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繰り返すな戦争−天皇制と戦争− 第3回 天皇追いつめた戦後革命 ヒロヒトは占領軍にすがり延命

週刊『前進』02頁(3027号02面03)(2019/04/11)


繰り返すな戦争
−天皇制と戦争− 第3回
 天皇追いつめた戦後革命
 ヒロヒトは占領軍にすがり延命

(写真 46年5月12日、世田谷米よこせ大会に集まった3千人が皇居に押しかけ、赤旗を押し立てて中に入り食糧を摘発した)

(写真 46年5月19日の食糧メーデー。25万人が皇居前広場を埋め「朕【ちん】はタラフク食ってるぞ」のプラカードが登場)


 前回、前々回で明らかにしたように、かつて日本の戦争はすべて「天皇の軍隊」による「天皇の戦争」であり、とりわけ昭和天皇ヒロヒトは名実ともに侵略戦争の指導者・命令者だった。日本の戦争犯罪人を裁いた東京裁判(極東軍事裁判)で裁判長を務めたW・F・ウェッブは後年、「法廷に提出された証拠は、天皇には実際に戦争責任があったことを明らかにした」と明言した。天皇は明らかに戦犯であり、その証拠も十分にあったというのだ。それにもかかわらず、なぜ天皇は裁判にかけられず、戦後も「象徴天皇」として延命することができたのか。今回はその解明を通じて、戦後の「象徴天皇制」の本質に迫りたい。

皇居包囲した人民の怒り

 第2次大戦後の世界史の流れを大きく動かしたものは、戦争終結と同時に全世界で一斉に巻き起こった戦後革命だった。アジアにおいては朝鮮半島から中国大陸、フィリピン、インドネシア、インドシナ半島に至るまで革命運動の大波が覆い、民族独立や新政府樹立が次々と宣言された。日本の侵略戦争に対する賠償と責任追及、その最高責任者である天皇の処罰を求める声も一気に爆発した。
 日本も例外ではなかった。戦争をもたらした天皇や軍部への怒りは戦争末期から民衆の中に渦巻き、元首相・近衛文麿は「今や(国民は)皇室をおうらみ申し上げる事態とさえなっております」と天皇に報告していた。戦争が終わると、強制連行されていた朝鮮人・中国人労働者の決起を皮切りに戦後革命が始まり、日本人労働者も次々と労働組合を結成してストライキや生産管理闘争に立ち上がった。
 45年12月8日には「戦争犯罪人追及人民大会」が開かれ、1600人の戦犯リストの筆頭に天皇の名が挙げられた。46年5・1メーデーでは東京で50万人、全国で125万人が決起し、皇居前広場を埋め尽くした労働者が「戦犯者を根こそぎ追放しろ」と叫んだ。5月12日の世田谷米よこせ大会に集まった3千人は、「天皇よ人間ならば人民大衆の悲痛な声をきけ、即時宮城内の隠匿米を人民大衆に開放せよ」と声明し、皇宮警察の制止を実力突破して皇居内に突入、食糧を摘発した。5月19日の食糧メーデーでは再び皇居前広場が25万人の天皇糾弾の声で埋まった。
 もはや天皇の東京裁判への訴追は不可避と思われた。米国内でも世論の7割が天皇処刑を要求し、上院議会は「天皇ヒロヒトを戦争犯罪人として裁判に付すること」を決議(45年9月18日)。オーストラリア政府がロンドンの戦争犯罪委員会に提出した戦犯リスト124人のトップにも天皇の名が挙がった。東京裁判の検察側(国際検察局)でも「起訴されれば天皇は有罪となる」との意見が多数を占めた。
 天皇に残された最後の道は、GHQ(連合国軍総司令部)最高司令官・マッカーサーにすがりつくことしかなかった。

天皇制維持へ必死の工作

 45年9月27日、天皇とマッカーサーの初会談が行われた。ここで天皇が「戦争の全責任は私が負う。自分の身はどうなってもいい」と発言したというつくり話が、あたかも史実であるかのように宣伝されてきた。だが、虚言に満ちたマッカーサーの晩年の『回想録』を唯一の根拠としたこの「美談」は、実際の天皇の言動と著しく矛盾するため当初から真実性を疑われており、今日では政治学者・豊下楢彦氏の『昭和天皇と戦後日本』などの研究で、まったくの虚構であることが解明されている。
 実際には、天皇はひたすら東条英機ら一部の軍人や政治家に一切の責任を転嫁し、「自らの戦争責任については釈明に次ぐ釈明に終始した」(豊下前掲書)のである。GHQに提出した『独白録』においても、天皇は、自分が戦争を拒否すれば「国内は必ず大内乱となり、私の信頼する周囲の者は殺され、私の生命も保証できない。(その結果)今次の戦争に数倍する悲惨事が行われ......日本は亡びることになったであろう」と語った。国民が天皇を殺してでも戦争をやろうとしたのでやむなく開戦した、というのだ。この通り天皇は「自分が全責任を負う」どころか、国民に全責任をなすりつけたのである。
 他方でGHQの占領統治は、天皇を自らの手駒として抱き込み、手なづけ、利用することを主要な手段としていた。そのためマッカーサーは「天皇制の維持をはかり、昭和天皇が東京裁判に訴追されないために奔走した」(豊下同書)。
 だが当然にも、天皇の戦争責任を追及する声はやまず、各国政府からも天皇制の維持は軍国主義の復活をもたらすのではないかと声が上がった。「この国際世論の不安を取り除くためには、日本が再び世界の安全と平和にとって脅威とならないような保証が必要であった。......そのために考案されたのが憲法9条の戦争放棄の規定であった」(中村政則著『象徴天皇制への道』)。GHQは46年2月、東京裁判の準備が本格化する前に大急ぎで新憲法草案を作成し、日本側に受け入れさせた。

戦争責任追及の声やまず

 こうして「戦争放棄」をうたった憲法の制定と引き換えに、天皇制は政治的権能を失った「象徴天皇制」として延命した。天皇の戦争責任があいまいにされたことは、戦争を起こし戦争で利益を得た支配階級の大部分を免罪することになった。元A級戦犯容疑者・岸信介(安倍晋三の祖父!)ら反動政治家も処罰を免れ、戦後日本の政治権力の頂点に復活した。
 だが重要なことは、「二度と戦争を許さない」と誓った労働者民衆の中から、天皇の戦争責任追及の声がやまなかったことである。昨年8月に発見されたヒロヒトの元侍従・小林忍の日記から、晩年のヒロヒトが「長く生きても戦争責任のことを言われる」と憔悴(しょうすい)しきっていたことが明らかになった。小林はこれに対し、「(戦争のことは)過去の歴史の一こまにすぎない」と言ってなぐさめたという。あの戦争を「歴史の一こま」などと片付けようとしても、日本とアジアの労働者民衆はそれをけっして許さなかったのだ。天皇アキヒトの「平和主義」を装った振る舞いも、すべてこの現実に規定されている。
 安倍政権は今、改憲策動と一体で天皇代替わりの大キャンペーンを展開し、天皇のもとでの「国民統合」を図ろうと必死になっている。この攻撃を打ち破り、5・1メーデーの大成功をかちとろう。