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繰り返すな戦争−日米安保と沖縄− 第2回 「軍隊は住民を守らない」 帝国主義戦争の本質示す沖縄戦

週刊『前進』02頁(3011号02面01)(2019/02/14)


繰り返すな戦争
−日米安保と沖縄− 第2回
 「軍隊は住民を守らない」
 帝国主義戦争の本質示す沖縄戦

(写真 持てる限りの荷物を持って南部へ避難する住民【1945年】)


 「戦争の醜さの極致」----従軍したアメリカの軍事評論家は沖縄戦をこう評した。辺野古への新たな米軍基地建設を止めるために現地で座り込む戦争経験者たちは語る。「基地は戦争を前提にしている。戦争になったら沖縄戦と同じことになる」「私のような沖縄戦の体験者はどんな戦争にも反対だ」「新しい基地を造って、戦争になったらここが攻撃される。沖縄の人たちがみなやられる。二度と私と同じような目にあってほしくない。だから座り込んでいる」。沖縄戦を二度と繰り返してはならないという思いが、戦後の沖縄の労働者民衆の闘いの原点となった。いま一度、沖縄戦の実相をとらえ返してみたい。

天皇制の護持こそが目的

 沖縄戦の目的は、沖縄の人々を守ることではなかった。
 十五年戦争末期、天皇と軍部は「国体護持」=天皇制の延命だけを目的に勝ち目のない戦争を続けていた。軍部は「本土決戦」を呼号し、長野県の松代に大本営を移す工事を開始。1945年1月20日に決定された「帝国陸海軍作戦計画大綱」は、沖縄を「皇土防衛」の「縦深作戦遂行上の前縁」と位置づけ、「極力敵の出血消耗を図りかつ敵航空基盤造成を妨害す」とした。
 天皇を頂点とする日本帝国主義が沖縄に求めたのは、天皇と支配階級のための「捨て石」となって時間を稼ぐことだった。沖縄で日本軍が全滅するのが時間の問題であることは軍隊内でも公然と語られていた。
 日本軍の戦闘遂行能力はその当時すでに失われており、昭和天皇ヒロヒトも敗戦が不可避であることを自覚していた。
 しかしヒロヒトは「(国体護持のためには)もう一度戦果を挙げてからでないと難しい」と主張し、戦争終結を引き延ばしてでも天皇制を維持しようとあがいた。その行き着いた先に凄惨(せいさん)な沖縄戦があり、広島・長崎への原爆投下があった。沖縄は、「国体護持」のための犠牲とされたのだ。

沖縄を襲った「鉄の暴風」

 沖縄は国内で唯一、住民を巻き込んだ地上戦の舞台となった地だ。
 沖縄の占領と基地化が本土攻略と勝利の鍵であると考えた米軍は、太平洋区域における軍事力を総動員し、1500隻近い艦船と延べ54万8千人もの兵員を派遣した。
 45年3月26日、米軍は沖縄本島の西に位置する慶良間(けらま)列島に上陸。4月1日には本島中部の西海岸に上陸し、ただちに二つの飛行場を制圧した。激しい戦闘が続く中、追い詰められた日本軍は首里城地下の司令部を捨てて南部へ退却した。戦線は南下し、膨大な数の住民が避難していた首里以南がもっとも凄惨な戦場となった。
 6月23日に日本軍司令官・牛島満らは自殺したが、牛島はその直前に残存部隊に対して「最後まで敢闘し悠久の大義に生くべし」と命令した。これは、降伏を許さず、天皇のために死ぬまで戦えという厳命だった。そのため、8月15日の敗戦を経て9月7日の日本軍の降伏文書調印に至るまで、全住民を巻き込んだ戦闘が続けられた。ゲリラ戦による抵抗は46年1月ごろまで続いた。
 米軍側からは、「鉄の暴風」と呼ばれた爆撃機や艦砲による攻撃をはじめ、文字通り陸海空のすべてから銃や大砲、火炎放射器などによる攻撃が加えられた。これは、沖縄の地形をすっかり変えてしまうほど激しいものだった。

軍が住民を根こそぎ動員

 沖縄戦を特徴づけるのは、民間人の犠牲の異常な多さだ。これは、米軍と日本軍との戦力の差を補うために、「一木一草に至るまで戦力化」という方針の下で住民が根こそぎ動員されたことによる。沖縄戦において、前線と銃後の区別は存在しなかった。
 大田昌秀著『沖縄戦とは何か』によれば、県外出身者からなる日本軍の死者が約6万5千人であったのに対し、民間人であった県民の死者は9万4千人以上に上り、軍に動員されて「防衛隊」や「戦闘協力者」とされた人も合わせた総死者数は17万8千人を超える。当時約45万人の沖縄県民のうち、実に3人に1人が殺されたのだ。よく知られている「鉄血勤皇隊」や「ひめゆり学徒隊」のように、中等学校の生徒たちは「学徒隊」として動員され、軍人・軍属として戦争に協力させられた。推定では、動員された生徒約2400人のうち半数以上が命を落とし、教育労働者も30%までもが犠牲になった。
 さらに、強制連行で連れてこられた朝鮮人男性、日本軍軍隊慰安婦とされた朝鮮人女性の存在も決して忘れてはならない。

日本軍が住民に「集団自決」命令

 「軍隊は住民を守らない」----沖縄戦の教訓はこの一語に尽きる。しかも日本軍は住民を「守らない」ばかりか盾とし、避難のために身を寄せていたガマ(自然にできた洞窟)から追い出し、水や食糧、そして命までも奪った。「軍官民共生共死の一体化」の行き着く先にあったのは、軍命による「集団自決」=住民の強制集団死だった。
 日本軍は米軍の捕虜になることを禁じ、「生きて辱めを受けるくらいなら自ら命を絶て」と命令して住民には手榴(しゅりゅう)弾を配布した。ガマの中で、森や海岸で、沖縄の人々は妻や夫、子どもを手榴弾やカミソリで自ら手にかけるところにまで追い込まれた。乳幼児は、米兵に泣き声が聞こえることを恐れた日本兵に殺された。
 読谷(よみたん)村のチビチリガマでは、わかっているだけでも避難していた住民140人のうち83人が死に追い込まれた。うち約6割が子どもたちであり、戸籍にまだ登録されていなかった幼児も殺されたとの証言もある。
 さらに、「うちなーぐち」(沖縄方言)を使ったなどの理由だけでスパイのぬれぎぬを着せられて虐殺された人々が子どもを含めて約1千人いるとされる。その背景には、住民を通じて軍の機密が米軍に知られることへの恐怖があった。

世代超え新たな決起が始まった

 沖縄戦は単なる過去の話ではない。戦後も日米安保同盟の下で、沖縄は戦場にもっとも近い「基地の島」であり続けてきた。そして今、安倍は改憲を強行しアジアへの新たな侵略戦争に乗り出そうとしている。そのために朝鮮をはじめとしたアジアへの侵略と植民地支配の歴史を美化・正当化し、他方で「軍隊は住民を守らない」という帝国主義戦争の本質を覆い隠すことに必死になっているのだ。
 戦争経験者たちの命がけの闘いは、この攻撃に真っ向から立ちはだかっている。「命どぅ宝(命こそ宝)」という思いは世代を超えて引き継がれ、新たな決起を生み出している。
 戦争のための基地は世界のどこにもいらない! 辺野古への新たな基地建設を阻止する闘いは、国際連帯の力で、戦争によってしか延命できない帝国主義を打倒する根底的な闘いだ。本土と沖縄を結ぶ労働者人民の力で、新たな基地建設と戦争を絶対に阻止しよう。

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沖縄戦における戦没者総数
 計25万6656人
■日本 24万4136人
 正規軍(県外出身日本兵)65908人
 防衛隊(沖縄県民)28228人
 戦闘協力者(沖縄県民)55246人
 一般住民(沖縄県民)94754人
■アメリカ 1万2520人
 上のデータは大田昌秀著『沖縄戦とは何か』(久米書房、1985年)によるが、一般住民の戦没者数は一度も公式に調査されたことがないため、あくまでも人口統計からの推定である。また、朝鮮人の犠牲者数も不明のままとなっている。