●翻訳資料 星野解放のための妻の数十年の闘い

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月刊『国際労働運動』48頁(0450号04面01)(2014/02/01)


●翻訳資料

渋谷暴動のリーダー、星野解放のための妻の数十年の闘い
支持者たちは1971年の殺人事件の隠蔽された全証拠の開示と再審を求めている
ウィリアム・アンドリューズ 2013年11月18日 ジャパン・タイムズ
村上和幸 訳

(写真 《ジャパンタイムズに掲載された写真と絵解き》社会的焦点になっている裁判――9月、星野暁子【左から2人目】と支持者たちが徳島刑務所前で星野文昭の釈放を求めてデモした。1971年に東京であった暴動での警官殺害について、最高裁は上告を棄却し、1987年、星野は四国の徳島刑務所に移送された。【写真は星野再審全国連絡会提供】)
(写真 ジャパンタイムズ11月19日号の1面上部)
(写真 ジャパンタイムズ11月19日号10面)


渋谷暴動のリーダー、星野解放のための妻の数十年の闘い
支持者たちは1971年の殺人事件の隠蔽された全証拠の開示と再審を求めている
ウィリアム・アンドリューズ 2013年11月18日 ジャパン・タイムズ
村上和幸 訳

 ジャパン・タイムズが昨年11月19日号で星野闘争の記事を大きく掲載した。1面の題字下に「星野に正義を」と星野同志の写真入りで案内した上で、10面のほぼ全部を使って取り上げるという非常に大きな扱いだ。また、9・8徳島刑務所デモの大きな写真も掲載している。
 ジャパン・タイムズは、日本のさまざまな英字新聞の中でも海外で最も頻繁に引用されている、影響力のある新聞だ。アメリカで「テロリスト」とされた被告の弁護活動そのものを弾圧され獄中にあったリン・スチュアート弁護士の解放のために闘っているグループにも広く読まれた。(彼女は今年1月1日に釈放された)
 11月27日には、この記事を読んだ読者の投書が、ジャパン・タイムズに掲載された。

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 長年、国家の不正義と闘い続けてきたにもかかわらず、星野暁子には失望のかけらもなかった。彼女は59歳で、活発で明るい。彼女の闘いに新たに加わってくる者にも忍耐強く、やさしく接する。確かに忍耐は必要だ。彼女のキャンペーンは、数十年にも及んでいるのだから。夫、文昭は67歳で40年近く獄中にある。彼は無実を訴え続けていて、支持者たちも政治的な目的で有罪判決が下されたと確信している。
 星野文昭は、1971年11月14日のいわゆる渋谷暴動事件で機動隊員が死亡した件で1975年に逮捕された。11月14日、ラディカルな新左翼グループ、中核派は、ベトナム戦争への沖縄の米軍出撃基地としての使用と沖縄返還に反対して渋谷で大規模な闘争を行った。
 当時、星野は、群馬の彼の出身大学の学生運動や三里塚の成田空港反対闘争のベテラン活動家だった。彼は、代々木地域から渋谷に向かう約200人の学生と労働者のグループのリーダーの一人となった。警察機動隊は、彼らの通過を阻止しようとし、乱闘が発生した。その混乱の中で、警察官中村恒雄が殴打され、火に包まれ、翌日死亡した。
 1972年、渋谷事件に関与した6人が逮捕された。うち3人は未成年だった。警察によれば7人目の大坂正明が火炎ビンを投げて中村に火を付けたとされているが、現在まで逮捕されていない。5人の活動家が死亡事件について警察に供述し、彼らの自白が星野の殺人罪有罪判決の唯一の証拠となった。後に彼らはすべて法廷で供述を否定したのだが、日本の司法システムでは警察に対して行った自白と供述書が優先される。
 星野再審全国連絡会の東京にある質素な事務所で、星野暁子は、「文昭がデモのリーダーだったから、警察は何がなんでも責任をとらせようとしている。これが彼らの目的です」と語った。
 一審判決から5年後、1984年の高裁での裁判で彼女は初めて彼に会った。
 当時彼女は30歳、彼は38歳だった。「文昭は獄中9年目でした。私は友人に誘われて傍聴に行ったのです。最初の彼の印象は、非常に孤立した様子でした」
 被告席から星野が述べる考え方に彼女は心を動かされたという。
 「裁判の本人質問の中で、文昭は反戦活動家になった理由をこう話しました。『すべての人間が人間らしく生きられない限り、自分も人間らしく生きることはできない。私は人生をかけてすべての人間が人間らしく生きられる社会をつくるために自らの生を貫きたい』。この文昭の生き方にすごく感動しました」
 彼女は裁判を傍聴するために秋田から400㌔離れた東京まで毎月一回通うことになった。そして、星野との文通の開始を希望した。当時、彼は、彼女からの手紙の受け取りを許可されなかったので、弁護士が彼女のメッセージを読むことができるように彼の目の前に掲げた。
 裁判が終了した後は、刑務所での面会を申請するには、彼の婚約者となる以外にはないと思うようになった。
 「最初に面会したのは東京拘置所でした。私は、期待に胸をふくらませて拘置所に向かいましたが、面会はたったの15分でした。文昭は、私を思いやってくれ、とても優しかった。思った以上にいろんな話をすることができたことに驚きました。文昭と私は互いの話に夢中になっていました」
 そして、月一回の面会と文通が始まった。
 「結婚の申し込みは、私のほうからしたと思います」と言って暁子は笑った。
 「しかし、文昭は私の両親の承諾を得ることを望みました」
 そこで暁子は死ぬまで刑務所にいることになっている男との結婚を許すように、長い時間をかけて両親を説得していった。結婚は1986年だった。しかし1987年、上告が棄却され、星野は四国の徳島刑務所に移送された。東京から南に500㌔だ。
 「私は、結婚後すぐ秋田から東京に引っ越しました。文昭を支えるために近くにいたかったからです。私は、東京の拘置所と徳島の刑務所に通ってきたのです。〔刑が確定した時〕私は、文昭が東京へ移送されることを申請しましたが、無視されました。移送先の徳島は、通うのが大変なぐらい遠方でした」
 このカップルは一度も触れ合ったことがない。面会はすべて、看守が同席し、アクリルガラス越しに行われてきた。
 「プライバシーは存在しません。現在の彼の刑務所での級では、月に5通の手紙を書くことができ、3回面会できます。それで私は、徳島に3回面会に行っています」
 2000年に最高裁が星野の再審を棄却した後で、暁子は人工授精で星野の子をつくることを徳島刑務所に申請した。法務省はこの申請を却下した。
 この定期的な旅行のために暁子が払っている費用と苦労に加えて、文昭も被害を受けている。
 「夏の刑務所は本当に暑いのです。徳島では、今年40度を超す日もありました。房には扇風機もエアコンもありません。うちわがあるだけです。冬は、暖房がありません。刑務所の中で文昭はしもやけになっています」
 星野は、ゴキブリを踏んだ足を許可なく洗ったとして20日間懲罰房に入れられ、4カ月間独房に監禁されたと訴えている。この件は、アムネスティー・インタナショナルが取り上げ、日本の刑務所の調査を開始した。
 菅家利和とゴビンダ・プラサード・マイナリは、長期投獄の末ようやく無罪釈放された。この二つのケースもあって、99%の有罪率という日本の司法は、最近非常に評判が悪くなっている。コメンテーターたちは、日本の裁判所が、警察が強要することが多い自白に頼りすぎていると批判している。日本の人権人道担当国連大使、上田秀明は、ジュネーブでの国連拷問禁止委員会で日本の実績を擁護した彼の発言を他の委員から笑われたことに対して「シャラップ」と怒鳴った。この事件の後、最近になって彼は人権人道担当国連大使を辞任した。
 東京にあるテンプル大学の歴史学教授でジャパン・タイムズのコラムを書いているジェフ・キングストンは次のように言っている。「検察官と警察官は、もっともっと説明責任を問われねばなりません。彼らが持っている自由裁量権限は、悪用される危険があまりに大きいのです。この数年、検察、警察の権力乱用の報道が多々ありましたが、それが減少する気配はありません。この自白依存とこうした自白が獲得される方法は、日本の司法システムの公正性を疑わせるものです」
 星野は刑務所の中で絵を描くようになった。いくつかの賞も取り、徐々に多くの時間を絵を描くことに使うことを許可されるようになった。現在では、房の中で好きなときに絵を描いてよいという許可を得ている。水彩画を月一枚仕上げるペースで描き、妻に完成した絵を渡している。絵に入れるサインは自分と妻の名を合わせた「FumiAkiko」だ。彼の支援者たちは、彼が置かれている困難な状況にもかかわらず驚くほど明るいこの水彩画を使ってカレンダーを作っている。
 「文昭は、『獄中にありながら、なぜこんな明るい絵を描けるのか』とよく聞かれます。それはひとつには暁子を癒すために描いているからだと言っています。文昭は生きることを本当に大切にしています。彼の絵を見れば、それがわかるでしょう」と星野暁子は語った。
 星野裁判の歴史は非常に長く複雑だが、それが報復であることは明白だ。検察は最初、死刑を狙っていた。しかし、それは12万人の死刑反対の署名によって阻止された。それで、79年の一審20年の判決が83年の控訴審で無期になるという異例の展開になった。
 日本の新左翼の専門家であるハワイ大学のパトリシア・G・スタインホフ教授によれば、「自白している従順な被告に対しては、罪状が重くても短期の刑や執行猶予の確率が高い。しかし、まったく同じ罪状でも、政治的な抗弁をする被告には、釈放は言うまでもなく、法定最高刑を下回る刑を受けるチャンスさえ、事実上存在しない」ということだ。
 それにもかかわらず、星野と彼の支持者たちは、まったく闘いをやめなかった。主要な論点は、法廷でKrと呼ばれている少年被逮捕者が星野が警官を襲った時に着ていたと主張した上着の色だ。Kr供述ではブラウンだと記載されていたが、実際にはライトブルーだった。検察の論拠はKrの警察に対する供述に依存するものだったが、裁判所は、最後には、色が矛盾していることを認めたのだ。
 「最高裁は第一次再審請求の時、Krが服の色を間違えたことを認めました。しかし、それならば、裁判所は、この供述が信頼性がない証拠だと認めるべきなのです」と星野暁子は語った。
 星野弁護団は第二次再審請求の真っ最中だ。弁護団は、この事件の全証拠の開示を要求している(日本では、検察は裁判の証拠の開示を阻むことができる)。提出されていない証拠が多数あるのだ。そうした証拠のひとつに、その日の〔事件よりも〕遅い時間に撮影された、紙で包んだままのパイプを持った星野の写真がある。これは、襲撃でバイプが使われなかったことを示唆するものだ。また、ブラウンの上着を着た者が少なくとも2人写っているデモの写真もそうした証拠だ。
 暁子によれば、最近、夫婦の間の手紙の内容が無害であるにもかかわらず、刑務所当局に全部黒塗りされるようになったという。
 「まるで戦時下のようです。私の手紙は5回も黒塗りされました。こんなことをされると、夫婦としての文通はできなくなります......。彼らは、意図的にやっているのです」
 星野再審全国連絡会は、日本全国に会員がいて、24の事務所がある。最近、この事件の宣伝のために『愛と革命』という本も出版した。9月には、約400人が星野が収容されている刑務所の周辺でデモをした。12月1日には東京高裁の周辺での大きなデモが予定されている。
 こうした法的な困難にもかかわらず、彼の妻と支持者たちは弱気になっている様子はまったくない。
 暁子によると、星野文昭自身、楽観的だという。「文昭は、必ず釈放されると確信しています」