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篠田常木同志を悼む 京浜地帯で資本を揺るがし退職後は街頭で百万人署名 革共同神奈川県委員会

週刊『前進』04頁(2961号04面03)(2018/07/30)


篠田常木同志を悼む
 京浜地帯で資本を揺るがし退職後は街頭で百万人署名
 革共同神奈川県委員会

「生涯現役」を貫く

 6月25日、県党のかけがえのない同志であった篠田常木同志が逝去した。享年78。昨年6月以来、がんとの格闘の中にあったこの1年も、百万人署名運動、星野解放要望書運動に取り組み続け、文字通り「生涯現役」を貫いた人生を全うした。
 「頑固」でいて「寂しがり屋」な、その人懐っこい人となりで、職場や地域において人をひきつけてやまなかった篠田同志を失ったことに、大きな喪失感を抱いている。
 しかし、最後まで街頭で仁王立ちとなって、「子どもたちを放射能から守ろう」「改憲・戦争を絶対に許さない」と全人民に訴え続けた篠田同志の闘いを引き継ぎ、県党の全同志が「改憲阻止・日帝打倒」の戦後最大の階級決戦に総決起することを誓う。

川崎反戦の代表で

 1940年に高知県で生まれた篠田同志は、大阪で働きながら定時制高校で学び、59年に京都大学に入学。ただちに60年安保闘争に立った。その後、富士通信機(現「富士通」、川崎市)に就職。ただちに労働組合活動に参加した。横須賀原潜闘争から日韓・ベトナム反戦闘争を駆け抜け、70年安保・沖縄闘争を川崎地区反戦青年委員会代表として闘い抜いた。
 京浜工業地帯においても、とりわけ労働者1万人の大工場、6割が24歳以下の青年婦人部という富士通に大細胞が建設され、職場闘争とマルクス主義の学習が縦横に展開された。現業部門を反執行部派の拠点とし、青年部長が次々と地方営業所へ配転される組織破壊攻撃を乗り越え、配布された「電機社研」の門前ビラは4年間で120号を数えた。工場包囲の200人デモに対し、会社側は全門閉鎖で対応するなど、日帝の電機産業資本の中心部を揺るがす大闘争を、篠田同志は当時の青年労働者とともに実現した。
 74年には、長谷川製作所(現「ハセテック」、横浜市)に就職。ここでの25年間、1千人の工場を100人に削減する大合理化との死闘を、横浜支部支部長や中央本部三役として労組の中心で闘い続け、99年11月の全国労働者総決起集会には、横浜支部組合員の丸ごと決起をかちとった。この過程は、文字通り「生活のすべてが労働運動」であった。

多くの仲間を鼓舞

 退職後は、「とめよう戦争への道!百万人署名運動」の県の責任者として闘い、まさに街頭を職場とし、1千万人と結びつく実践を始めていた。とりわけ2011年3・11以来、原発事故の現実と闘う福島の怒りと、どこまでもともにあり続けるために、街頭で訴えた。
 また青少年・学生から年配者にいたるまで組織する豊かな実践、共産党や公明党支持者までを批判して獲得するという力と執念など、その姿勢は多くの仲間を鼓舞した。労働者階級と結びつくことができるという深い確信に裏打ちされていたからこそ、こうした実践が可能となったのだ。
 改憲・戦争阻止決戦を神奈川県委員会は階級の先頭で闘う。この一点の誓いをもって、篠田同志との惜別の言葉としたい。