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竹内俊彦同志を追悼する 労働者出身革命家として 印刷局建設に生涯を捧ぐ 前進印刷局

週刊『前進』06頁(2632号06面04)(2014/05/19)


竹内俊彦同志を追悼する
 労働者出身革命家として
 印刷局建設に生涯を捧ぐ
 前進印刷局


 3月23日、前進印刷局創成期からの印刷局員であった竹内俊彦同志が、労働者出身の革命家としてその72年の生涯を閉じた。
 同志は1941年、北海道で生まれた。父は営林関係の公務員だった。戦争の悲惨と困苦、敗戦後の混乱と飢餓の時代を、同志は懸命に生きぬいた。
 1962年、北海道大学農学部(農芸化学科)に入学。恵迪(けいてき)寮で寮闘争を闘う。この北大生時代に革共同の3全総を知り、学内で『前進』を30〜50部も売るようになる。その後上京し、自ら前進社を訪れ革共同に結集した。大日本印刷に就職し印刷労働者となり、東京北部地区委員会に所属。板橋反戦のキャップとして、青年労働者の先頭で70年安保・沖縄闘争を闘った。
●自前の印刷所に参加
 日帝・国家権力と一体となったファシスト・カクマルの襲撃により、民間業者に頼る『前進』印刷が不可能になる中で、革共同は1974年、自前の印刷所建設を決断する。竹内同志は印刷局からの熱烈な要請で、その夏に着任。以来今日まで『前進』発行と印刷局建設にその生涯を捧げてきた。すでに印刷労働者だった竹内同志はきわめて大きな役割を果たした。同年秋、革共同は自力で『前進』復刊を達成。この快挙に全党・全人民が沸き立った。
 『前進』復刊は権力とカクマルを追いつめ、その数カ月後、カクマルは本多延嘉革共同書記長(当時)を、翌76年2月には全逓労働者で反戦青年委員会世話人の橋本秀次郎同志を卑劣な手段で虐殺した。われわれは激しい怒りと憎しみに燃えて戦い、二重対峙・対カクマル戦争の勝利を切り開いていった。そして、この勝利を基礎に、80年代の国鉄・三里塚決戦、91年5月テーゼと階級的労働運動路線の確立へ、「党の革命」から「現代革命への挑戦」へと闘い抜いてきた。機関紙自力発行の営々たる闘いが、この40年におよぶ革命の前進を支えてきた。
 一号も欠かさない°@関紙発行の貫徹こそ印刷局の矜持(きょうじ)だ。この闘いの先頭にいつも竹内同志の姿があった。古い印刷機だがピカピカで、周辺はチリひとつなかった。1台しかない機械をいかに守り、維持するのか。これが印刷局の生命線だ。事故・故障と闘い、安全原則の確立・再確立こそが鍵である。真剣勝負で1号1号を必ず出しきる。竹内同志の手書きの印刷マニュアルが残っている。それは印刷局の精神として、今も『前進』発行を支え続けている。
●福嶋同志救援に献身
 竹内同志は機関紙発行を担う一方、党の歴史的結節環的闘いを懸命に闘いぬいた。特に、橋本秀次郎同志の虐殺には満身の怒りを燃やし、その遺志を引き継ぐ決意を胸に闘いぬいた。また、福嶋昌男同志へのデッチあげ爆取弾圧を粉砕するために誰よりも献身的に闘い、その財政闘争では非常に大きな力を発揮した。福嶋同志の救援誌「芽吹き」を、竹内同志の味のある文章と山行の写真が飾っていた。
 動労千葉の物販活動を精力的に担った。多くの同志が苦戦した全労連傘下の労働組合にも分け入って取り組みをかちとり、継続的な関係をも築いた。相手の懐に飛び込んで心をつかむ力は抜きんでていた。
 『前進』印刷の作業中にくも膜下出血で倒れた08年5月、『前進』は洞爺湖サミット粉砕の大闘争を呼び掛けていた。
 竹内同志を襲った病魔は、四肢機能のほとんどを奪い、声さえ奪ってしまった。しかし、口癖だった「革命はオレの目の黒いうちに」の執念が奇跡を生んだ。同志が病魔と闘う姿は、見舞いに訪れる者を勇気づけた。こうして生き抜いた6年間の闘病は、「党の革命」から「大恐慌を革命へ」の闘いと一体だった。
●決意みなぎるお別れ会
 4月14日に行われた「お別れ会」には、天田三紀夫書記長と印刷局の歴代責任者の同志たちを始め、80人もの仲間たちが集まった。天田同志は同世代の竹内同志に叱咤(しった)激励されながらともに疾風怒濤(しっっぷうどとう)を駈けぬけてきた思い出とともに、「現代革命への挑戦」を完遂する決意を述べた。兄弟部局である経営局、編集局、出版部、さらに東京・北部地区時代の仲間、印刷局でともに働き闘った仲間が、心から弔辞を述べた。印刷局の現役同志たちは、プロレタリア革命の勝利を切り開く印刷局建設の決意を述べた。実行委員長の鎌田雅志同志が、党の固い団結を基礎に2010年代中期階級決戦に勝利しようと訴えた。北海道大学の後輩も、全学連も、そして遠く北海道や九州からも同志たちが駆けつけ、しめやかな中にも希望と決意がみなぎるお別れ会となった。
 竹内俊彦同志の生涯は革共同機関紙『前進』の歴史そのものだった。竹内同志よ! 大好きだったという八ケ岳の山頂よりもっと高いところから、われわれを見守ってくれ。