週刊『前進』(1880号5面1)
切迫する再審棄却策動粉砕へ今秋狭山決戦に総決起しよう
10・26中央−11・1全国行動に立て
全国部落青年戦闘同志会
狭山闘争の重大な決戦局面が到来している。日帝による新安保ガイドライン関連法案攻撃、朝鮮侵略戦争突入情勢のもとで、狭山闘争解体のおそるべき差別攻撃がたくらまれているのだ。今秋過程こそ、日帝の朝鮮侵略戦争突入に対する労働者階級の存亡をかけた決戦期であると同時に、狭山闘争の歴史的決戦のときである。すべての闘う人民は、十・三一寺尾判決二十四カ年糾弾、再審棄却絶対阻止へ、十・二六中央行動(東京高裁への大要請行動)〜十一・一全国統一行動を結節環とした今秋狭山闘争に総決起しよう!
第1章 今秋棄却決定狙う極悪の高裁・高木体制打倒せよ
今秋の狭山闘争の爆発のために、第一に訴えたいことは、今や日帝・東京高裁による狭山第二次再審棄却攻撃がきわめて切迫しているということである。
東京高裁の高木俊夫裁判長は、五月の狭山弁護団との面会で、「自分の任期中に決定を行う」と重大な表明をした。これは、石川一雄さんの上申書と補充書の提出を踏まえた弁護団の事実調べ要求への返答として行われた。
高裁刑事部の判事の任期は通常四年と言われている。高木はすでに五年目に入っており、来年三月いっぱいで第四刑事部の担当裁判長の任期が切れることを考えると、この発言は事実上の、今秋過程における決定の宣言にほかならない。
だが、この決定とは再審棄却以外の何物でもない。この点をいささかもあいまいにしてはならない。高木は就任以来、一貫して事実調べ拒否の態度をとり続けてきた。一昨年九、十一月の弁護団との面会では、「事実調べをしないと裁判官が正しく理解できないと思っているのか」「書面審理も事実調べと考えている」という暴言まで吐いた。
このような高木による「任期中の決定」とは、「誰がなんと言おうと事実調べをする意志などまったくない」「確定判決を絶対に変更しない」「一切を闇から闇に葬り去る」という意志の露骨な表明なのである。
そもそも高木(高裁・高木体制)とは、日帝にとって、狭山闘争解体のための「最後の切り札」として登場してきた人物である。高木の前任であった近藤裁判長(九三年に退官)は、退官前の決定=棄却をねらった。だが、部落解放同盟全国連合会の一週間にもわたるハンスト闘争と、連日の高裁糾弾闘争を先頭とした総反撃で、近藤は打ち倒され、任期切れをまたずに退官した。日帝国家権力が糾弾闘争の標的として全人民から包囲されている現実がある限り、再審棄却は、闘いの炎に油を注ぐ結果しかもたらさないのだ。この現実をつきつけられ、近藤は、なすすべもなく敗退したのである。
この近藤に代わって登場した高木体制は、狭山闘争の解体を歴史的使命とした体制であった。つまり、一方において再審請求の棄却による確定判決(暗黒の寺尾無期判決)の絶対的維持と、他方において国家権力に対する糾弾闘争を解体してしまうこと、ここにその反動的使命があった。そして、その核心点こそ、石川一雄さんの不屈の意志を圧殺することにすえられていたのである。
実際に日帝は、石川さんの「仮釈放」が行われて以降、解放同盟本部派の屈服・転向を引き出し、差別糾弾闘争の旗を降ろせと要求するとともに、この本部派を使って石川一雄さんを縛りつけ、狭山闘争を自壊させることをたくらんだ。
だが、これらの策動は、けっして成功していない。石川一雄さんの不屈の闘いは不動であり、本部派の屈服・転向は、全国連の創立と実力決起を生み出した。しかも、いまだ本部派の制動のもとにあるとはいえ、全国の部落大衆の戦闘力も差別糾弾の意志も何ひとつ解体されてはいないのである。
日帝にとっては高木に代わるものはいない。高木の任期切れに追いつめられ、あせりにかられているのは日帝の側なのだ。今や国家暴力による暴力的圧殺以外になくなったというわけだ。高木は、ついにその本性をあらわにし、反動のきばをむきだしにして襲いかかってきたのである。
だが、このことは同時に再審貫徹=狭山闘争の歴史的勝利の可能性とその道筋を鮮やかに示すものでもある。つまり、差別糾弾の旗を守り抜き、高木を打倒して進むことの中にこそ、狭山再審を真にかちとっていく道筋があるということなのだ。
今や狭山闘争は、待ったなしに、存亡をかけた最大最高の決戦に突入しているのである。第二次再審棄却を絶対に許してはならない。「本審の次はない」「第二次再審に命をかける」という石川一雄さんの血叫びに、どんなことをしてもこたえなくてはならない。今秋狭山決戦に立ち上がり、部落大衆と労働者・人民の力で、日帝(高裁)・高木体制を打倒しよう。
第2章 狭山闘争の不屈の発展が侵略戦争体制をうち破る
第二に訴えたいことは、高裁・高木による第二次再審棄却攻撃こそ、日帝による侵略戦争突入と、そのもとでの部落差別攻撃の激化の歴史的転換点をなすものだということである。
そもそも、第二次再審の棄却攻撃自体が、国家権力による史上空前の部落差別犯罪そのものにほかならないのだ。それは、一方で、狭山差別裁判を完全に開き直り、゛これからも何度でもくり返す、部落民には法的権利をはじめ一切の権利を認めない、虫けら同然に扱う”という宣言にほかならない。そして他方では、部落解放運動の圧殺、差別糾弾闘争の最後的解体ということを、暴力をもって部落大衆と労働者人民につきつけるものである。こんなことを、われわれは断じて許すことはできないのだ。
しかし、問題は次の点にこそある。この狭山闘争解体のむきだしの攻撃こそ、日帝による戦争突入と、そのもとでの部落差別攻撃の決定的突破口をなす大反革命だということである。
今や日帝は、世界恐慌の切迫におびえつつ、帝国主義としての生き残りをかけて朝鮮侵略戦争参戦を突破口としたアジア侵略戦争へと突入しようとしている。臨時国会でのガイドライン関連法案強行の攻撃は、日帝による朝鮮侵略戦争の「宣戦布告」であり、「新たな十五年戦争」過程への突入そのものである。
だが、帝国主義が戦争に突入するということは、労働者人民にとっては、帝国主義とその資本の利益のために命を投げ出せと要求されることだ。侵略戦争での殺し合いと、アジア人民を殺すことのできる軍隊の形成、国家総動員体制の構築、階級闘争の根絶と階級の解体、資本救済と戦費調達のための労働者人民からの徹底的な搾取と収奪。これらは、その一つひとつが血みどろの階級激突なしにはありえない。日帝は、これらを、かつて二九年恐慌から第二次大戦への過程で、天皇制軍事ボナパルティズムの確立とその裏側での部落差別の激化による部落民への犠牲集中、人民分断支配の強化をとおして強行していったのである。
この日帝の伝統的やり方は、今日においても何ひとつ変わりはない。同和事業の全廃、公営住宅法改悪による同和住宅家賃の大幅値上げ、年間一万件にも達する差別事件の激増といった堤防決壊的な部落差別の「洪水」とも言える現実は、まさにそうした過程が始まりつつあることを示している。日帝による狭山闘争解体こそ、戦争下の部落差別攻撃への決定的転換点、突破口をなすものにほかならない。再審棄却攻撃の切迫の真の理由も、ここにあるのだ。
しかし、このことは、狭山闘争の不屈の発展が、もはやこれ以上、日帝にとって許容できなくなったことの表明でもある。狭山闘争がある限り、戦争はできないということなのだ。狭山闘争がある限り、部落解放運動をたたきつぶせない、階級闘争を根絶できないということだ。逆に、狭山闘争の不屈の発展は、必ずや戦争と差別の元凶としての帝国主義を打倒する階級的砦(とりで)をかたちづくるということである。プロレタリア革命への部落大衆の大合流を生み出し、日帝打倒を労働者階級と部落民の共同の事業としてなしとげる。狭山闘争こそ、こうした闘いの火点をなしているのだ。
狭山闘争は、ガイドライン関連法案粉砕を軸とした第三次安保・沖縄闘争の一翼をなす闘いである。帝国主義の侵略戦争のために部落民が虫けらのように扱われる−−こんなことをどうして許せるだろうか。帝国主義の侵略戦争への怒りと部落差別への怒りがかけあわされ、巨大なひとつの力になって日帝を打ち倒す。こうした情勢を必ずやこじあけなくてはならない。われわれは今秋狭山決戦を、ガイドライン関連法案をめぐる今秋決戦の決定的一環として闘いとらなくてはならないのである。
第3章 石川さんの化身となって巨万の決起つくりだそう
第三に訴えたいことは、今秋狭山決戦に全力で決起せよ、ということである。
狭山闘争は、部落解放運動にとって、他の何ものにも代えることのできない、かけがえのない闘いである。そこには部落民の人間としての尊厳と、闘いの正義がかけられている。狭山闘争の勝利は、日本の労働者階級の歴史的責務でもある。この闘いが、今やその存亡を分かつ決戦局面に突入しているのである。戦鼓を打ち鳴らし、檄を飛ばして、今こそ立ち上がるべきときが来たことを全国の部落大衆、労働者人民にとどろきわたらせなくてはならない。
今秋狭山決戦の方針の第一の柱は、高木による再審棄却策動を断じて許さず、再審棄却絶対阻止・高木体制打倒を闘いとることである。
第二審冒頭、石川一雄さんは「俺は殺していない」という叫びをあげた。当時の石川さんの手紙には、「関源三、長谷部、内田武文を死刑に」という怒りの訴えがある。ここにこそ、無実の部落民を日帝・国家権力の都合で虫けらのようにもてあそぶ権力者どもに対する、部落民としての、人間としての怒りの原点がある。この怒りは、今こそ日帝・高木に対して向けられなくてはならない。「高木を倒せ!」−−このスローガンを全国の部落に、すべての闘う人民の中にとどろかせよう。
部落解放同盟全国連合会の呼びかける十・二六中央行動、十一・一全国統一行動を、この闘いの結節環として断固として闘いとろう。今や一日一日が、日帝・高木の棄却策動とのぎりぎりとした攻防なのである。ただちに臨戦態勢をつくり、「いざ鎌倉」という緊急事態には全国から総結集せよ。
今秋狭山決戦の方針の第二の柱は、今こそ巨万の狭山大衆決起をつくりだすために猛然と立ち上がることである。狭山闘争への数千数万の部落大衆、労働者人民の決起は必ず実現できる。ここにこそ、日帝による狭山闘争解体攻撃を打ち破り、再審貫徹を闘いとる真の力があるのだ。
全国の部落と部落大衆は、戦争と差別の攻撃に対する怒りのるつぼと化しているのだ。住宅家賃の大幅値上げに対する大衆的怒りと実力闘争的反乱は、「同和住宅家賃値上げ反対全国連絡協議会」の建設をとおして数千の供託、数万の反対組合の組織化、十万人署名へと発展しようとしている。しかもこれは、ことのほんの一端にすぎない。今やいたる所で、生活の全領域において、部落大衆の煮えたぎる怒りが渦巻いている。部落大衆は闘いの方針を求めているに違いないのである。
六九年の浦和地裁占拠闘争から始まる七〇年代の狭山闘争の大衆的発展は、何によってつくりだされたのか。それは、あえて言えば一人の人間の命がけの決起によってつくりだされたものだ。あらかじめの闘いの発展の条件などは、どこにもなかった。部落においてさえ、あるいは解放同盟の組織があった地域でさえ、狭山闘争を持ち込むことは簡単ではなかった。一人の署名をもらうために、何度も本やパンフを読み、何度もそこに通い、何度も悔しい思いをした。
しかし、この闘いが、一人から始まり、徐々に大衆の心をつかみ、青年を始めとした部落の労働者層が立ち上がることによって、それまでの行政闘争路線による体制内改良主義に代わって、差別糾弾を軸とした部落解放運動の大転換、大衆的結集と発展がつくりだされていった。けっして、その逆ではなかったのだ。
労働組合や学生の決起もまったく同じである。たしかに当時は、総評があった。七〇年安保闘争の余韻(よいん)が大学にあった。だが、七四年の十一万人の首都決起にいたる労働者人民の狭山闘争決起は、そうした条件によってつくられたものではなかった。一人の労働者の、一人の学生の命をかけた決起と訴え、「自分は絶対にこんなことは許せない」という真剣な訴えが労働者・学生の心をとらえ、解放研などへの結集を生み出し、あるいは組合を動かしたのである。
そもそも狭山闘争とは、石川一雄さんによる「奴らを死刑に!」という闘いから始まったのだ。「誰がなんと言おうと、絶対に許さない」「たとえ一人ででも、どんなに年数がかかろうとも、自分の手で国家権力の奴らを裁いてみせる」「必ず無実を明らかにしてみせる」−−この闘いこそ出発点であり、原点なのだ。
今こそ狭山闘争に心を寄せるすべての活動家は、石川さんの化身となって、部落大衆と労働者階級の中に分け入ろう。署名、パンフを持ち込み、ビラをまき、真相報告会、映画会、学習会、座談会などあらゆる創意をこらし、狭山差別裁判の真相と石川一雄さんの闘いを徹底的に持ち込もう。
九月十二〜十三日に山口県で開催された全国連の全国青年交流集会は、全国連の創立以来最大の結集で歴史的な成功をかちとった。そして、青年たちは、集会での熱烈な討論と決議に基づいて、首都における九・二三ガイドライン関連法案粉砕闘争に大隊列で結集し闘いの牽引車の一翼を担った。この闘いは、狭山闘争をめぐる今秋決戦の号砲でもあった。決戦のゴングは闘う者の側からも激しく打ち鳴らされているのだ。
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