ZENSHIN 2000/12/11(No1985 p8)

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週刊『前進』(1985号7面)

分割・民営化の先兵どもの末路 カクマルの「JR総連総失陥」
全面露呈した黒田指導の破産
 
矢島 治雄

 5月テーゼ路線の闘いが切り開いた地平

 カクマルによるJR総連幹部・坂入充の拉致・監禁は、この間のカクマルによるJR総連カクマルに対する「ダラ幹」呼ばわりと激しい非難が、JR総連カクマルのカクマルからの修復しがたい離反=分裂となったことを示す事件である。カクマルにとってJR総連問題=危機を解決するためには、もはや内部テロル以外にとるべき手段がなくなったのである。
 カクマルとJR総連カクマルは非和解的な敵対関係に突入した。カクマルの「JR総連失陥」という歴史的事態が不可逆的に進行しているということである。
 この分裂の根拠のひとつは、黒田=松崎が一体となって進めた国鉄分割・民営化への屈服・先兵化路線そのものにある。カクマルはその「功労」によってJR総連という組合組織を日帝国家権力とJR資本から与えられた。カクマル=JR総連はこれを出発点にファシスト労働運動を推し進め、ファシスト反革命としてますます純化していった。
 松崎は「国労は三年でつぶれる」と豪語し、そうしたら自分たちの裏切りは歴史から消すことができると踏んだが、そうはいかなかった。千四十七人の国鉄清算事業団被解雇者を先頭とする国鉄労働者の闘いが、この松崎の反革命的思惑をうち破り、カクマル=JR総連の今日の組織的危機の爆発を引きおこしたのである。国労と動労千葉の存在と闘いこそがこうした情勢をもたらした主体的要因なのである。〔この点に関しては、「清水丈夫選集」第四巻序文の「五、労働戦線(国鉄)における対カクマル戦の勝利的前進の意義」をぜひ参照してほしい〕
 カクマルとJR総連の分裂のもうひとつの根拠として、九九年五・二一ガイドライン反対五万人集会(明治公園)と、六・二四組対法反対統一行動(日比谷野音)の戦闘的高揚とそこにおけるカクマル=JR総連の介入策動の破産ということがある。
 この二つの意味で、カクマルとJR総連の分裂という歴史的情勢は、まさに九一年五月テーゼと一九全総・二〇全総路線のもとでのわれわれの闘いの前進が切り開いたものと確信をもって言うことができる。
 われわれは九五年の一九全総において、松崎の二つの講演を批判し、「この新しい路線は党としてのカクマルそのものの分裂、四分五裂を必ず引きおこすものになる」「それはカクマルの党としての最終的自殺行為である。彼らの敗北と崩壊はもはや不可避だ」と断言した。
 われわれはその後五年間の闘いをとおして、一九全総でのこの「予言」を現実のものとして切り開いているのである。

 黒田=松崎の裏切り路線こそ危機の原因

 ここでは、国鉄分割・民営化への屈服・先兵化路線そのものが今日の危機の爆発を引きおこした決定的要因であることを、八〇〜九〇年代のカクマル労働者組織の危機の深まりを明らかにすることをとおして確認していきたい。
 松崎=黒田は、七五年秋のスト権ストの敗北を口実にファシスト的な転向の道に踏み込んでいった。そして、七七〜七八年にかけて「水本謀略デマ運動」と「三里塚闘争と一線を画す」という反革命路線で動労組織を引き回し、動労内の松崎=カクマル支配を決定的なものとした。〔この過程の七九年三月、動労千葉は動労本部から分離・独立した〕
 こうしてカクマルは、八〇年六月の衆参同時選挙における自民党の勝利をもって「ネオファシズム体制が完成した」とし、「労働運動は権力の謀略が吹き荒れる冬の時代を迎えた」としたのである。それは、「戦後政治の総決算」を叫ぶ日帝・中曽根体制(八二〜八七年)の階級的労働運動解体―総評解体攻撃と闘わず、その最大の攻撃であった国鉄分割・民営化に屈服しその先兵となるという意味をもっていた。松崎は元警視総監・秦野や自民党の金丸などと野合して階級的労働運動解体の策動に全力をあげた。
 松崎は、八〇年代初めから八七年の国鉄分割・民営化に至る過程において、国鉄労働者二十万人首切りを率先して推進した。この中で二百人以上の自殺者が出た。このカクマルの裏切りに対する労働者の怒りは今日もけっして消えることはない。
 カクマルは八〇年代中期において、国鉄分割・民営化攻撃に対してとった「A=B路線」をすべての産別組織の基本方針にした。「A=B路線」とは、「A―分割・民営化反対」を表向き掲げるが、現実には「B―国鉄当局の政策に率先協力する」というものである。
 八四年と八五年のPS〔労働者学校〕において、松崎は「百戦錬磨の労働運動の経験豊かな同志」として登場し、「組合主義といわれるぐらいに一生懸命に組合運動にとりくんでみたらどうか」と提起した。それは「日本労働運動の終焉(しゅうえん)―国鉄の戦闘的労働運動の終焉という現実認識の欠如」した「戦闘的労働運動へのノスタルジア」を労働者メンバーから一掃し、帝国主義的労働運動の先兵としての「新たな感覚と発想」を植えつけることを目指したものであった。
 この松崎の提起は、労働者メンバーとその組織をとんでもない方向に突き進ませた。それは、「民同フラクへの埋没傾向」であり、「遊び・酒・パチンコなどへの熱中」であり、「低水準の破廉恥行為の続発」であった。
 黒田は、この反革命としての党派性解体の危機と驚くべき腐敗・堕落のまん延に対して「整風運動」(八六年カクマル一五回大会)を提起し、ファシストの「倫理的自己形成」をがなりたて、粛清と党員再登録に明け暮れた。
 それが思うように進まない中で、焦りを深めた黒田は八九年「三・五提起」を打ち出し「カクマル組織の組合活動家集団への変質」を弾劾した。それは、「松崎がやったようにA=B路線を貫徹せよ」というタガはめを意図していたが、黒田の思惑に反して「自己流の受けとめに問題があったとは何ごとか」とか「A=B路線をうちだした指導部の自己批判はどうなっているのだ」というような不満と反発が一斉に噴き出し、組織的危機がさらに拡大してしまったのである。
 黒田はその責任を七〇年前後から二十年以上の活動歴をもつWOB(労対)指導部に押しつけ、彼ら「四人組」を「組織実践のサボタージュ」とか「厳格な思想闘争の拒否」と断罪し追放することで危機をのりきろうとしたのである(九一年十月)。

 「賃プロ主義者」とは何だったか

 このかつてない組織的危機と混乱の中で、DIを先頭とする賃プロ主義者が台頭してきた。彼らは「革命のかまえを築け」とか「賃プロ魂をわがものに」とか「資本と刺しちがえる覚悟」などという空文句を叫んで影響力を拡大した。
 黒田は危機のりきりのために、このDIに「お墨付き」を与えた。DIは黒田の威を借りて「いやな人は出ていってくれ」とすごみをきかせて九二年「三・一提起」を行い、「解体的再創造(死んで生きる)」というスローガンのもとに組織全体を制圧し、九三年夏まで実権を握り続けた。その結果、組織はズタズタ、ボロボロになってしまった。
 その中でDIは、「動労への憎悪に満ちた張り合い意識」と「松崎への敵がい心」を満展開させる一方で、沖縄や自治労の組合主義的偏向も批判の的としたのである。
 このようにDIが実権を握りえたのは、国鉄分割・民営化攻撃の先兵となった松崎と松崎路線に対する動揺と反発が、カクマル組織内に広範に存在していたからなのである。
 DIが行ったことは、「親衛隊をつくりだし、敵とみなした同志たちにぶちあたらせる」こと、つまり内部テロルによる組織制圧だった。沖縄・教労古参幹部の高橋利雄の拉致・監禁・殺害はそれを象徴する事実である(高橋は九二年三月、沖縄から行方不明になり、しばらく後に大阪市内で遺体で発見された)。
 DIがその後ますます増長し「組織現実論のようなクチャクチャしたものはどうでもいい」などと黒田と組織現実論を全面的に否定しさるような言動をとるにいたって、黒田は、「奪権闘争」に立ち上がった(九三年七月)。黒田は、「この問題は自己批判で解決できるような問題ではない」として、DIとその「親衛隊」を粛清する一方で、「清算主義ともなじられるような形で抜本的に克服していく」としか言えず、この問題に関して何ひとつ総括できない現実をさらけだした。
 それにとどまらず、黒田は、DIら賃プロ主義者が組織を制圧していた期間は「冬眠していた(から自分に一切の責任はない)」と開き直り、「用務員〔常任〕の無能とゆがみに反撃できなかった労働者は遺憾である」とか「労働者組織はガン化している」と労働者メンバーにすべて責任を転嫁したのであった。
 PS提起―三・五提起―三・一提起―賃プロ主義者の一掃の全過程にみられるとおり、黒田はお墨付きは与えるが、その結果責任はWOB指導部や労働者メンバーにすべて転嫁し、自分は「絶対無謬(むびゅう)の存在」として常にあるということである。この黒田指導の一貫した無責任ぶりと卑劣さは明らかである。

 拉致・監禁・殺害事件で沖縄組織が大離脱

 DIら賃プロ主義者がやり玉にあげた組合主義的偏向との闘いはどうなったのか。その大きな問題のひとつが沖縄組織であった。
 カクマルは九二年三月に教労の高橋を沖縄から拉致し、大阪市内で殺害した。そして同年七月、沖縄カクマルの創設者であり「神さま」と呼ばれていた山里章も拉致し、それ以降二年以上にわたって監禁し、「自殺強要」の死の恐怖にさらし続けた。
 山里がカクマルの監禁から命からがら脱出した九四年末から九五年初頭にかけて、沖縄の組織問題が爆発したのは当然のことであった。沖縄カクマルの圧倒的多数がカクマルから離反し、カクマル沖縄組織は壊滅的な状態にたたき込まれたのである。
 黒田は、沖縄組織がまだ「マルクス主義者同盟」を名乗っていた六〇年代半ば以降、その「革命的労働運動主義」なる偏向を一貫して批判し続けてきた。黒田がどんなに批判しても、沖縄組織はいっこうに「変革」されないという現実があり、賃プロ主義者のもとで高橋拉致・殺害と山里拉致・監禁にまで至ったのである。
 いかに賃プロ主義者がやったものとはいえ、このような拉致・監禁・殺害という激しい行動は、黒田の沖縄に対する差別意識と抑圧的姿勢にもとづく反革命的な指示なしにはありえないことである。
 黒田にこれほどにまで冷酷・無残に扱われた沖縄カクマルが、黒田に対して不信感、絶望感を抱くのは当然のことである。ここにあるのは単なる路線的・組織的問題ではなく、また単に賃プロ主義者対沖縄組織という問題でないことは明白である。
 事実、両者の対立は、九三年七月に賃プロ主義者が粛清された後の同年十一月以降、全面的な対立へと発展し非和解的に進行した。そして九四年末の山里「生還」をきっかけに一夜にして沖縄組織の圧倒的多数の離反という結果が引き起こされたのである。

 黒田の「組織現実論」の完全破産

 賃プロ主義者一掃の過程において自治労や全逓をはじめとする産別組織も厳しく批判された。黒田による賃プロ主義者の一掃の大号令に接し、労働者メンバーは「反発と判断停止」「混沌(こんとん)の泥沼」に落ち込んだ。
 労働者メンバーは一人の例外もなく「坊主懺悔(ざんげ)的自己批判」をさせられ、「学んでも学びつくせないおじさん〔黒田〕の大きさと深さ」を確認する黒田の神格化運動を強制されていった。この過程で少なからぬ労働者メンバーが脱落・逃亡していったのである。
 ところが、DIが反革命通信紙上で数度にわたって松崎を名指しで批判をしたJR総連カクマルの組合主義的偏向は何ひとつ問題にされず温存された。このときの問題と矛盾がその後深まり、今回のような劇的な形で爆発したのである。
 反革命通信『解放』一六四二号(十月三十日付)掲載の交通運輸労働者委員会論文において、JR総連OBの南雲(拉致・監禁されている坂入)が、同委員会の労働者に向かって「九二年を前後する時期に、少数派労働運動スタイル(賃プロ主義のこと)に落ち込んだことをもちだして、またぞろわれわれに誹謗(ひぼう)を浴びせかけている」「われわれを卑下し無きものとみなすことなかれ!」などという泣き言を言っている。
 すなわち、JR総連カクマルから見たら、他の産別の労働運動はしょせん賃プロ主義かその亜流にほかならず、JR総連のそれとはまったく異質のものなのである。南雲に罵倒(ばとう)されたこの労働者は「JR総連絶対主義ナンセンス」と反論しようとしているのである。
 黒田は当時、賃プロ主義者からの攻撃の矢面に立たされた松崎を全面擁護し、松崎はそれを背景にしてJR総連を牛耳り、ファシスト組合として一層純化させていった。黒田は九六年十月に、議長を辞任するに際して集会に送ったメッセージの中で「戦闘的労働運動の火をもやし続けている労働組合」としてJR総連を持ち上げ、松崎にエールを送っている。
 黒田にとって革共同からの脱落・逃亡以来四十年の最大の成果は、JR総連という七万を超える組合員をもつ労働組合の権力を確保し維持してきたことにある。また、カクマルの労働者・学生メンバーにとって、このJR総連の存在こそが黒田「組織現実論」の正しさを「証明」するものであった。
 ところが今日、カクマルは、JR総連カクマル分子が総離反することによってJR総連を失うという深刻きわまる危機にたたき込まれているのである。九五年の「沖縄失陥」に続く、「JR総連失陥」である。カクマルの「三大拠点」の残る一つは早稲田大学であるが、ここでのカクマルの没落と孤立化も年ごとに深まり、その失陥はもはや避けられない情勢になっている。

 「神戸謀略」デマ運動破産の責任も黒田に

 カクマルとJR総連の分裂の危機において決定的転機となったのは、「神戸謀略」論デマ運動の破産であった。
 九七年に神戸市内でおきた中学生による少年殺人事件を、黒田の直観を唯一の根拠として「CIAの謀略」とおどろおどろしく描きあげたのが「神戸謀略」論デマ運動であった。それは七〇年代以来の謀略論の破産ののりきりのためのデッチあげであり、それまでのどの謀略論と比べても荒唐無稽(こうとうむけい)さにおいて際だったものがあった。われわれは、それに対して革命的な批判を加え、「神戸謀略」論の破産とデマ運動の破綻(はたん)をカクマルに強制した。
 黒田=カクマルは、その行きづまりを窃盗や盗聴手段を駆使して権力が持つ資料類を入手し、その情報を都合よく歪曲してマスコミ操作をしようとしたのである(『文芸春秋』への検察資料の提供など)。まさにナチスばりの自作自演の人民操作の策動であった。
 このK=K連合の一線を越えたカクマルの行動に対して、日帝・国家権力は九八年一月に東京・練馬区豊玉アジトを摘発したのを始めとして次々と秘密軍事アジトを摘発し、カクマルをコントロール下におき、K=K連合を再編的に強化しようとしたのである。
 われわれは、この豊玉アジトのあるビルにJR東労組書記の林和美が住んでいたことを明らかにし、そこが松崎直轄の軍事アジトであることを暴露した。事実、このアジトからは、神戸事件に関係する資料が大量に出てきただけでなく、その半分以上が国労、JR総連、JR連合の幹部や動向に関する窃盗・盗聴で入手した資料であった。
 このわれわれの暴露は、カクマル=松崎を徹底的に追いつめるものとなり、「JR総連=カクマル」「カクマル=JR総連」という規定が労働者の中に大衆的に定着していったのである。カクマルとJR総連カクマルの分裂が「JR総連=カクマル」という重大な政治的規定をめぐっておきていることはカクマル自身が語っていることであり、ここに両者の分裂の出発点があると言えるのである。

 黒田と朝倉こそ内部テロ指令者

 「神戸謀略」論デマ運動は全面破産した。その最大の責任が黒田その人にあることは明らかである。同時に、黒田の指示に従って「神戸謀略」論デマ運動を陣頭で指揮したのが朝倉文夫(本名・池上洋司)である。すでに述べたとおり、黒田は「絶対無謬」の存在であり、この破産の責任は取ろうとしていない。朝倉もまた責任を取ろうとしていない。九七〜九八年に「ハンガリー革命に匹敵する」ものとして繰り広げた「神戸謀略」論デマ運動について今日にいたるも、カクマルは組織としての総括をまったく行わず、口を閉ざして沈黙したままである。
 朝倉は革共同からの脱落・逃亡以来、黒田の指示で動いてきた忠実な茶坊主である。朝倉は黒田の指示する謀略論やデマ政治を一貫して支持し、むしろそれで自らの党内支配を維持してきた。
 九二年の賃プロ主義者台頭の時に屈服した(五月の政治集会で森茂、土門肇、山里章と一緒に壇上に並んで自己批判した)が、黒田の奪権とともに復権し、九六年には黒田辞任の集会をとりしきった。その集会での黒田へのこびへつらった賛辞の繰り返しはいやらしいほどであり、黒田の主張を繰り返すことをもって自分の主張とすることしかできないくらい無内容なのである。
 朝倉は黒田とまったく一体となって行動し、しかも責任を取ろうとしないことも黒田から受け継いでいる。植田議長を坂入の拉致・監禁の責任者として用意しながら、反革命指令の張本人である黒田と朝倉は卑劣にも生き残ろうというわけだ。実におぞましい組織体制である。もはやこういう組織に明日はない。
 対カクマル戦争における最大の好機が訪れている。カクマル最大の組織実体であったJR総連のカクマルからの分裂は、今後カクマル組織総体を混乱と崩壊へとたたき込んでいくことは間違いない。対立と混乱は他の産別組織においてもすでに始まっている。
 それゆえファシスト・カクマルはこれまでになく凶暴化している。彼らはこの危機の打開を革共同への白色テロルの中に求めようとしている。「今世紀中〔あと一カ月しかない!〕に一掃する」などと空叫びしている。われわれは今こそ、革命的武装自衛体制を強め、カクマルの白色テロルを粉砕し、カクマル完全打倒へ攻めのぼろう。また、戦略的攻撃体制を堅持して断固としてカクマル完全打倒の決定的戦闘を闘いとろう。すべての同志諸君! 闘う労働者諸君! 今こそカクマルとJR総連打倒の闘いに総決起しよう。

 

 

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