2009年7月 6日

「京都学連事件」と法大暴処法弾圧 学生への攻撃が時代に先行

週刊『前進』08頁(2398号7面4)(2009/07/06)

「京都学連事件」と法大暴処法弾圧
 学生への攻撃が時代に先行

 法大弾圧粉砕の全国声明賛同署名運動が始まった。闘う8人の学生に対する戦前からの悪法=暴力行為等処罰法(暴処法)を適用した大弾圧とそれへの反撃は、日本の階級闘争の最先端をなす攻防であり、戦前の京都学連事件に比すべき歴史的情勢である。
 1917年のロシア革命を受け、19年から20年にかけて日本の労働運動は一大高揚期を迎え、大争議が続発した。特に八幡製鉄所においては2万人を超える労働者が決起し、溶鉱炉の火を止めたほどだった。さらに25年5月には日本労働組合評議会が設立され、浜松の日本楽器争議を指導するなど、労働運動はますます高揚しつつあった。これに呼応して学生運動も発展し、全国組織の学生社会科学連合会(学連)が形成され、軍事教練反対闘争などを闘った。
 この事態に革命の現実性を見て恐怖した日帝支配階級は25年に、一方で普通選挙制度を導入して運動の体制内的取り込みを図ると同時に、他方で共産主義と無政府主義への弾圧を意図した治安維持法を制定した。さらに26年には、労働運動・農民運動への弾圧を意図して争議禁止条項を持つ治安警察法第17条の廃止と引き替えに、暴処法を制定した。
 この治安維持法が国内で最初に適用されたのが京都学連事件だった。(なお同法は施行直後に天皇の「勅令」によって朝鮮、台湾など当時の植民地にも施行され、朝鮮では京都学連事件直前の25年11月に66人が検挙された第1次朝鮮共産党事件が起こっている)
 京都学連事件は連続した2度にわたる弾圧からなっている。第1次弾圧は、25年12月1日、京都府警特高課が出版法容疑で令状もなしに、学連メンバーの京大生・同志社大生などの下宿・自宅・大学の寄宿舎などを捜索し、学生33人を検束、文書多数を押収した。
 しかし、京大寄宿舎で立会人なしの捜索を行うなどしたため、大学当局が抗議するなどマスコミも含めた世論の反撃が起こり、府知事が陳謝して7日には全員が釈放された。
 この失敗を取り戻すために、日帝・権力は東京の司法省が直接のりだし、司法次官、検事総長を始めとした全国の主席検事、特高課長が秘密会議をもって施行したばかりの治安維持法を適用して全国で一斉に弾圧を行うことにした。
 翌26年1月15日に東京検事局が直接指揮をし、京都を中心に各府県警察部特高課を動員して以後4カ月にわたって全国的に学生活動家の検挙を行った。検挙された学生のうち38人が治安維持法違反などで起訴され、35人が有罪になった。
 権力は第1次弾圧の失敗を総括し、9月まで半年以上も事件の新聞掲載を禁止した。解禁されるや、当時の新聞は権力の手先となって、すさまじい反共キャンペーンを張った。
 京都学連事件弾圧のただ中の26年4月に成立・施行されたのが暴処法だ。権力は同法施行のわずか1カ月後の5月に日本楽器争議に適用し、同年だけで労働運動に34件189人、農民運動に18件192人に適用した。
 まさに、学生運動弾圧と労働運動弾圧は一体だ。そしてその2年後の28年3月15日に、日本共産党への治安維持法を使った全国一斉検挙が強行された。
 京都学連事件で検挙された学生たちは果敢に闘い続け、革命運動に身を投じるものも多数生まれた。その後、日本帝国主義は29年世界大恐慌の爆発の中で31年の「満州事変」を突破口にして、15年戦争=中国侵略戦争にのめり込み、第2次世界大戦に突き進んだ。
 大恐慌と戦争の渦巻く30年代の階級闘争に先駆けた攻防として京都学連事件と暴処法の成立・発動はあった。そしてそれは、今日の階級闘争に大きな教訓を与えている。
 暴処法弾圧と闘う国労5・27臨大闘争弾圧粉砕、国鉄1047名闘争と4大産別決戦、法大解放闘争の中にこそ、大恐慌下の日本労働者階級の勝利の道があるのだ。