2009年4月 6日

西郡住宅闘争を徹底推進し部落解放・日帝打倒へ前進を

週刊『前進』08頁(2386号7面1)(2009/04/06)

西郡住宅闘争を徹底推進し部落解放・日帝打倒へ前進を
 旧与田派の闘争破壊粉砕しよう

 世界大恐慌は帝国主義の末期的危機の爆発であり、プロレタリア世界革命を闘いとる時代への突入である。全世界で労働者階級が「生きさせろ!」の闘いに立ち上がっている。今こそ階級的労働運動を全面的に発展させよう。日帝権力に屈服し、西郡闘争と革共同の破壊策動にのめり込む旧与田派残党分子を一掃し、プロレタリア革命を闘いとる部落解放闘争の発展をかちとろう。

 第1章 部落解放の新地平切り開く西郡闘争

 この階級的な大激動の時代に、大阪・西郡住宅闘争は部落解放闘争の新たな革命的発展を切り開いている。それは同時に、住宅をめぐる労働者階級と日帝権力・支配階級との激突としての意義を持つものである。
 部落解放同盟全国連合会西郡支部は、「部落民は労働者階級の一員である」という階級的路線的確信を決定的な力として、部落解放闘争の歴史を引き継ぎ、のりこえ、発展させているのである。
 森本政二さんを住み慣れた住居・店舗から追い出そうとした八尾市当局に対して、2・26強制執行阻止闘争がたたきつけられた。西郡闘争は、今ひとつ新たな発展段階を切り開いた。
 帝国主義の危機の中で日帝権力は、国鉄分割・民営化を突破口に、労働者階級に対する搾取と労組破壊、社会保障切り捨てなどの攻撃を決定的に強めてきた。1990年代後半以降、日帝は新自由主義政策にもとづく民営化攻撃の一環として公営住宅制度の抜本的大改悪に踏み切り、公営住宅の民営化、応能応益家賃制度への転換を強行した。これは正規から非正規へ雇用形態の全面的転換を打ち出した95年の日経連プロジェクト報告と軌を一にする攻撃であり、戦後労働者支配の大転換である。それはまた民営化を核心とする道州制の先取りでもある。
 応能応益家賃と闘う西郡の住宅闘争は、部落解放闘争の闘いとってきた地平を実力で守りぬくとともに、6千万労働者階級総体にかけられた民営化・新自由主義攻撃と真正面から対決するものである。西郡の部落大衆は労働者階級の最先頭で闘う気概と誇りをもって立ち上がっている。それがより広範な労働者階級の団結と決起をつくり出しているのだ。
 2・26強制執行に対して、地元の八尾北医療センター労組は同日、「強制執行絶対反対、八尾北医療センター民営化反対」「道州制攻撃粉砕」を掲げてストライキに決起しともに闘った。このストライキは、西郡の部落大衆の決起と並ぶ、きわめて階級的意義のある実力闘争として打ちぬかれた。
 闘えば闘うほど、怒りとエネルギーがわいてきて、労働者の団結が広がるような闘いを西郡は実現している。断固この道を進もう。
 この西郡の闘いと八尾北ストに大打撃を受けているのが、部落解放同盟全国連合会に巣くう旧与田派残党だ。

 第1節 旧与田派が許し難い中傷

 日帝権力への屈服・転向を本質として革共同から脱落した彼らは、全国連の部落大衆から「西郡のように闘うべきだ」「西郡と一緒に闘いたい」という声が出ていることに衝撃を受け、その鎮圧に必死になっている。
 そのために、全国連のホームページで、2・26闘争を闘った森本さんや西郡の部落大衆に対して、許すことのできない誹謗(ひぼう)中傷を加えている。そして、「逮捕者も出るかと思っていたが、拍子抜けした」と、実に反動的な心情を吐露している。彼らは警察が西郡に襲いかかり、闘いをつぶすことに期待をかけていたのだ。
 また、八尾北労組のストライキに憎悪をむき出しにし、権力や資本家階級の手先となって「スト撲滅」論を振りまいている。「患者を犠牲にしてまでなぜやるのか」「もっと別のやり方があるはず」と非難し、「ストライキは許せない、つぶせ」と叫んでいるのだ。
 同和対策事業の全廃攻撃の中で、権力にすがって延命しようとしている旧与田派残党分子は、西郡の部落大衆が権力・資本と激しく闘っていることに恐怖し憎悪を募らせ、闘いをつぶすことに全力を挙げているのだ。それは、西郡闘争が続く限り、彼らの裏切り、権力への屈服は誰にも明らかであり、その正体を隠せないからだ。そして、西郡闘争をつぶすために、彼らは西郡とともに闘う革共同を「差別者」に仕立て上げ、西郡闘争への襲撃を正当化しようとしているのである。本当に、どこまで腐り切っているのか! 怒りを抑えることができない。

 第2章 全国連大会議案を怒りこめ批判する

 「部落解放新聞」3月10日号に解同全国連第18回大会(4月に開催予定)の議案が掲載されている。その内容は、旧与田派残党=権力投降分子が全国連を私物化し引き回していること、さらに、彼らが「革共同破壊」を唯一の存在目的とする集団に転落していることを示している。

 第1節 “反革共同”の反革命に転落

 旧与田派残党は、「革共同糾弾」を全国連の運動方針として押しつけることで、部落大衆のプロレタリア革命への決起を圧殺し、帝国主義への転向と屈服の道に引きずり込もうとしている。怒りをもって「革共同破壊」の反革命的運動路線と対決し、粉々に粉砕しなければならない。
 第一に、腹わたが煮えくりかえることは、旧与田派残党分子が、06年3月の「党の革命」によって打倒された与田の恐るべき組織的・金銭的腐敗、それと一体の対権力防衛闘争での投降・屈服について、(与田の最も身近にいた者たちでありながら)自己切開的な総括を一切拒否し、開き直っていることである。
 さらにいまひとつ決定的なことは、中田書記長の「略式起訴受け入れ—完黙・非転向の思想の崩壊」について、完全に容認し開き直っていることである。
 それどころか、旧与田派残党は、与田と中田書記長の問題を厳しく原則的に批判して闘う革共同を憎悪し、「広島差別事件」をデッチあげて「革共同は差別者だ」と攻撃しているのである。
 事態の経緯を知る者にはまったく明らかだが、彼らが叫ぶ「革共同による広島差別事件」なるものは、前記の総括も自己批判も拒否し、開き直るためにデッチあげたものでしかない。彼らは学生戦線における、プロレタリア革命運動と部落解放闘争の路線をめぐる真剣な討議を、相当時間が経過してから「広島差別事件」なるものにデッチあげ、「革共同糾弾」なる運動を始めたのである。同志からの批判、特に中田書記長の略式起訴受け入れ問題での批判を「中田書記長打倒の陰謀だ」「部落民への差別襲撃だ」と言って、革共同と全国連の間に分断を持ち込み、デマで部落大衆をだまし、革共同への敵対をあおってきたのだ。これこそ部落解放闘争に対する最も悪質な利用主義、破壊行為である。
 だが、デマで労働者階級を組織し動員することなど絶対にできない。実際この1年半、全国連の部落大衆を「差別なき糾弾闘争」に動員しようとした策動は完全に失敗した。それでも、彼らは今でもこれを全国連の運動の基軸に据えるしかない。「権力の軍門に下った革共同を歴史のくずかごに捨て去れ」などと言いなして、革共同への攻撃を公言している。
 議案では「路線的位置づけや、これまでの運動との整合性などは後回しにして」「これまでの価値観、考え方を思い切って捨てるべき」と異様に強調している。これは旧与田派残党分子が帝国主義と闘うポーズすらかなぐり捨て、権力に屈服し投降し、帝国主義者のおこぼれで生きていこうということだ。それは、「自民党や解同(本部派)にも呼びかけて、ともに革共同糾弾をやっていく」(08年1月の全国連拡大中央委、小森糾弾闘争本部長発言)という帝国主義擁護、反革命の路線に「思い切って」かじを切るということだ。
 労働者階級・被抑圧人民にとって、生きるか死ぬかが問われる大恐慌と戦争、革命の時代に、中間的な立場はない。旧与田派残党は、帝国主義に完全に屈服して生き延びようとしているのだ。その立場から「スト絶滅」「革命反対」「革共同つぶせ」と叫んでいるのだ。

 第3章 権力への投降深め「スト撲滅」を叫ぶ

 第二に、今日の大恐慌突入情勢について、「どこかの軽薄な党派のように、即『革命情勢』と手放しで喜ぶ感性とは、私たちは無縁」「今は恐るべき戦争と差別の時代だ」と暗黒一色に描き上げている。労働者が派遣切りや解雇・失業、賃下げ攻撃に対して激しい怒りを爆発させ、闘っていることへの共感など、どこにもない。
 全世界で労働者階級・被抑圧人民が帝国主義の支配に怒りを爆発させて、暴動・ゼネスト・街頭デモ・職場占拠などの闘いに立ち上がっていることなど、まったく問題意識になく、これが日本のプロレタリア革命の援軍であり、部落解放の援軍だというとらえ方が、まったくできない。それどころか、この怒りが革命に結合することに恐怖して、「今は革命情勢ではない」と必死に叫びたて、革命をめざして闘う革共同の打倒を呼びかけている。 そして部落大衆に向かって、「労働者は差別者だ」と絶望と不信をあおり、労働者と部落民の階級的団結を分断しているのである。

 第1節 階級的労働運動への憎悪

 第三に、彼らがストライキについて触れるのは、「労働者の闘いが、部落民や在日アジア人民の排除を要求するストライキのような形で、帝国主義の手先に組織されていくことも起こる」と言っている部分だけである。ストライキが、部落大衆に敵対する、否定すべきものとしてしか語られない。いや、ここにあるのは「ストライキ撲滅」論だ。そして、ストライキで闘う動労千葉に対する憎悪と敵対だ。
 ストライキは直接的に資本に打撃を与えるだけではない。ストライキをとおして労働者自身が、自らが社会的生産の主人公であることを自覚し、階級的団結を拡大して、資本主義を根幹からひっくり返す武器となっていくものである。だから、資本家階級は「ストライキには革命のヒドラ(怪物)が宿っている」と恐れおののくのだ。旧与田派は、こうしたストライキの革命的意義を一言も語らず、否定的なものとして言及するだけである。権力への投降・屈服を深める彼らは、帝国主義者と同じ心情でストライキの爆発に恐怖し、「スト撲滅」論を叫んでいるのだ。それが八尾北労組のストライキへの敵対・憎悪として現れているのだ。

 第2節 賃金制度廃止こそ解放の道

 第四に、差別・抑圧との闘いを言いながら、その根源である資本と賃労働の本質的階級関係、搾取の問題、賃金奴隷の鎖について語らない。資本への怒りがなく、資本と非和解で闘う思想が根幹から欠けている。
 そして、「差別の激増は、社会の矛盾、不安の広がりが背景にあることは明らかだが、それ以上に問題なのは、糾弾闘争がなくなったこと」であるとして、「私たちのただひとつの回答は、差別糾弾闘争の復権以外にない」と言っている。
 旧与田派は、激しい首切り・賃下げ攻撃を強行している日本帝国主義・資本家階級への怒りをそらし、「社会の矛盾」「不安の広がり」というあいまいなものにし、プロレタリア革命闘争に対立させて、差別糾弾闘争の唯一性を強調している。
 しかも権力に屈服・投降している旧与田派残党の「差別糾弾闘争」とは、権力とまったく闘わないものだ。逆に、闘う労働者や革共同を「部落差別だ」と言って攻撃する、とんでもなく転倒した「差別糾弾闘争」である。
 全国連西郡支部の闘いこそ、差別行政を行う日帝権力・八尾市当局・資本家階級に対する徹底的な差別糾弾闘争であり、部落解放・日帝打倒につながる闘いなのだ。
 求められていることは、西郡のような闘いである。プロレタリア革命の勝利の中にこそ部落解放の道があることを確信し、労働運動と部落解放運動の合流・結合をとことんつくり出すことである。プロレタリア革命は部落大衆自身の切実な要求であり、叫びなのだ。
 「そこ(プロレタリア革命)では労働者の解放だけが問題になっているかのように見えるが、そうではなく、むしろ労働者の解放の中にこそ一般的人間的な解放が含まれているからである」「生産に対する労働者の関係の中に、人間的な全隷属状態が内包されており、すべての隷属関係は、この関係の単なる変形であり帰結であるにすぎない」(マルクス『経済学・哲学草稿』)
 このマルクス主義の原点に立ち返ってこそ、部落解放闘争の勝利の道筋も鮮明になるのである。
 部落民労働者は職場・生産点で、そして居住地域で団結を組織し、資本と権力に対する闘いの先頭に立とう。そのようなものとして、部落を闘いの砦としてうち固めよう。西郡闘争と狭山闘争を両軸として、階級的労働運動と固く結合した部落解放闘争を力強く発展させようではないか。解放共闘の旗のもと、無実の石川一雄さんと固く連帯し、狭山第3次再審闘争勝利へ、5・23狭山闘争に総決起しよう。