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萩原進三里塚反対同盟事務局次長の逝去を悼む 革命的共産主義者同盟

週刊『前進』06頁(2615号06面01)(2014/01/13)


 萩原進三里塚反対同盟事務局次長の逝去を悼む
 革命的農民闘争を指導した生涯 遺志を継ぎ農地決戦に勝利する
 革命的共産主義者同盟

 (一)

 三里塚芝山連合空港反対同盟事務局次長の萩原進氏が12月21日、心筋梗塞(こうそく)で逝去された。享年70。あまりにも突然の訃報に言葉がない。成田空港を寸断する成田市東峰部落の一角、竹林で囲まれた墓地の土饅頭(どまんじゅう)の墓標の前に立っても、氏の死は信じられない。
 あなたが生涯をかけて闘った日帝国家権力は新自由主義の破局の中で絶望のあがきを続けている。革命情勢が到来し、それを革命へと転化する現実性が日に日に明らかとなっている。氏が生涯の友としてきた動労千葉は、労働組合の階級的復権を成し遂げ、労働者自己解放の道を切り開き、その影響は国内外に波及している。三里塚闘争の不屈の担い手であり続けた学生運動は、歴史的前進をかちとっている。そして氏が先頭に立つ全国農民会議は、TPP攻撃下で日本農民の怒りの組織者として闘っている。何よりもあなたが市東孝雄さんと固く連帯し、大衆闘争と裁判闘争のすべてに責任を取ってきた市東さんの農地の強奪阻止闘争は今春、大きく発展しようとしている。
 この時に氏を失ったことは、痛恨の極みだ。

 (二)

 萩原氏は三里塚闘争の若きリーダーとして闘いを開始した。
 1967年11月12日、あなたが千葉県反戦とともに佐藤首相の訪米阻止闘争(第2次羽田闘争)に決起し、京浜蒲田駅から機動隊の壁と羽田空港に向け進撃する反戦・全学連のデモ隊を身を乗り出して凝視しながら、一緒に闘った姿を忘れることはできない。すでに10・8羽田闘争は三里塚農民に激しい影響を与えていた。同年の11・3千葉県反戦三里塚現地集会で、反対同盟青年行動隊と動労千葉青年部と全学連・中核派は、歴史的合流を実現した。氏は三里塚勝利の路線がここにあると確信した。闘争開始2年目のことだった。
 こうして翌1968年から70年代にかけて、三里塚闘争の革命的農民闘争としての発展がかちとられていった。そこにおいて萩原氏(当時の青年行動隊長)の果たした役割は決定的だった。
 三里塚闘争は類まれな指導者群と闘いの路線を生み出しながら発展していった。故戸村一作委員長は「三里塚闘争は階級闘争に発展したとき勝利する」と喝破し、階級闘争論を唱えた。そして「農民は農地を武器に、労働者は鉄路を武器に闘う」と労農同盟論を発展させた。北原鉱冶事務局長は「(他人依存を廃し)自らが立ち上がるとき、必ず勝利はついてくる」と述べ、「三里塚闘争は全人民の共有物」「反戦の砦」論を展開し、労農学共闘路線を推進した。萩原事務局次長はそれらを受けて、三里塚勝利論を徹底して展開した。いかなる時にも、執念をもって勝利論を追求した。その主張は反対同盟農民を心底から激励し、全国支援を奮い立たせた。
 周囲を延々と続く鉄製波板で囲まれた中での敷地内生活と営農を強いられながら、日本帝国主義のアジア・ハブ空港建設を破綻させ、成田空港の未完成を強制している三里塚闘争の勝利の現実性を説いてやまなかった。この勝利への執念こそ氏の真骨頂であった。
 朝星夜星の開拓農民の子として生まれた氏は、若くして家長格で国策シルクコンビナート計画に参加、一転して空港建設による計画廃棄と膨大な借金地獄に直面した。そこに帝国主義のどこまでも理不尽な農民殺しの本質をつかんだ。ここに発する怒りと農民魂が根底にあった。「敵を打倒してやまない」戸村精神こそ萩原精神だった。
 萩原氏は誠実そのものの農民組織者であった。原則的に闘いを貫くことを後に脱落する青行隊から非難されながら、驚くべき忍耐力で空港公団・会社の切り崩し工作と闘い、敷地内農民の脱落を防ぐために、自己犠牲をいとわず長期の組織戦をやり抜き、敵の攻撃を幾度も粉砕した。
 反対同盟を丸ごと解体することを狙った3・8分裂(1983年)では、敷地内を軸に絶対反対論で再武装し、同盟内路線闘争に勝利した。さらに分裂派が主力の芝山地区にも絶対反対派を組織できたのは、氏の偉大な功績だった。この時、氏は事務局次長に推挙され、以後闘争企画と実務の中心を担っていった。
 釣りなどしたこともなかった氏は、釣り場が同盟の親交とオルグの場だとみるや、熱心に通った。反対派農民の組織者としての氏のそうした闘いは、最期まで一瞬の休みもなく続いてきた。

 (三)

 2011年の「3・11」直後、萩原氏は直ちに福島現地を訪れ、農民同志を歴訪し、苦しみと怒りを共にした。原発事故は労農人民の抹殺であり、帝国主義・新自由主義の打倒以外に解決はなく、今こそ連帯をつくりだす時であることを氏は瞬時に見据えていた。こうして福島の怒りと三里塚は固く結びついた。
 革命的共産主義運動は三里塚闘争の中で多くのものを得た。また多くの課題を突き付けられ、自らを変革した。70年闘争の地平は、反革命カクマルとの内戦の中で、三里塚の大地で維持、堅持、発展させられた。萩原氏がこの過程で革共同の正義と勝利に確信を持ち、断固として激励してくれたことを絶対忘れない。
 動労千葉はジェット燃料輸送阻止闘争を、空港阻止の労農連帯闘争として、運転保安闘争として、さらに組織解体攻撃を許さない闘いとして、三里塚と一体で闘い、国鉄分割・民営化粉砕の闘いの原形を形成した。階級的労働運動は三里塚を揺籃(ようらん)の地として自らをつくり上げたが、それは萩原氏を先頭とする敷地内反対同盟の熱烈な支援があってこそ成功した。さらに氏は動労水戸の結成を前後して水戸を訪問し、動労千葉に続けと熱烈に訴えた。
 80年代の国鉄分割・民営化との激闘の渦中、反対同盟は敷地内農家に当時の中野洋動労千葉委員長を招き、あらためて労農同盟の杯を交わした。事務局次長就任直後の氏はその一切を取り仕切った。こうして三里塚への攻撃をも跳ね返した。
 何よりも三里塚現闘の存在は、革命的共産主義運動が三里塚闘争で生み出した歴史的地平である。だがそれは反対同盟、中でも敷地内と萩原氏の熱い支持と叱咤(しった)激励なしにはあり得なかった。
 第4 (四)
 萩原氏の葬儀で民主労総ソウル本部の弔電が紹介された。11月集会に訪日する韓国代表団との恒例の交流会は、日韓労働者と三里塚農民の熱烈な交歓と国際連帯の、感動的な場となった。09年には萩原事務局次長自らが動労千葉訪韓団に同行し、ソウルの労働者大会に参加、民主労総との交流を深めた。三里塚が動労千葉とともに、日韓連帯を打ち固めてきた意義は限りなく大きい。
 田中康宏委員長を先頭とする動労千葉、動労水戸の労働者、全学連の学生、革共同の同志たちをはじめのべ700人の葬儀参列は、萩原氏の存在の大きさを指し示した。
 萩原氏の逝去に、不埓(ふらち)にも反対同盟解体の時などと色めき立つ日帝・空港会社を断じて許すな! 市東さんへの農地収奪攻撃を絶対阻止しよう! 危機にあえぎ凶暴化する日帝・新自由主義と安倍政権を、国鉄・反原発決戦と三里塚闘争で打ち倒そう。
 東峰墓地に埋葬された氏の墓前に、革共同は三里塚闘争勝利を誓う。
 そして残された遺族の皆さんに、心から哀悼の意を表します。萩原家は三里塚闘争の特徴でもある家族ぐるみの闘いの典型でした。1970年の激闘の渦中で結婚し、以後闘いを共にした静江さんの心中を思うとき、言葉がありません。進氏はあと数年で50年になる闘いを、一瞬も休むことなく闘い続け、勝利を追求し、巨大な基盤を築き上げました。われわれは氏の遺志を引き継ぎ、勝利の道を突き進みます。
 合掌
 2014年1月5日