週刊『三里塚』
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大地と共に 三里塚現闘員が語る 動労千葉ジェット闘争 ストで貨車輸送を阻止 不抜の労農連帯を築く

週刊『三里塚』02頁(0998号02面01)(2018/08/27)


大地と共に
 三里塚現闘員が語る
 動労千葉ジェット闘争
 ストで貨車輸送を阻止
 不抜の労農連帯を築く

(写真 3・30を開港粉砕を掲げて闘われた動労千葉スト支援総決起集会【78年3月1日 佐倉】)

(写真 動労千葉は労農連帯・反戦を呼びかけるスローガン列車を走らせた)

(写真 構内に配備された機動隊を弾劾する動労千葉組合員【81年2月】)

78年開港巡る攻防の中で

 1976年12月に発足した福田内閣は「内政の目玉」として成田開港を打ち上げ、77年の年頭に大号令を発した。かくして78年春開港をめぐる大攻防が闘われた。そのなかで特筆すべきはジェット燃料貨車輸送阻止闘争をとおして動労千葉と反対同盟農民との労農連帯の偉大な発展を築いたことである。
 この労農連帯の絆こそが現在まで半世紀を超えてつづく三里塚闘争の最大の核心を成しているものである。
 成田空港へのジェット燃料輸送パイプライン計画は、千葉市住民らの反対で暗礁に乗り上げた。
代替手段として千葉港からと茨城県の鹿島港からの2ルートの鉄道輸送計画が立てられた。しかし、沿線自治体で反対決議が続出し、住民の粘り強い反対運動が闘われていた。
 貨車輸送を直接担わされる動労千葉地本(当時)は、76年12月17日に、動労中央委員会に「ジェット燃料貨車輸送阻止闘争の特別決議」を提案し決議をかちとった。動労全体の闘争方針として確立させたことで千葉地本は反対闘争を本格的に強めた。

強力順法闘争で300本運休

 77年11月25日、福田内閣は成田空港を翌年3月30日に開港すると発表。これを受けて国鉄当局は12月2日、ジェット燃料貨車輸送計画を動労千葉地本に提示した。
 千葉地本闘争委員会はただちに「闘争突入宣言」を発し、1400人組合員の総力を挙げて翌78年3月までの「百日間闘争」に決起した。
 第1波闘争は12月3日から5日までの強力順法闘争。総武緩行線だけで300本を超える運休を出し、終日「無ダイヤ状態」を強制し、その後も29日まで闘われた。「ジェット燃料貨車輸送阻止!」と大書されたスローガン列車が首都圏を縦貫、千葉県下を駆けめぐった。
 反対同盟は連日応援に駆けつけた。支援共闘の労働者学生とともに千葉駅、津田沼駅など首都圏ターミナル各駅で激励行動を展開し、津田沼駅では3日間で33万円のカンパ(全体では百万円を超える)が寄せられた。
 第2波は1月10日、佐倉、成田両支部を拠点に12時間スト。第3波は2月14日から。そして3月1日には24時間ストが決行された。
 追いつめられた国鉄当局は、足りない要員と機関車を全国からかき集めた。機関士出身の助役にハンドルを握らせ、輸送業務を担わせた。動労本部カクマルがこれに率先協力し闘争破壊を画策した。
 一方、三里塚現地では3・30開港阻止をめざして闘いは白熱化していた。2月6〜7日、極寒の空の下で横堀要塞屋上の鉄塔撤去攻撃との攻防を闘い、3月25日に横堀要塞屋上に再度鉄塔を建てて決戦の口火をきった。翌26日全国集会と呼応して管制塔占拠闘争がうちぬかれた。福田内閣の「3・30開港」は完全に粉砕され、政府・空港公団は改めて5月20日に出直し開港を設定する一方、成田治安法の制定など、三里塚闘争に対する弾圧体制をいちだんと強めた。
 ここで千葉地本指導部は重大な決断を行った。4月6日千葉地本臨時大会での「拒否から阻止へ」の戦術転換である。「拒否しているだけでは助役機関士によって輸送されている現実を止めることはできない。さらに職場を明け渡すことで職場生産点を職制に蹂躙(じゅうりん)されていいのか。だからハンドルを握って自ら阻止する。ストライキで阻止する方針が労働者としての真っ当なやり方だ」(中野洋書記長=当時)と。
 これに対して成田支部など当該の職場から反発の声があがり、激しい議論を呼んだ。指導部は何度も現場に足を運び納得するまで議論を重ねた。また反対同盟の一部の青年行動隊(後に脱落派に転落する部分)とも対立が生じたが、反対同盟戸村一作委員長は「動労千葉は鉄路を武器に闘う。農民は農地を武器に闘う」と労農連帯闘争の神髄を説いた。

労農連帯貫き分離・独立

 78年7月の動労津山大会で動労本部を牛耳るカクマルは「三里塚反対同盟と一線を画す」と絶縁宣言を決定し、これに反対した動労千葉の代議員・傍聴者に対し殴る蹴るの暴行をくわえた。
 11月15日には、動労中央委員会でカクマル松崎一派が千葉地本への査問委員会設置を強行しようとしたことに対し、反対同盟は戸村委員長、北原鉱治事務局長を先頭に30人以上で東京の専売会館におしかけ、中央本部に対する激しい抗議行動を闘った。
 「統制処分」の脅しに屈することなく、千葉地本は組合員全員の団結を固め、ついに79年3月30日、国鉄千葉動力車労働組合(動労千葉)として、動労中央からの分離・独立を果たした。カクマル松崎一派の暴力と抑圧に耐えに耐えてきた組合員にとって、血を流してかちとった解放であり、身体を張って貫いた労農連帯であった。
 筆者はこの過程を動労千葉・関川宰委員長の専属ドライバーとして防衛の任務につき行動を共にしたことを、昨日のことのように鮮明に記憶している。
 さらに81年3月、パイプラインの完成の遅れで貨車輸送の延長攻撃がかけられたことに対し、動労千葉は全乗務員による全線ストを打ち抜いた。1390本の列車が完全ストップした。
 この闘いで動労千葉は新たに4人の解雇者を出し、ジェット闘争過程を通じて5人の解雇を含む大量の処分攻撃を受けた。しかしこの厳しい闘いをやりぬき不抜の労農連帯を築き上げたことが、後に国鉄分割・民営化絶対反対を闘う組合員の階級的な鉄の団結を築き上げる土台となったのだ。
(太田研作)