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繰り返すな戦争−日米安保と沖縄− 第4回 「返還」の正体は基地の維持 70年闘争の爆発に揺らぐ日米帝

週刊『前進』02頁(3015号02面01)(2019/02/28)


繰り返すな戦争
−日米安保と沖縄− 第4回
 「返還」の正体は基地の維持
 70年闘争の爆発に揺らぐ日米帝

(写真 1971年5月19日の第1波沖縄全島ゼネスト当日、中核派は米軍牧港補給地区・仲西ゲート前【浦添市】に集結、コンテナの上に旗を立てて基地に突入した)


 前回見た通り、沖縄は1952年4月28日のサンフランシスコ講和条約の発効をもって日本から分離された。米軍の過酷な支配のもとで多くの住民が土地を奪われ、基地と隣り合わせの生活を強いられた。だが60年代に入ると「本土復帰・基地撤去」を求める闘いが本格的に爆発。米軍による沖縄支配が破綻を迎える中で、米日両政府は沖縄の人々の本土復帰要求を逆手にとり、米軍基地を残したままで施政権だけを日本に返還することを画策する。今回はこの72年5月15日のペテン的「返還」に至る経過を見ていきたい。

ベトナム侵略戦争に怒り

 米軍統治に反対し本土復帰を求める「沖縄県祖国復帰協議会(復帰協)」は、60年4月に結成された。65年8月、来沖した佐藤栄作首相(当時)に抗議し本土復帰を求める県民大会に5万人が結集。66〜67年には教職員の政治活動を禁止する「教公2法」をめぐり、沖縄教職員会(沖教組、沖高教組の前身)が数波の年休闘争と立法院包囲闘争でこれを阻止。68年4月には基地労働者の組合=全軍労(全沖縄軍労働組合)が10割年休闘争を決行した。
 こうした闘いの背景には、米軍によるベトナム侵略戦争への怒りが渦巻いていた。65年2月に北ベトナム空爆が始まると、ただちにB52戦略爆撃機がグアムから嘉手納基地に移駐され、在沖海兵隊は真っ先に地上部隊としてベトナムに投入された。米軍がベトナム戦争で使用した弾薬総量は1127万d(第2次大戦の総使用量の約2倍!)に達したが、その大半が沖縄の基地で調達された。
 さらに枯葉剤や六価クロム、VXガスといった化学兵器用の猛毒物質が大量に貯蔵・運搬され、公害や基地労働者の深刻な健康被害が相次いだ。破損した兵器の修理や死亡した米兵の遺体処理も沖縄で行われた。米太平洋軍司令官は「沖縄なくしてベトナム戦争は続けられない」と語った。また当時の沖縄が世界最大級の核基地だったことは前回見た通りである。
 こうした中、68年11月に嘉手納基地でB52が墜落炎上事故を起こした。ただちに県民共闘会議が結成され、B52撤去を要求するゼネストを69年2月4日に決行すると宣言。これに仰天した日本政府は、琉球政府・屋良朝苗主席を呼び、「ゼネストは日米交渉の障害だ。本土復帰が遅れてもいいのか」と脅した。結局、県民共闘は屋良主席の要請を受けてゼネストを中止した。沖縄の闘いは深刻な挫折に突き当たった。

本土と沖縄の闘いが合流

 2・4ゼネストの挫折を乗り越える沖縄の新たな闘いは、本土の労働者・学生の「安保粉砕・日帝打倒」の闘いとの結合をもって始まった。本土では67年10・8羽田闘争を突破口に、全学連や反戦青年委員会に結集する青年労働者が激しい実力闘争に決起していた。国家権力は、こうした全学連や反戦派の闘いと沖縄の闘いが結合することを何よりも恐れ、69年4月、闘いの中心にいた革共同に破壊活動防止法を適用した。69年4・28沖縄デー闘争は、この弾圧を打ち破って総勢15万人のデモが都心を制圧する大闘争となった。
 ついに本土と沖縄の闘いが合流し、沖縄現地でも一人の青年が4・28闘争で初めて「那覇地区反戦青年委員会」の旗を掲げて登場、沖縄闘争は新段階に入っていく。5月に軍港湾労組が無期限スト、6月に全軍労が米軍の銃剣と対峙して24時間スト、さらに8月には全学連の3学生が嘉手納基地突入闘争を決行し、10月には沖縄県反戦青年委員会が結成された。「抗議や陳情に終始し、大衆デモもその補助的意義しか与えられず、結局は『主席』や『首相』など他人まかせになってしまう復帰協のそうした限界を突破し、人民自身の実力闘争で帝国主義を打倒しようとする反戦派の思想と行動が沖縄にももたらされた」(三一書房刊『全軍労反戦派』)のである。
 こうした中で、日米政府は69年11月、ニクソン大統領・佐藤首相の共同声明をもって沖縄のペテン的「返還」を打ち出した。表向きは「核抜き・本土並みの返還」を掲げながら、同時にこの返還は「ベトナムにおける米国の努力に影響を及ぼすことなく」実現しなければならないとした。ここで言う「米国の努力」とはベトナム戦争のことだ。
 すなわちそれは、残虐きわまる不正義の侵略戦争をあくまで継続し、この戦争のためにフル稼働している沖縄の全米軍基地をそっくり維持するということでしかなかった。しかも「核抜き」と言いながら、米軍の判断でいつでも核を持ち込める密約が結ばれていた。

青年先頭に全島ゼネスト

 革共同が掲げた「沖縄奪還、安保粉砕・日帝打倒」のスローガンは、沖縄こそ日米安保の矛盾と犠牲の集中点であること、そしてこの現実と闘う本土復帰闘争の中に米日帝国主義との絶対的な非和解性=革命の現実性がはらまれていることをつかみ、沖縄闘争を70年安保闘争の中心課題に位置づけた。そして沖縄の人々が求めた「基地のない平和な沖縄」も、基地と安保によって成り立つ米日帝国主義を打倒して、労働者階級が真に社会の主人公となっていく中で実現できることを明確にしたのである。
 この沖縄奪還論が青年労働者や学生の間に一挙に浸透し、ゼネストへの道が切り開かれていった。反戦派の拠点だった全軍労牧港支部では、新たに結成された青年部(牧青)が労組指導部の制動を乗り越え、生き生きと自己解放的に実力闘争を繰り広げた。
 そして70年12月のコザ暴動を経てついに71年、「基地を残したままの返還」に断固反対し、返還協定の白紙撤回と基地の即時全面撤去を要求する沖縄全島ゼネストが、5月19日と11月10日の2度にわたり決行された。この闘いと心を一つにして、本土では星野文昭さんをリーダーとする11・14渋谷暴動闘争、さらには11・19日比谷暴動闘争が闘い抜かれた。

星野さん解放を

 日米政府は燃え上がる怒りと抗議の声を踏みにじり、基地労働者の大量解雇と一体で72年5月15日に沖縄のペテン的「返還」を強行した。だが彼らが演出しようとした「祝賀ムード」は完全に吹き飛ばされ、那覇市余儀公園では「沖縄処分抗議」の県民大会が開かれた。「基地は残ったが本土に復帰できたのは良かった」などというペテン的な「総括」を断固拒否し、5・15を「屈辱の日」として、すべての米軍基地をなくす日まで闘うことを誓ったのである。
 返還後の沖縄では、全軍労牧港支部の基地内決起や軍用地契約を拒否する反戦地主の闘いなど、様々な闘争が展開された。それは95年の10万人決起を経て今日の辺野古新基地絶対阻止の闘いに引き継がれている。
 何より星野文昭さんの獄中44年の不屈の闘いは、米日帝国主義を追い詰めた70年闘争の正義と歴史的到達地平とを一身に体現している。今こそ星野さんを奪還し、全世界の労働者と団結して基地も戦争もない世界を共に実現しよう。

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【主な米軍施設】
@北部訓練場
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B辺野古弾薬庫
Cキャンプ・シュワブ
Dキャンプ・ハンセン
E嘉手納弾薬庫地区
Fキャンプ・コートニー
Gキャンプ・マクトリアス
Hキャンプ・シールズ
Iトリイ通信施設
J嘉手納飛行場
Kキャンプ桑江
Lキャンプ瑞慶覧
Mホワイト・ビーチ地区
N普天間飛行場
Oキャンプ・キンザー
P那覇港湾施設