2008年12月15日

元全軍労牧港支部、全軍労反戦 故 太田隆一さん “死すべきは基地だ” 革共同沖縄県委員会

週刊『前進』06頁(2372号6面2)(2008/12/15)

元全軍労牧港支部、全軍労反戦
 故 太田隆一さんの労働者魂
 “死すべきは基地だ”と提唱
 一人の決起が牧青に受け継がれた
 革共同沖縄県委員会

 基地労働者の闘いの先駆者であり、「労働者は死んではならない。死すべきは基地だ!」と提唱した太田隆一さん(元全軍労牧港支部執行委員、全軍労反戦)が、11月3日午後3時、闘病中の病院で逝去された。享年70歳であった。
 太田さんは、今年6月ごろから脳梗塞(こうそく)で入院していた。10年前に胃ガンを患って入院して以降、何度も元気になって闘いの現場に戻ってきていた。11月労働者集会の直前に見舞いに行った時、「11・2集会に行ってきます。帰ってきたら報告に伺いますので期待して待っていてください」と言うと、言葉は発せなかったものの太田さんは、ウンウンとうなずいて、固く固く手を握りしめてくれた。「期待している。頑張ってきてくれ」と言っているのがはっきりとわかった。
 しかし、11月集会の翌日、報告を聞く前に息を引き取った。直接報告できなかったことが残念でたまらないが、太田さんは間違いなく11月集会がこれまでの地平を超える成功と圧倒的な勝利的地平を開き、大成功したことを確信していたに違いない。それを確認して息を引き取ったのではないかと思う。

 第1章 70年沖縄闘争の震源地

 太田さんは、琉球大学Ⅱ部を卒業してまもなく、1967年11月から米軍基地に就職する。そして直ちに組合活動に従事し、全軍労(全沖縄軍労働組合)牧港支部執行委員になる。当時、米軍政下で、激動の70年沖縄闘争の最大の震源地として全軍労−基地労働者の闘いがあった。
 69年以降、基地労働者に激しく襲いかかる数千人規模の大量解雇攻撃に対して、全軍労は2波(1波48時間、2波5日間)のストライキで闘いぬくが、全軍労指導部は徐々に闘いを収束させる方向に動いていった。
 その最中の70年3月11日、突如として太田さんに対して解雇が強行された。米軍側の解雇理由は「勤務成績が悪い」だったが、本当の理由は太田さんの熱烈な組合活動への報復処分であった。太田さんの組合活動に対して、米軍は69年の1年間だけで計33日間の停職処分を加えてきていた。
 だが当時の全軍労役員は「勤務成績が悪いのは弁護のしようがない」と言って、この解雇攻撃になんら闘おうとはしなかった。しかし太田さんは、「この不当解雇は基地労働者に等しくかけられた攻撃である。また一人の仲間も救えないような闘いなら意味がない」として、一人でも闘いぬく決意を固めていく。

 第2章 一解雇者として立つ

 自らの闘いを「解雇者が解雇撤回闘争の先頭に立たないことの限界」を突破するものとして、一解雇者としての太田隆一さんは断固とした解雇撤回闘争に立った。そして約20日間にわたるゲート前抗議闘争・強行就労闘争が米軍権力と激突しながら展開される。
 その時、太田さんが直接書いた「『解雇者』としてのアピール」というビラがある。(別掲)
 「労働者は死んではならない。死すべきは基地だ!」という言葉は、その後、基地労働者の闘いの中で何度も何度も繰り返し使われた基地労働者の闘いの合言葉であり、綱領であり、スローガンとも言うべきものになった。その言葉は直接には、当時解雇された基地労働者の女性が自殺をはかったことに対する、太田さんの必死の叫びでもあった。
 太田さんは言う。「闘わずして死ぬということは、多くの労働者に対する裏切りでもあると思う。だから、僕は絶対に死んではならないと、そういう立場をとっている。またそれぐらい簡単に死ねるものなら、米軍と闘って死ぬならもっと皆のためになるし」と。ものすごい労働者魂だ。この精神こそが太田さんの真骨頂でもあった。
 太田さんのこの訴えと闘いは、直ちに多くの基地労働者の魂をとらえ、基地内の職場へと受け継がれ、「組合は何をしているのだ」という、全軍労指導部に対する批判を生み出していく。そしてこの過程で「太田さんを守る会」が結成される。
 太田さんの「一人でも闘う」という、闘うものにとっての基本的な姿勢は、当時の牧港支部青年部(牧青=まきせい)に結集する青年労働者にしっかりと受け継がれ、2回にわたるゲート前抗議闘争を権力の弾圧に抗して闘いぬき、「第3波は俺たち下部労働者の手でやるのだ」という決意を生むまでに結実していった。3月16日には30分足らずで150㌦(当時1㌦=360円で5万4000円)のカンパが集まった!
 こうした多くの労働者・組合員の太田さんへの支持、支援の動きは牧港支部を大きく揺さぶり、ついに執行委員会で太田さん不当解雇問題を取り上げる決定がなされたのである。(3月28日)
 たった一人で闘い出した太田さんの不退転の決意が、牧港支部総体の第3波スト貫徹の固い決意として受け継がれていったのだ。(1970年発行の三一新書『全軍労反戦派』)

 第3章 動労千葉労働運動で!

 基地労働者の闘いは、今、新たな大量解雇攻撃に対して、70年闘争・全軍労闘争のような闘いに立ち上がろうとしている。昨年は全駐労がついに2波のストライキを打ち抜いた。そしてその中で多くの青年労働者活動家が生まれてきている。今こそ太田さんの闘い・労働者魂が本当に継承されていかなければならない時に来ている。
 太田さんは近年は、腰痛などの持病を抱えながらも、本島北部での養蜂業や運転代行など、いろんな仕事に就きながら、沖縄でのほとんどの闘争や集会に参加してきた。元気な時には東京での11月労働者集会にも参加し、三里塚闘争にも決起していった。太田さんの闘う精神は、二重対峙・対カクマル戦も含めて終生変わることはなかった。
 太田さんは、普段は温和で人なつっこく笑顔を絶やさない人だが、しかし労働運動や闘争を語る時は熱くなり、特に今の連合下の労働組合に対しては激しい怒りを燃やし、「労働者には闘う意志はあるのだ。問題は指導部だ」と常々言っていた。
 だからこそ、動労千葉労働運動と11月労働者集会に大きな期待を寄せていたのだ。そして、何よりも常に革共同への強力な支持者として、党友として生涯を全うされた。
 われわれは太田さんに誓います。
 太田隆一同志! われわれは太田さんの労働者魂・闘う精神をしっかりと引き継ぎ、労働運動の力で沖縄闘争の勝利と世界革命を必ずややり遂げてみせます。見守っていてください。

 第4章 「解雇者」としてのアピール

 第1節 全軍労牧港支部執行委員・太田隆一

 死んではならない。死すべきは基地だ!
 基地で働く仲間の皆さん!
 軍権力により不当解雇された仲間が死の道を選ばんとしたことが、昨日(3月18日)の報道で明らかにされた。
 このような残酷な現実を直視し、打開する闘いとして、われわれ反戦派労働者の運動は展開されねばならない。(中略)
 大量首切り、労働強化は今後も大いに予想されるが、かかる人間無視の政策を続けようとする支配者(日米帝国主義)に対し、徹底的に闘い抜かない限り、われわれ労働者の生きる道はない。
 基地で働く仲間の皆さん!
 われわれはいったいいつまで屈辱にたえるべきでしょうか。長期にわたり忍耐を強いられ、行きつく所は死の宣告……。「なんと不可解な現実か」などと悲観せず、この問題を冷静に受けとめ、相手に向かって鋭く対決しないかぎり、われわれの道は開けてこない。
 基地労働者にとって、いまほど総力の結集が要求されたことはない。現在、基地労働者に必要なのは、この総力の結集なのだ。その上に立って、権力と対決するならば、われわれの闘いは必ず展望が開けるのだ。われわれは一人の人間の死の決意をムダにしてはならない。
 死すべきは基地なのだ。共に闘おうではないか。
 (1970年3月19日)