徒が集団自殺した。五百八十一人のうち三百三十四人が戦死した。
 日本軍は、一般住民を守るどころか戦闘の邪魔になると言って壕(ごう)から追い出し、食糧を強奪した。ウチナーグチ(沖縄方言)を使った住民をスパイ容疑で虐殺した。ついには「集団自決」を強要していった。食糧もなく行き場を失った沖縄県民は、家族や親類ぐるみで手榴弾(しゅりゅうだん)で自決した。手榴弾のない者はカミソリや包丁で互いに刺し合って命を断ったのである。
 さらに許せぬことに、「つくる会」教科書は、鉄血勤皇隊やひめゆり学徒など強制的に動員した沖縄県民を日本軍に算入して、日本軍の死者が多いかのように記述しているのである。実際の沖縄県民の犠牲者は十五万人と言われている。
 しかも日帝・天皇はなおも戦争を継続。本土空襲、広島・長崎への原爆投下で五十万人の命が失われた。
 これを二度と繰り返さないことこそが、歴史の尊い教訓なのである。

 天皇制弾圧と国家総動員の果てに大空襲と原爆の惨禍

 「労働力の不足を埋めるため徴用(政府の命令で、指定された労働を義務づけられること)が行われ、また、中学三年以上の生徒・学生は勤労動員、未婚女性は女子挺身隊として工場で働くことになった。また、大学生や高等専門学校生は徴兵猶予が取り消され、心残りをかかえつつも、祖国を思い出征していった(学徒出陣)」
 「物的にもあらゆるものが不足し、寺の鐘など、金属という金属は戦争のために供出され、生活物資は窮乏を極めた。だがこのような困難の中、多くの国民はよく働き、よく戦った。それは戦争の勝利を願っての行動であった」
 「つくる会」教科書は、当然のことのように「総動員体制が必要になった」「多くの国民はよく働き、よく戦った」などと書き、労働者人民が積極的に戦争に協力したかのように美化して書いているが、これはまったく事実を歪曲している。

 教育勅語と統制

 十五年侵略戦争が始まると、天皇制権力は、治安維持法や不敬罪によって労働者階級人民の闘いを徹底的に弾圧した。
 検挙者数がピークとなった一九三三年には約一万五千人が逮捕された。作家の小林多喜二や日本共産党の指導者の野呂栄太郎が特別高等警察(特高)の拷問によって虐殺された。日共幹部の佐野学と鍋山貞親が獄中で転向声明を発表し、日共は壊滅状態に陥った。労働組合や農民運動、無産政党、水平運動、学生運動、在日朝鮮人運動などが弾圧された。やがて滝川事件や天皇機関説事件などで学者や学問自体が弾圧され、ついには宗教者に弾圧が及んだ。
 真相の報道や批判的言動も一切禁止され、柳条湖事件は最初から「支那(しな)軍」による鉄道爆破というデマが報道された。南京大虐殺について日本人の多くは戦後、東京裁判で初めて知ったのだ。学問・文芸・映画などあらゆる領域で反戦的、非時局的、敵性的などとして規制された。
 そして最後には、情報を隠ぺいするだけでなく、情報を意図的につくりかえて、戦争の継続と戦意高揚を図った(大本営発表)。
 一方で、日本は万世一系の天皇が治める国で、皇室を中心に精神的に結合する、世界に優越する国であるという「国体論」を強調し、労働者人民、とりわけ子どもたちに、天皇と国家への忠誠を要求した。
 一九四一年の国民学校令で、小学校は国民学校と改められた。文部省は、国民学校の教育目標は「個人の発展完成」をめざすのではなく、教育勅語を奉じ「皇国の道にのっとりて国民を錬成し皇運を無窮(永遠)に扶翼(助けること)」するにあるとした。学校は天皇と国家のために尽くす人間をつくる「修練道場」になった。国民学校の教科書には、公然と軍が介入し、天皇と国家のために兵士として死ぬことを教えた。
 徹底的な治安弾圧と言論統制。そして皇国史観教育によって戦争動員体制はつくられていったのだ。

 隣組と勤労動員

 大政翼賛会は、内務省と警察が主導した国民総動員機関であった。町内会・部落会・隣組を通じて政府の国策の徹底的な浸透が図られた。兵士の見送り、防空演習、国債の割り当て、貯蓄の奨励など、詳細にわたって隣組が実務を負担した。そして反戦・反軍の言動をするものを警察へ密告する相互監視の機関となっていった。隣組を末端とする大政翼賛会は、労働者人民を戦争に動員し、思想・言動を監視する組織だった。敗戦直前には、日常的にバケツリレーや竹槍訓練が行われた。
 国家総動員法で、労働者を強制的に工場などで働かせ、中学生や女学生までも軍需工場などに動員した。学徒勤労動員は、教育効果をあげると称して始まったが、最後は、国民学校初等科以外は授業そのものが行われなくなった。戦局が悪くなると、これまで徴兵を免除されていた大学生も軍隊に召集された。その数は十三万人に及んだ。
 さらに決定的なことは、朝鮮から百五十万人、中国からは四万人が強制連行され、工場や鉱山などで過酷な労働が強制されたという事実である。
 男子四人に一人が侵略戦争・帝国主義戦争に駆り出され(敗戦時の兵力は七百二十万人)、約三百五十万人の学生・生徒が勤労奉仕に動員され、三百万人近い女子が軍需工場などで働いていたのである。文字どおり根こそぎの戦争動員だった。帝国主義の総力戦の極限的な実態だった。
 この帰結が、東京、名古屋、大阪、神戸などへの大空襲であり、広島・長崎への原爆投下だった。帝国主義戦争の最後は、生産力の粉砕と銃後を支える労働者人民の生活と生命の破壊へと向かった。これらの都市は軍都として存在していたことを忘れてはならない。空襲で二十万人、原爆で三十万人の人民が命を奪われた。
 しかしこうした中で戦争を止めるすべはなかったのか。否である。労働運動、農民運動、水平運動、女性運動、在日朝鮮人運動……一九二〇|三〇年代には労働者人民の闘いが確実に存在していた。核心は日帝の侵略戦争への突入を、闘うアジア人民と連帯して、日帝打倒・天皇制打倒の内乱−革命へと転化する党の問題だった。スターリン主義日本共産党の誤った指導下、本格的な階級決戦を闘うことなく、日本労働者階級は敗北した。その結果として戦争への総動員体制は形成されていったのだ。
 日帝・天皇制権力のもとでの絶望的な侵略と戦争、その帰結としての言語に絶する破滅と災厄。この歴史は二度と繰り返してはならないのだ。

 戦争と破滅への道を招いた皇国史観の復活を許すな!

 「つくる会」教科書には、神話に関する記述が大量に盛り込まれている。しかも神話と歴史の混同を狙った書き方になっている。
 まず「神武天皇の東征」で一ページを使っている。神武天皇が橿原(かしはら)の地で「初代天皇」に即位したと書き、「神武天皇が進んだと伝えられるルート」なる地図を掲載している。さらに次のように説明している。
「二月十一日の建国記念の日は『日本書紀』に出てくる神武天皇が即位したといわれている日を太陽暦になおしたものである」
 続いて「日本武尊(やまとたけるのみこと)と弟橘媛(おとたちばなひめ)−国内統一に献身した勇者の物語」なるコラムを二ページも使用して記述している。日本武尊を「景行天皇(第十二代)の皇子」と書いて、あたかも実在の人物であるかのように書いているのである。
 四ページを割いている「日本の神話」は、天照大神(あまてらすおおみかみ)が「皇室の祖先」であると語られ、天照大神の孫のニニギの天孫降臨やニニギの孫が初代神武天皇に即位する話が延々と語られる。
 また中近世史のところでも「将軍が天皇に任命されてその地位につく…」「天皇の権威を頼りにしている。それが武家の権力の限界だった」「江戸幕府の統治のよりどころは、徳川家が得た征夷大将軍という称号だった」などと、征夷大将軍の任命権の話を中心に天皇の権威を高くしようとこじつけ的に描いている。
 昭和天皇は、第一二四代と記されている。
 これは、かつて日本を侵略戦争と破滅の道に導いた皇国史観そのものである。天照大神を「皇室の祖先」であるとし、天譲無窮の神勅を受けた皇祖以来、万世一系、日本の統治権を天皇家が継承してきたと主張しているのだ。
 独善的、排外主義的な自国中心史観であり、恐るべき天皇制的抑圧と侵略戦争のイデオロギーである。
 かつて一九三一年柳条湖事件から始まった十五年戦争は、当初から神武天皇の東征神話になぞらえられた。そして戦争の目的を「神武天皇以来の大事業である八紘一宇(はっこういちう)の理想を実現するための戦争」だと宣伝した。つまり侵略戦争ではなく「聖戦」だと言ったのだ。
 八紘一宇は『日本書紀』の中で、神武天皇が即位に際して出した「八紘を掩(おお)いて宇(いえ)と為(せ)んこと亦(また)可(よ)からざらんや」という勅語が出典である。これを「四方八方、世界を一軒の家のようにすることもよいではないか」という意味だと解釈し、そこから「八紘一宇」という言葉が造語されたのである。
 しかも、日帝の世界支配の野望の表明であるこの八紘一宇のイデオロギーには「まつろわぬ(従わぬ)ものを討ち平らげて」という前提条件があった。こうして中国侵略戦争は「暴戻(ぼうれい)支那の膺懲(ようちょう)」(乱暴で道理にもとる中国を懲らしめる)などという排外主義とデマゴギーで塗り固められた「聖戦」とされた。
 そして「教育勅語」などで、「日本国民」は臣民として、忠孝の美徳をもって天皇に仕え、国運の発展に努めよ、いったん国が危険な事態に直面したならば一身を捧げて天皇とその治世を守らなければならないと説いたのだ。
 もちろんこれらは荒唐無稽(こうとうむけい)・無知蒙昧(むちもうまい)な虚偽のイデオロギーである。神武天皇を「初代天皇」と言うが、そもそも二千七百年近く前に国家や天皇が存在したのか? これは検討の余地すらない歴史の偽造である。
 このイデオロギーは、アジア人民を蔑視し抑圧する排外主義の極致である。同時に結局は天皇制の暴力と差別支配で日本労働者人民に襲いかかるものである。「つくる会」はこれを子どもたちにたたき込み、天皇とその国家に忠誠を尽くしアジア侵略の銃を持つ青年をつくりだすために、この教科書をつくったのだ。
 戦後、もう復活することなどないと思われてきた皇国史観や「教育勅語」が、今や「つくる会」教科書として公然と復活してきているのだ。闘うアジア人民と連帯して、絶対に阻止しなければならない。

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 証言 自決命令を受けて 金城重明さん

 一九八八年二月、第三次家永教科書裁判で沖縄戦における「集団自決」について、沖縄キリスト教短期大学の金城重明教授が証言した。四五年三月、アメリカ軍は沖縄島上陸に先立って慶良間諸島を占領した。その際に渡嘉敷島、座間味島、慶留間島、屋嘉比島で、痛ましい「集団自決」が発生、犠牲者は実に五百六十人にのぼった。
 ……移動した夜は、激しい豪雨と弾雨の中に身をさらして、不安と恐怖の一夜を過ごした。いよいよ三月二十八日という、私の生涯で最も長く、暗い日がやってきた。一千名近くの住民が、一か所に集められた。軍からの命令を待つためである。
 死刑囚が死刑執行の時を、不安と恐怖のうちに待つように、私どもも自決命令を待った。いよいよ軍から命令が出たとの情報が伝えられた。配られた手榴弾で、家族親戚どうしが輪になって自決が行なわれたのである。しかし手榴弾の発火が少なかったため、死傷者は少数にとどまった。けれども不幸にしてその結末は、より恐ろしい惨事を招いたのである。
 米軍から撃ち込まれた至近弾の爆風で私は意識がもうろうとなり、自分はもう死んだのだと思い込んだ。念のために体の一部をつねってみる。まだ感覚はある。自分がまだ生きていることを確認する。なす術を知らずにじっとしていると、一人の中年の男性が、生えている一本の小木をへし折っている。この木片が彼の手に握られるやいなや、それは凶器に変えられてしまった。彼は……その木片で自分の愛する妻子を殴り殺し始めたのである。これが恐ろしい悲劇の始まりだったのである。
 精神的に追いつめられた私たちも、以心伝心で愛する者たちに手をかけていった。夫が妻を、親がわが子を、兄弟が姉妹を、鎌や剃刀でけい動脈や手首を切ったり、棍棒や石で頭部をたたいたり、紐で首を絞めるなど、考えられるあらゆる方法で、愛する者たちの尊い命を断っていったのである。文字通りの阿鼻地獄であった。……兄と私も、幼い弟妹たちの最期を見とどけてやらねばならなかった。愛するがゆえに、彼らを放置することができなかったのである。私の年齢は十六歳と一カ月だった。私ども兄弟二人が、自分たちを産んでくれた母親に手をかけねばならなくなった時、私は生まれて初めて悲痛のあまり号泣した。愛するがゆえに、殺さなければならない、という残酷物語が現実のものとなったのである。
 当時の精神状況からして、愛するものを生かして置くということは、彼らを敵の手にゆだねて惨殺させることを意味したのである。したがって、自らの手で愛するものの命断つことは、……唯一の残された愛情表現だったのである。
(『沖縄修学旅行』高文研)

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