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「象徴天皇制」のどす黒い正体 ヒロヒトは自分の延命と天皇制存続のためマッカーサーに工作 革命と共産主義への恐怖が根底にあった

週刊『前進』02頁(2782号02面04)(2016/09/22)


「象徴天皇制」のどす黒い正体
 ヒロヒトは自分の延命と天皇制存続のためマッカーサーに工作
 革命と共産主義への恐怖が根底にあった

「生前退位」への策動は戦前と同じ反動的手法

 天皇アキヒトが「生前退位の意向」を表明した8・8ビデオメッセージから1カ月後の9月8日、安倍政権はアキヒト一代に限って生前退位を可能とする特別措置法を整備する方向で検討に入ったと発表した。安倍の改憲の政治スケジュールに影響が出ないよう、皇室典範には手をつけず、特措法をもってひとまずの「早期決着」をはかろうというのが狙いだ。
 だが、安倍はけっして天皇問題を安易に片付けようとしているのではない。10月には有識者から意見を募り、「与野党を含め、国民にもオープンな形で(議論を)進めていく」(官房長官・菅義偉)としていることからも明らかなように、安倍の狙いは、天皇制を強化し日帝支配階級の結集軸として再確立していくための「国民的議論」を巻き起こすことにある。これ自体が改憲と地続きとなったイデオロギー攻撃にほかならない。
 そもそも天皇が「お気持ちの表明」と称して自らの私的見解を大々的に表明し、それを受けて政府中枢から与野党、マスコミ、言論界などがあげて「陛下の意向」の実現のために奔走(ほんそう)するという図式は、実は戦前から一貫して行われてきた天皇制国家・日帝に特有の反動的な政治手法にほかならない。
 「朕(ちん=天皇の一人称)おもふに......」で始まる「教育勅語」や「軍人勅諭」に典型的なように、戦前の日本ではこうした「天皇の私見」が帝国憲法すらも超越した最高規範とされ、その実現のために国政が総動員され、これらの規範が法や国家暴力を通じて日本社会のすみずみまで強制された。かつての絶対君主としての権能を失った今日の「象徴天皇制」のもとにおいても、天皇制は日帝支配階級の反革命的な結集軸として、その巧妙な政治手法とともに存続している。「戦争と革命の時代」の中で、それが再び政治の前面に登場してきたのである。
 これに対し、日本共産党や「反安倍」「護憲」などを掲げる自称「リベラル派」の知識人・言論人などが、天皇と天皇制の階級的本質をまったく見抜けず、8・8天皇メッセージを手放しに絶賛しているのは、まさにこの反動的な政治手法のもとに労働者人民を引きずりこもうとするものにほかならない。

米軍の日本駐留と安保締結を執拗に働きかけ

では、こうした反革命の結集軸としての天皇制が、なぜ戦後においても存続したのか。そしてそれは戦後政治にどのような影響を与えたのか。
 政治学者の豊下楢彦氏が昨年発刊した『昭和天皇の戦後日本』(岩波書店)は、この点について重要な事実を多数暴露している。著者は、一昨年9月に公表された宮内庁の資料『昭和天皇実録』や最新の米政府の公開資料に基づき、1945年から51年サンフランシスコ講和に至る過程で、昭和天皇ヒロヒトがきわめて重大な「憲法違反の政治的行為」を繰り返したことを明らかにし、天皇をそうした行為に突き動かしたのは「内外の共産主義による天皇制打倒という脅威」であったことを克明に暴いている。(以下、引用文は特に断らない限り同書から)
 天皇が終戦直後に直面した第一の危機は、自らが東京裁判(極東軍事裁判)に訴追され、その戦争責任を問われることだった。もとよりヒロヒトはアジア・太平洋戦争の過程できわめて主体的かつ積極的に一連の戦争を指導・推進した最悪の戦争犯罪人である。それは柏木俊秋同志の著書『天皇制打倒論』(前進社)や歴史家・井上清の『天皇の戦争責任』(岩波書店)などでも全面的に明らかにされており、また当時から、「戦犯ヒロヒト処刑」と天皇制の廃絶を求める声がアジアを始め全世界で圧倒的に巻き起こっていた。
 だが米帝=GHQ(連合国軍総司令部)はその「初期対日方針」で、占領統治を「天皇を含む日本国統治機構および諸機関を通じて」行うことを決めており、そのためGHQ最高司令官マッカーサーは「天皇制の維持をはかり、昭和天皇が東京裁判に訴追されないために奔走した」。
 これを受けて天皇は、マッカーサーだけでなく米紙記者などを通じて米本国へ、さらには英国王室へと必死に働きかけ、「ひたすら東条〔英機〕などに責任を負わせ、自らの戦争責任については釈明に次ぐ釈明に終始した」「すべては、東京裁判への訴追を回避するという至上の課題に絞り込まれていた」のである。
 さらに重大なのは、東京裁判訴追を免れた天皇が、その後「内外の共産主義から天皇制を守るためには、米軍駐留を確保することが絶対条件」と考えて、米側への非公式の働きかけを執拗(しつよう)に行ったことである。これが後の日米安保条約の内容を規定した。
 天皇は47年5月の憲法施行で一切の政治的行為を禁止された「象徴」となったにもかかわらず、その直後から政府(吉田茂政権)とは別個に独自の「天皇外交」を展開した。同年9月のマッカーサー宛てのメッセージで沖縄の売り渡しを提言するなど、自らの側近を使って米政府や米軍の高官と頻繁に連絡した。また天皇外交は、米軍の長期駐留が反米感情を高めると考えて講和後の駐留に消極的だったマッカーサーや吉田首相を素通りして、直接米本国へと働きかける手段としても展開された。条約締結を渋っていた吉田も、結局天皇が引見し、直接説き伏せて締結へと向かわせた。
 こうして51年に講和条約と安保条約が締結されると、天皇はただちにリッジウェイ司令官(マッカーサーの後任)と会見し、「有史以来いまだかつて見たことのない公正寛大な条約」「日米安保条約の成立も日本の防衛上慶賀すべきことである」と絶賛し、米側が望むなら「私のこの考えを公表してもよい」とまで表明した。当時は国会にすら知らされていなかった安保条約の内容を天皇は熟知し、手放しの賛辞を送ったのである。

労働者の団結と共同性こそ天皇制打倒する力

 ここで今ひとつ重大な事実は、ヒロヒトが朝鮮戦争の渦中の52年3月27日、リッジウェイとの会談で「(北朝鮮が)仮に大攻勢に転じた場合、米軍は原子兵器を使用する考えはあるか」と問いただしたことである。これは事実上、米軍に対して原爆の使用を督促したということであり、驚くべき発言である。
 豊下氏によると、ヒロヒトはその後も「共産主義への強い脅威認識」「内乱への恐怖」「革命が起きるかもしれないという恐怖」にさいなまれた。だからこそ、革命圧殺のために憲法違反の政治行為はもとより、原爆の使用を米軍に勧めることすら辞さないのだ。ここに天皇制の本性がはっきり示されている。
 なお豊下氏の著書はその結論部分で、ヒロヒトと比較して現天皇アキヒトを「ひたすら憲法を遵守(じゅんしゅ)」する護憲天皇≠ニ評しているが、本紙第2774号でも明らかにしたように、アキヒトの膨大な「公務」自身が憲法破壊の暴挙である。
 国鉄全国運動呼びかけ人で近代史研究者の伊藤晃氏は、「近代日本史の中で見た戦後天皇制」と題する2011年の講演の中で、アキヒトの「公務」は、「国民の天皇」(国民と天皇の一体性)を演出する洗練されたパフォーマンスだと指摘している。人民が自ら立ち上がって連帯や共同性を取り戻すことに先回りし、それを天皇のもとでの「国民的共同性」(エセ共同性)にすり替えようとするものであり、これを「私たちの人間的尊厳に対する深い侮辱、愚弄(ぐろう)、嘲笑である」と人民自身が感じることができるかどうかが重要だと提起している。
 天皇制のエセ「共同性」に対して労働者階級が対置すべきものは、社会を変革する世界史的存在としての誇りと団結であり、人間労働を通じて培われる労働者の共同性である。現場からの「労働の奪還」の闘いと国際連帯こそ、天皇制と対決する最も革命的な立脚点である。11月国際共同行動をその跳躍点としてかちとろう。
(水樹豊)

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敗戦直後の天皇と主な出来事
1945年 8月 戦争終結
9月 天皇・マッカーサー会談
12月 戦犯容疑者逮捕が本格化
1946年 1月 マッカーサー、天皇の東京裁判訴追に反対する報告書提出
2月 GHQ、新憲法草案提示
天皇、各地を「巡幸」
5月 東京裁判開廷
食糧メーデー、皇居包囲
11月 新憲法公布
1947年 2月 2・1ゼネスト挫折
5月 憲法施行
9月 天皇「沖縄メッセージ」
1948年 11月 東京裁判判決
1949年 10月 中国革命勝利
1950年 6月 朝鮮戦争勃発(〜53年)
8月 警察予備隊発足
1951年 4月 マッカーサー解任
9月 サンフランシスコ講和条約・日米安保条約締結
1952年 4月 講和条約・安保条約発効