週刊『三里塚』
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新たな三里塚闘争に挑む 三里塚現地闘争本部

週刊『三里塚』02頁(0974号01面02)(2017/08/28)


新たな三里塚闘争に挑む
 三里塚現地闘争本部

(写真 空港反対闘争をともに歩んだ多くの仲間が全国から参列した【8月19日 成田市】)

(写真 農地法裁判一審判決日にのぞむ反対同盟のデモ行進【13年7月29日 千葉市】)


 8月9日、三里塚芝山連合空港反対同盟の北原鉱治事務局長が逝去された。1966年反対同盟結成当初から反対同盟事務局長の重責を担い、51年におよぶ三里塚闘争を指導して95年の生涯を全うされた。私たち三里塚現闘は北原さんの逝去を悼むとともに、氏が生涯をかけてつらぬいた三里塚闘争勝利の執念を受け継いで、反対同盟とともに勝利するまで闘いぬくことを霊前に誓う。
 68年2月に開設されたわが三里塚現闘は、そのすべてを北原事務局長とともに闘ってきた。北原さんから受けた恩義は数限りない。学生たちが訪問すると、先立たれたお連れ合いのきのさんとふたりして「ご飯たべていきな」といつも気さくに声をかけていただいた。人情に厚く浪花節的性格は終生変わらなかった。

痛苦な戦争体験

 北原さんは「三里塚の闘いは代償を求めない闘いだ」と肝に銘じ、不屈・非妥協を誠実に実践された。その根底にあったものは痛苦な戦争体験だった。羽田空港がベトナム戦争の傷病兵輸送のチャーター機で満杯であることを見て、「軍事空港反対」のスローガンを確立し「反戦・反核の砦=三里塚闘争」を使命として闘いぬかれた。
 また、77年ジェツト燃料貨車輸送阻止闘争に立った動労千葉のストライキ支援に、北原さんは先頭に立った。動労本部カクマルの敵対を粉砕し、「反対同盟と動労千葉は車の両輪」として動労千葉の分離独立後も一貫して労農連帯の発展に尽力された。
 北原さんと反対同盟にとって最大の試練は、83年3・8分裂にいたる話し合い攻撃との闘いだった。78年1期開港後、青行隊・島寛征らの対政府秘密交渉、82年石橋副委員長の話し合い脱落、成田用水攻撃、一坪再共有化を口実にした「北原解任」クーデター策動。これらは反対同盟の「空港絶対反対」「農地死守、実力闘争」「一切の話し合い拒否」をゆがめ、反対同盟を総条件派化する日帝・権力のどす黒い陰謀だった。北原さんは仁王立ちして対決し、故萩原進さんらと共にこの基本原則を守りぬいた。
 さらに動労千葉との労農連帯の上に、韓国民主労総との交流が年を重ねるごとに発展する中で、北原さんは誰よりも国際連帯の熱い思いを語られていた。そして、2015年の交流会が公の場での最後の姿となった。
 三里塚闘争51年の闘いは、北原さんの生き方そのものの中に示されている。北原さんの強い信念と指導力なしには三里塚闘争の発展はなかった。政府国家権力の全体重をかけた国策=成田空港建設に対峙して、すべての責任を引き受けて三里塚闘争の正義を貫いた。
 「権力は『たかが一握りの百姓』がどうしてつぶせないんだと頭をひねることしきりです。(中略)しかし、じつは『一握り』ではないわけです。私たちの背後には、何千何万という三里塚に心をよせる人々の血のにじむような努力と思いが積み重なっています。これが年月と共に巨大な壁となり、権力をよせつけない力を生み出しているのです」(『大地の乱 成田闘争』)
 この言葉に表される北原さんの勝利への揺るぎない確信と、90歳を過ぎてなおマイクを握り、凛(りん)として檄を飛ばす姿が、今日までどれほど反対同盟の支えとなったことか。

新滑走路阻止へ

 近年、第3滑走路計画が表面化してからは、毎月の周辺一斉行動で宣伝カーでの辻立ち演説を欠かさず闘いぬいて、本当に魂の燃え尽きるまで闘争を全うされた。
 三里塚闘争はいま、NAA(成田空港会社)による市東さんの農地取り上げ策動に対して、最高裁判決が出ても強制執行をさせない裁判闘争の前進を勝ちとり、強制執行阻止の陣形を拡大してNAAを追いつめている。周辺一斉行動を通して周辺住民と固く結びつき、第3滑走路阻止の壮大な闘いが胎動している。
 北原さんの遺志を引き継いで、さらに「新たな三里塚闘争」に挑めることを心から誇りに思う。誰よりも強く権力への敵愾心(てきがいしん)をもち、誰よりも闘う青年学生を愛した北原さん、これからもあの「北原節」で容赦なく私たちを叱咤激励して下さい。