週刊『三里塚』
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大地と共に 三里塚現闘員が語る 成田用水攻撃(下) 機動隊を撃破し放水車占拠 「絶対反対」貫き今日の礎に

週刊『三里塚』02頁(1006号02面01)(2018/12/24)


大地と共に
 三里塚現闘員が語る
 成田用水攻撃(下)
 機動隊を撃破し放水車占拠
 「絶対反対」貫き今日の礎に

(写真 機動隊1個中隊を撃破し放水車を実力占拠した【1985年7月21日 芝山町菱田】)

 成田用水闘争は、反対同盟だけでなく我が現闘と中核派もうち鍛えていった。用水推進派は成田用水受け入れの欺まんを押し隠して自らを正当化するために、支援、とりわけ革共同・中核派を「外部の介入者」として排除しようとし、脱落派はこれに加担した。
 3・8分裂直後、菱田の各区には「中核派立ち入り禁止」と赤ペンキで大書された看板が立った。立ち入り禁止と言われても、反対同盟はそれぞれ自分の部落で孤軍奮闘している、「はい、そうですか」と引き下がるわけにはいかない。用水推進派の親玉を断罪し、国や空港公団の悪らつなねらいを暴くビラを、援農の合間を縫って菱田全戸にまき続けた。
 用水推進派や脱落派に対するビラまきはそれ自体が体を張った闘いだった。ビラまきに行って農具の柄で腕を折られた仲間もいた。私は、代執行決戦で機動隊を痛めつけ有名になった黄金(糞尿)爆弾をぶつけられ、「相手が違うだろう」と憤慨した。

菱田決戦行動隊

 こうした攻撃を許さず、機動隊による暴力支配を打ち破るために、菱田決戦行動隊(菱行)が結成され、全国から全学連の学生と若き労働者が派遣された。菱行は、「重機の前に身を投げ出す」決意で連日、菱田の中をデモ行進し、機動隊と対峙して闘った。
 そして、反対同盟が成田用水攻撃粉砕の現地集会を積み重ねる中、中核派部隊はデモ行進を実力デモに飛躍させ、肉弾で機動隊の壁に挑み始める。それを何度か積み重ねた末に、1985年7月21日、菱田現地闘争でついに機動隊の放水車を占拠するという快挙を勝ち取った。
 当時は、成田用水第2期工事として、辺田・中郷部落への着工が機動隊暴力のもとで策動されていた。この機動隊の壁を打ち破るべく、7・21闘争では、スクラムデモで機動隊の壁に突撃し、撃破した。指揮系統がバラバラになり、わが部隊に蹴散らされる機動隊。放水車が白ヘルメットに取り囲まれ、孤立状態になる。全学連戦士が放水車によじ登り、さらに金網と窓を蹴破って中に突入し、実力占拠したのだ。
 この闘いは、翌月の8・25菱田闘争に引き継がれ、「空港突入・占拠・解体」を掲げた三里塚交差点での10・20機動隊せん滅戦へと登りつめていくことになるのである。10・20闘争は、革命軍の戦闘とともに権力万能神話(国家権力と闘っても勝てない)を打ち破り、「戦後政治の総決算」を掲げた中曽根政権と真っ向から激突した闘いとして歴史に刻まれる。それは、反対同盟との連帯にかけて成田用水決戦で鍛え上げた、国家権力機動隊の暴力をうち破る実力闘争の思想と実践の上に実現することができたと言って過言ではない。

鈴木さんの闘魂

 以上、3回にわたって用水攻撃との闘いを概括してきた。最後に、今にして思うことを一言つけ加え筆を置きたい。
 成田用水決戦は、反対同盟の団結を強固にしたが、同時に絶対反対の質を鋭く問うものでもあったと思っている。
 菱田反対同盟は、最後まで成田用水反対を貫き、成田用水を拒否して闘った。しかし、その後年月を経て、ある者は斃(たお)れ、ある者は結局闘いを裏切り、2000年代に入ると、菱田地区の反対同盟は鈴木幸司さん・謙太郎さん1軒という状況になる。
 だが、ひるがえってみると、用水反対を貫いた反対同盟の中でも、「成田用水工事差止訴訟」を控訴審まで闘い、あくまでも反対の意思と闘いの正義を示し続けたのは鈴木さんだけだった。
 当時私は、「工事されているのに今さら裁判を続けても……」と内心思ったのだが、既成事実を積み上げられても筋を貫き、自らの信念と生き方を貫いた鈴木幸司さんの姿勢こそが、今日の反対同盟の礎(いしずえ)になっているのではないか。「どんな判決だろうとこの地で農業を続ける」という市東さんの決意に通じるものがあると思う次第である。
 成田用水は、全面的な反対同盟破壊攻撃であり非常に厳しい攻防であったが、政府・空港公団は、結局反対同盟をつぶすことができなかった。この試練を団結して乗り越えたからこそ、その後の攻撃にも屈することなく、52年闘い続けることができたのだと確信している。
白川賢治