■マルクス主義・学習講座 労働組合と国家――資本主義国家と闘う労働組合 ⑻ 丹沢 望

月刊『国際労働運動』48頁(0459号04面01)(2014/12/01)


■マルクス主義・学習講座
 労働組合と国家――資本主義国家と闘う労働組合 ⑻
 丹沢 望


   目 次
はじめに
第一章 労働者と国家の闘い
   ・階級対立の非和解性の産物としての国家
   ・国家に対する階級闘争の歴史
   ・革命の主体、労働者階級の登場
   ・マルクスの労働組合論(以上、4月号)
第二章 労働組合の発展史
   ・初期の労働者の闘いと国家による弾圧
   ・マルクスの労働組合論
   ・パリ・コミューンと労働組合
   ・サンジカリズムの台頭(以上、5月号)
   ・ロシア革命と労働組合
   ・30年代のアメリカ労働運動(以上、6、7月号)
   ・ 労働者階級の自己解放闘争と労働組合(以上、9月号)
   ・暴力について
第三章 パリ・コミューンと労働組合
   ・労働組合と革命(以上、10月号)
   ・コミューン時代の労働組合
   ・労働の経済的解放(以上、11月号)
第四章 ロシア革命と労働組合
   ・1905年革命までの労働者の闘い
   ・05年革命とソビエトの結成(以上、本号)
   ・1917年2月革命と労兵ソビエトの設立
   ・労働者国家を担う労働組合

労働の経済的解放(つづき)

 このように見ると、パリ・コミューンにおいても実はマルクス派の活動が労働組合を通じてかなり強力に行われており、この時代においても共産主義への移行は、労働組合や生産協同組合の闘いを通じて行われるべきであるということが基本的に提起されていたことがわかる。
 プロレタリアート自身による大規模生産の組織を基礎にして、上記のような4原則を貫徹すれば、賃金奴隷制とは似ても似つかぬ秩序が徐々に作りだされていくことが明らかとなった。
 以上の点から、コミューンの闘いは、まだ全面的な形ではないが、労働組合を基盤にする革命と革命後の社会主義社会の建設という性格を持っていたことがわかる。
 マルクスは、4原則を貫徹するととともに、上述のような労働者階級の経済面での改革を貫徹し、コミューンの思想と政策を正しく発展させていくならば、プロ独の実現は可能であり、共産主義社会への巨大な展望が開かれることを明らかにしたのだ。
 こうしてマルクスは、コミューンは本質上、粉砕された国家にとって代わることのできる、またとって代わらなければならない労働者階級の政府であり、労働の経済的解放をなしとげるための、ついに発見された政治形態であり、労働者の独裁の具体的形態であるとした。
 もちろんコミューンは、さまざまな限界を持っていた。
▽労働者階級が不十分にしか形成されておらず、労働組合もコミューンの主軸とまではなりえなかったこと、
▽革命党の強力な指導が不足し、アナーキストの影響力が強かったこと、
▽軍事的に支配階級を追撃し撃破できなかったこと、国立銀行を接収し、ブルジョアジーの息の根をとめることができなかったこと、など。
 にもかかわらず、このような悪条件下でも労働者階級は、共産主義社会の出発点となる労働者独裁国家を創造する革命性を発揮した。労働者階級は、自分たちを支配してきた資本家に対する激しい怒りをバネにして資本家を打倒し、自分たちが主人公となる新たな社会をつくり出す方法を創造する能力を持っていることを示した。
 このコミューンの勝利と敗北の総括を踏まえ、労働組合の闘いに徹底的に依拠して勝利したのがロシア革命だ。
▼プロレタリア独裁国家
 ここではマルクスがプロレタリア独裁国家論をいかに深めてきたのかを述べたい。
 マルクスは『共産党宣言』で、「ブルジョアジーの暴力的打倒をとおして、プロレタリアートは自分自身の支配をうちたてる。それは搾取者を抑圧し、あらゆる搾取を完全に廃絶する。そして、このプロレタリア国家(支配階級として組織されたプロレタリアート)はただちに死滅し始める」という見解を明らかにした。
 だが、マルクスは『共産党宣言』の段階では、プロレタリア革命において、プロレタリアートは従来の国家権力をそのまま奪取して利用することができるのか、それともそれを粉砕し、廃絶するべきであるのか、その結論をはっきりと出すことができていなかった。
 マルクスはこの解答を、1848〜51年の革命(フランス、ドイツ、オーストリアのブルジョア革命)の総括を通じて導きだしている。
 「議会制共和制は、革命に反対して闘う際に、弾圧措置を強めるとともに、政府権力の手段を増大させ、その集中を強めざるをえなかった。すべての変革は、この機構を打ち砕かずに、かえってそれをいっそう完全にした」(マルクス『ルイ・ボナパルトのブリュメール一八日』)
 このことをレーニンは、『国家と革命』で取り上げ次のように言っている。
 「マルクスは、『これまでの革命はみな国家機構をいっそう完全なものにしたが、国家機構は粉砕し、打ち砕かなければならない』と」
 1848〜51年の革命においては、実際に権力を握ったのは労働者ではなく、ブルジョア民主主義諸党であり、これらの党は革命が終わると、出来合いの国家権力をさらに強化して革命を共に闘った労働者を弾圧した。プロレタリアートにとって出来合いの国家を利用することはできないことが明確になった。
 だが次に、マルクスは、この国家機構を粉砕し、廃絶されるべきと述べた国家機構を何に代えたらよいのかという問題にはまだ具体的な答えを出していない。
 マルクスはこれについての解答をパリ・コミューンの経験の総括を通じて明らかにした。すなわち、廃絶されるべき旧来の国家機構に代わるべきものはプロレタリア独裁国家の樹立であると。
 マルクスは、いつでも労働者階級の具体的な闘いの発展のなかに解答を見出そうとした。そしてパリ・コミューンにおける労働者階級の新たな試みのなかにその解答を見出した。
 ブルジョア国家の一連の変革は中央集権的国家権力を強化・発展してきた。1789年フランス革命(ブルジョア革命)は、絶対君主制の時代に始まる中央集権的国家権力(常備軍、警察、官僚、僧侶、裁判官など)を近代国家権力へとつくり変え、第1帝政(ナポレオン・ボナパルト)のもとでそれを完成させた。この近代国家権力は、工業の発展、ブルジョアジーとプロレタリアートの階級闘争の発展が革命やクーデターとなり爆発する度ごとに労働者階級抑圧の公的権力、階級支配の機構としての性格を強めた。
 1830年7月革命による7月王政、48年の2月革命による第2共和制(ブルジョア的・民主的共和制)、6月蜂起の圧殺、49年のルイ・ボナパルトを大統領とする議会的共和制、51年のルイ・ボナパルトのクーデターと52年の第2帝政(ボナパルティズム権力)という経過をたどった。
 マルクスとエンゲルスはルイ・ボナパルトの権力をブルジョアジーとプロレタリアートの階級闘争の激化と階級的力関係の下に成立した例外的な独裁権力としてボナパルティズム権力と名づけた。
 マルクスは、この第2帝政のボナパルティズム権力を、民主共和制のもとでの階級闘争の発展から生まれた、ブルジョア国家権力の最もいかがわしい形態であり、同時に最終局の形態であると特徴づけた。マルクスは「帝政の正反対物がコミューンであった。パリのプロレタリアートが2月革命を開始した際の『社会的共和制』という叫びは、階級支配の君主的形態ばかりでなく、階級支配そのものを廃止するような共和制への漠然たるあこがれを言い表したものにほかならかった。コミューンこそはそういう共和制の明確な形態であった」と言っている。

 「インターナショナル」はパリ・コミューンから生まれた。歌詞は1871年のパリ・コミューンの蜂起の際にウジェーヌ・ポティエによって、曲は1888年にピエール・ドジェーテルによって作られた。その後、フランスの労働者・社会主義者によって広く愛唱されるようになり、1902年にはロシア語に翻訳され世界中に広まった。

第四章 ロシア革命と労働組合

 レーニンのボルシェビキだけが、マルクスの労働者自己解放の思想を引き継ぎ、最初から労働運動と労働組合を決定的に重視した。ロシア革命は労働組合を主体にした革命であり、労働組合は決定的な役割を果たした。
 もちろんこういう見方をできるようになったのは、われわれが動労千葉の闘いから学び、労働組合が革命運動において果たす戦略的意義を把握し直し、そういう観点からロシア革命を見直したからだ。
 ほとんどのロシア革命史においては、ロシア革命の主体はボルシェビキ党であるとされていた。あれこれの革命家や革命組織の物語であり、労働者や労働組合の姿はほとんど出てきていない。
 なぜそうなったか。レーニンの死後、1920年代にスターリンが権力を簒奪し、一国社会主義論を唱えてプロレタリア世界革命を裏切り、共産党と国家官僚による独裁体制を敷き、革命ロシアを反革命的に変質させた。スターリンはロシア革命において果たした労働組合の役割を否定し、歴史から抹殺した。この独裁体制の下で、労働者階級が革命の主体であることが否定され、スターリンとその党が革命の主体だとねじまげた。
【注 スターリン(1878〜1953) 1922年からソ連共産党書記長】
 ロシア革命後、ロシア革命の権威を振りかざした反革命のスターリン主義が世界の大部分の左翼政党に圧倒的な影響を与えたため、こういう労働者階級と労働組合が革命の主体であることを抹殺する思想が世界中に拡散された。
 われわれはこの歴史の偽造を許さず、労働者階級と労働組合がロシア革命で果たした決定的役割を見直さなければならない。われわれ自身がスターリン主義的なロシア革命論に無意識的にではあれ影響を受けていた現実を突破しなければならない。われわれは動労千葉の闘いを学ぶことを通じて、労働組合が革命において果たすべき役割を把握できたことを確認したい。

●1905年革命までの労働者の闘い

▼労働運動に重点を置いた闘い
 ロシアの労働者の闘いは、1880年代から始まった。どこの国でも同じであったがロシアでも労働組合は非合法化されていたために、労働者は最初から工場内に一時的なストライキ委員会のようなものを作って、主にストライキを手段として闘った。
 労働組合がなくても、労働者は職場で団結し、きわめて戦闘的に闘い、労働者階級の指導部を生み出すとともに、恒常的な団結形態である労働組合の基礎を築いた。労働者階級は、革命党の働きかけがなくても自然発生的に職場で団結し、資本と闘う組織を形成する階級であることがこの時期のロシア労働者の闘いで証明されている。この非合法・非公然下の労働運動の経験が蓄積されていたからこそ、後に労働組合を一挙に爆発的な勢いで形成することが可能になったのだ。
 遅れて登場したロシア資本主義は、先進資本主義国の最先端技術を持つ大工場を導入することができたため、労働者の半分以上が500人以上の大工場に雇用された。単純労働者として職種的・階層的分化が未発達の労働者であった。だから西欧諸国のように職場ごとに分断されておらず、労働者階級の一般的利害を一丸となって要求して闘うことができた。その大多数は、帝政ロシアの絶対主義的専制支配の下で完全な無権利状態に置かれていた若々しく戦闘的な労働者階級であった。
 レーニンの党(労働者階級解放闘争同盟)は、このような労働者の自然発生的な闘いに感動し、触発されて、サークル主義を克服し、インテリの党から労働者の党へと飛躍し、労働者階級の中に全力で入っていった。そして労働者を革命の主体と位置づけ、結党当初から労働運動を組織する活動を扇動戦術を基本として展開し、大きな成果をあげた。主にインテリゲンチャを対象としてマルクス主義をイデオロギーとして宣伝する宣伝活動から扇動戦術への転換には決定的意義があった。
 それはレーニンの著作『何をなすべきか』(1902年)で明らかにされているように、革命党も労働組合も非合法化されている状況下で、いかにして労働運動を組織する党=労働者の党に成長するかに徹底してこだわる闘いとして行われた。とりわけ、「労働者が自分たちの敵に対する戦争を行う道を学ぶ学校であるストライキ」(レーニン『ストライキについて』)の中で、労働者自身の階級的指導部を形成する闘いに全力を注いだ。
 このため、ストライキの組織化のためのオルグとビラ入れ活動が、活発に行われた。また、ストライキ闘争を帝政打倒の闘いと結合する形で組織した。これは当時の第二インターがゼネストを無政府主義者の戦術として否定したのと対照的な立場であった。
 なお、この時期には、帝政による弾圧でレーニンなど指導部が投獄されるなかで、党内に経済主義が蔓延した。経済主義は、当時爆発的に展開されていた労働者階級の自然発生的経済闘争に依拠するだけで革命を実現できるという思想で、労働者党の必要性や革命の目的意識性を否定した。自然発生性への屈服である。
 流刑地から戻ったレーニンは1900年末、この経済主義に反対し、政治闘争を重視する活動家とともに政治新聞『イスクラ』を創刊した。この新聞を中心とするグループ(レーニン、マルトフ、プレハーノフなど)はイスクラ派と呼ばれた。
 レーニンは経済主義との闘争を開始し、労働者階級の闘いを帝政打倒の闘いと結合する全国単一の党の建設、中央指導部の建設、中央機関紙の創設のための闘いにも着手し、階級的労働運動を展開した。『何をなすべきか』は、非合法・非公然下で階級的労働運動を展開しうる全国単一の党を建設するための苦闘過程を総括した文書であった。 
 イスクラ派の主導により、1903年にロシア社会民主労働党第2回党大会がはじめブリュッセルで、ついでロンドンで開かれた。この大会は1898年3月に結成されたまま弾圧によって機能停止していた同党を再建した。しかし党規約をめぐりレーニンは党の組織的活動に参加することを党員の条件としたのに対し、マルトフは党に対する支持だけを条件として対立し、ボルシェヴィキ(多数派)とメンシェヴィキ(少数派)に分裂した。
▼警察労働組合
 労働運動の急速な発展とその勢いに恐怖した帝政は、1901年にモスクワの憲兵大佐ズバトフの提案に基づき、憲兵、警察の保護による合法的な労働者組織をつくらせ、労働者の要求を経済問題の範囲にとどめるとともに、労働運動を政府の監督下に置こうとした。これがズバトフがつくった「労働者会議」で、ペテルブルグでは司祭ガボンが指導していた。しかしたとえ警察労働組合であっても、労働者が合法的に自分たちを組織し、組合活動を開始するやいなや、たちまち闘いは激化した。05年革命では重大な役割を果たした。

●05年革命とソビエトの結成

 20世紀の初頭、資本主義は帝国主義段階へと歴史的に移り変わった。英仏などの先発資本主義国がすでに全世界を植民地として分割し支配しているところへ独・米・日・露など後発の資本主義が、世界市場と世界の分割・再分割を求める侵略戦争を各地で仕掛けた。帝国主義の時代、それは戦争と革命の時代であり、世界戦争と世界革命の時代である。「社会主義革命の前夜としての帝国主義」の時代であった。
 日露戦争(1904〜05)は、強大なロシア帝国主義に対して、日本帝国主義がロシアの南下政策と対抗していた英帝国主義と同盟して、中国東北地方と朝鮮半島の支配権を奪い合う帝国主義強盗戦争であった。大量のロシア陸軍がシベリア鉄道で中国東北地方に送られた。バルチック艦隊は地球を半周して日本に向かっていた。中国・遼東半島の先端部にある旅順(ロシアの強固な要塞があった)が日露の攻防の焦点だった。ロシア軍は食糧、弾薬が乏しく、規律は緩み、政治・軍事能力は崩壊していた。04年末、激戦の末旅順が陥落した。この敗北でロシア皇帝(ツアー)の権威は地に落ちた。ルイ・ナポレオンのセダンの戦いにおける敗北を想起させる事態だ。
 04年12月、バクー(現在のアゼルバイジャン共和国の首都。カスピ海西岸に突き出したアブシェロン半島南岸に位置する石油の都市)の労働者が大規模なストライキを行った。鎮圧に来た軍隊と闘い、ペテルブルグなどの労働者の連帯ストライキの支援を受けて勝利し、ロシア労働運動史上初の資本との団体協約を結び労働組合を認めさせた。
 翌05年1月、ロシアで血の日曜日事件が起きた。血の日曜日とは、05年1月22日(旧暦1月9日)、ロシアの首都ペテルブルグにおける労働者のツアーに対する大規模請願デモとそれに対する軍隊の無差別発砲、大虐殺事件のことだ。これに端を発して闘いが全土に燃え広がり、05年ロシア第1次革命となった。
 04年12月にプチロフ工場で起きた4人の組合員解雇に対する陳情が認められなかったことから、05年1月16日、同工場のストが闘われた。プチロフの労働者は、司祭ガボンが指導していた「ロシア工場労働者会議」(警察労働組合)を通じてストライキを拡大する方針を決定した。この組織は合法的で活動の自由を持っていた。「労働者会議」の労働者の支持のもとでストライキは急速に拡大し全市に広がった。その数は、20日に382工場10万人に達した。
 22日の皇帝への直接請願行動が司祭ガボンによって呼びかけられた。請願の内容は、8時間労働日、超過勤務の廃止、労働者の法的保護、完全に敗勢となっていた日露戦争の中止、憲法の制定、基本的人権の確立などで、搾取・貧困・戦争に喘いでいた当時のロシア民衆の素朴な要求を代弁したものだった。「パンと平和の要求」と言われる。ガポン自身は警察と関係を持ち、闘いの革命的発展を押しとどめようとしていたことは明白である。
(以上第8回)