■マルクス主義・学習講座 労働組合と国家――資本主義国家と闘う労働組合(2) 丹沢 望

月刊『国際労働運動』48頁(0453号04面01)(2014/05/01)


■マルクス主義・学習講座
 労働組合と国家――資本主義国家と闘う労働組合(2)
 丹沢 望


目 次
はじめに
第1章 労働者と国家の闘い
   ・階級対立の非和解性の産物としての国家
   ・国家に対する階級闘争の歴史
   ・革命の主体、労働者階級の登場
   ・マルクスの労働組合論(以上、4月号)
第2章 労働組合の発展史
   ・初期の労働者の闘いと国家による弾圧
   ・マルクスの労働組合論
   ・パリ・コミューンと労働組合
   ・サンジカリズムの台頭(以上、今号)
   ・ロシア革命と労働組合
   ・30年代のアメリカ労働運動
   ・労働者階級の自己解放闘争と労働組合
   ・暴力について
第3章 パリ・コミューンと労働組合
   ・労働組合と革命
   ・コミューン時代の労働組合
   ・労働の経済的解放
第4章 ロシア革命と労働組合
   ・05年革命とソビエトの結成
   ・1917年2月革命と労兵ソビエトの設立
   ・労働者国家を担う労働組合

第二章 労働組合の発展史

初期の労働者の闘いと国家による弾圧

▼ラッダイト運動(19世紀初頭)
(写真 織機に対する破壊【1812年】)

 18世紀後半から19世紀初めにかけてイギリスの産業革命に伴う機械制大工業の発展時代があった。
 ラッダイト運動は、1811年から17年頃、イギリス中・北部の木綿織物工業地帯に起こった機械破壊運動である。
 この運動を、無知な労働者が機械を打ち壊し、犠牲者を出した無益な運動だったと非難し、その後に労働者は科学的社会主義に目覚めたとするような見方がある。これはとんでもない誤りだ。
 ラッダイト運動は、自然発生的であったが、資本による機械の導入に対して、これを労働者への攻撃として直感し、自らの生存をかけた命がけの闘いだった。「生きさせろ」の闘いだった。
 マニュファクチュア(工場制手工業)の時代は、労働者は職人であり、技術者であり熟練労働者であった。その社会的地位は高かった。ところが機械の導入は、マニュファクチュア労働者の基盤を掘り崩し、丸裸にするものであった。
 繊維産業には紡績(原料の繊維を糸にする)と織布がある。マニュファクチュアでは、紡績は女性と児童が受け持ち、熟練が必要な織布は男性の仕事だった。男性の収入が家計を支えていた。機械が最初に導入されたのは紡績だった。機械の導入によって、労働者は過密で強度な長時間労働にたたき込まれた。
 紡績工場での児童は、機械を動かす熟練労働者の助手として糸つなぎ工や清掃労働に朝3時から夜10時まで、休憩時間を除き17~18時間労働が強制された。機械の下にたまる糸くずの掃除に小さな子どもが使われた。怪我をしても治療もされず病休中の賃金も支払われなかった。資本家は機械を長時間動かすことが膨大な利潤を得ることだと、児童の命や健康のことなどお構いなしだった。
 そして、1810年頃から織物業に機械が導入され始めた。初めは、マニュファクチュアの織物作業場に資本家の織物機械が入ってきた。これが進めば、マニュファクチュアの仕事が奪われ、労働者の生活が破壊されてしまうことは目に見えていた。
 1811年にノッティンガムのネッド・ラッドが靴下製作機を破壊したのが最初といわれた。それは周辺に伝わり、やがて機械破壊者はラッダイトとして知られるようになった。だがラッドを見たものはいなかった。彼らは秘密結社をつくり、マニュファクチュア内に設置された織物機械を打ち壊したが、ほとんどつかまらなかった。
 機械の破壊と工場建築物の破壊に対する最初の法律は、イギリスで1769年に制定され、死刑が科されていた。国家権力は、対策とし再度機械の破壊者に死刑を下すとの法律を制定し、ラッダイト指導者の首に2千㍀の懸賞金をかけ、スパイを放ち、密告による弾圧を行い、15人の労働者を処刑した。
 いったん下火になったラッダイト運動は、16年に再燃した。ノッティンガムで靴下職人が30個の機械を破壊し、イギリスの東部地方では農民が脱穀機を打ち壊し、「パンか、血か」と書かれた旗をもって示威運動を行った。バーミンガム、プレストン、ニューカッスルでは機械で仕事を失った手織工の失業者が示威運動を行い、ダンディーとグラスゴーでは軍隊と衝突した。大衆的政治闘争に発展したが、国家権力により弾圧された。
 ラッダイト運動で発揮された力はチャーティスト運動に引き継がれていった。
 この当時の労働者の階級闘争は、政治的に自立しておらず、新興ブルジョアジーの政治闘争に動員される存在だった。イギリスでは新興ブルジョアジーが、地主勢力が支配する議会に対する議会改革を要求する運動を進めるために労働者を重要な動員力として利用しようとしていた。
 労働者は、18年のランカシャーにおけるより高い賃金のためだけでなく工場法と婦人少年労働の規制のために闘い、その頂点が、チャーティスト運動の始まりであった19年のマンチェスターでの普通選挙権と社会政策を求める8万人集会であった。労働者が多数集まったが、これを政府が武力弾圧し、12人の労働者が虐殺された(ピータールーの虐殺)。

▼労働組合の結成を認めたイギリス(1824年)

 ブルジョア国家は、当初労働者の団結を犯罪として労働組合の設立を禁止した。イギリスの団結禁止法は1799年に制定された。
 ここには1789年のフランス革命に対するイギリス支配階級のすさまじい恐怖があった。フランス革命は王侯と貴族を打倒した。イギリスの清教徒革命と名誉革命は王侯と貴族との妥協の産物だった。イギリスの支配者階級はイギリスにおけるフランス革命を絶対に阻むという反革命に出た。ひとつは英仏戦争(ナポレオン戦争)であり、もうひとつは国内階級戦争であった。
 政府は、労働者の闘いを抑圧するために警察を強化しスパイ=密告者網を敷くなどあらゆる弾圧政策を繰り広げ、些細なことでも弾圧した。ピータールーの虐殺は政府の恐怖の現れだった。
 しかし、それでもラッダイト運動のように労働者の自然発生的な激しい非合法的闘争の爆発を抑えることはできなかった。また労働組合が非合法化されても、実際には労働組合が非合法・非公然的に結成され、ストライキを闘い抜いていた。18年の繊維工業地帯でのストライキ、鉱山ゼネストなどが無数に起こった。農村でも囲い込み運動に対する農民暴動が起きていた。各地に鎮圧のための軍隊が常駐する有り様だった。
 そして15年にナポレオンが失脚し、英仏戦争が終結していた。それから10年、イギリス支配階級のフランス革命への恐怖、自国労働者階級に対する恐怖が一定緩和された1824年に、団結禁止法は廃止された。政府は労働組合を認め、労働者の闘いを合法的な枠内に抑え込む方向に転換した。だから労働組合は労働者階級が闘いを通じてかちとったものだ。こうして30年代以降、イギリスで次々と労働組合が結成された。

▼空想的社会主義の労働組合(1834年)

 労働組合は職種ごとの全国組織として結成されたが、1834年にロバート・オーエンの呼びかけで職種を超えた大ブリテン・アイルランド全国労働組合大連合が結成された。このような労働組合の全国組織の結成は世界史上初の出来事だった。
 エンゲルスは、『空想から科学へ』でオーエンを「空想的社会主義者」として批判しているが、彼の業績を非常に高く評価している。
 エンゲルスによれば、彼は資本家であり、工場主でありながら、当時のイギリスの労働者の悲惨な状態を直視し、人道主義的であったが、なんとかしたいと考えていた。
 そこで1800年から29年にかけてニュー・ラナークの自らが経営する大紡績工場で、他の工場が13~14時間労働をさせる時に10時間半の労働をさせ、綿花恐慌のために4カ月休業したときも賃金全額を支払った。彼が労働者を人間らしく扱うことで警察沙汰など何の問題も起こらなかった。彼は幼稚園の発明者で、児童は2歳になると幼稚園に入れられたが、子どもたちは家に帰りたがらなくなった。それでも大きな利益を所有者に配当した。
 この成功にオーエンは満足しなかった。この実験をより大規模にし、全労働者の解放のために役立てようとアメリカに渡り、私財を投じてインディアナ州において共産主義的な生活と労働の共同体の実現を目指した。4年余りの苦闘の末失敗した。
 共産主義への転換によってオーエンの生涯は一変した。博愛家の彼が受けていた富・名誉・名声は、共産主義理論をもって登場すると直ちに失われた。公的社会からの追放、新聞からの黙殺、アメリカの共産主義の実験の失敗のための零落が訪れた。
 そのときオーエンは労働者階級の味方をすることを決めた。イギリスで労働者の利益のために行われた一切の社会運動、一切の現実の進歩はすべてオーエンの名前に結びついている。1819年に工場法の制定(女性と児童労働の制限)を実現した。協同組合運動を始めた。労働紙幣を試みた。
 大ブリテン・アイルランド全国労働組合大連合の労働者は直ちに賃金や労働条件の改善を求めて、断固たる全国ストに突入した。政府はまたもやこれに革命の恐怖を感じて徹底的な弾圧に出た。このため労働組合の内部で分裂が起こり、この全国規模の労働組合運動はわずか1年で終わった。

▼チャーティスト運動(1815~42年)

 1815年頃から42年にかけてイギリスで、チャーティスト運動が展開された。
 当初は新興ブルジョアジーのヘゲモニーのもとにプロレタリアートは動員される形で闘われていた普通選挙権要求=議会改革運動だが、1836年にロンドンの労働者協会が結成され、38年にチャーティストの名称となる「人民憲章」(=チャーター)を、全ロンドン労働者協会が起草したように労働者階級のヘゲモニーが次第に確立された。
 憲章の6箇条は
1、成年男子普通選挙
2、秘密投票
3、毎年選ばれる一年任期の議会
4、議員に対する財産資格の廃止
5、議員への歳費支給
6、10年ごとの国勢調査により調整される平等選挙区
という内容であった。
 プロレタリアートは、この運動で労働組合の闘いとして炭鉱労働者や繊維労働者のストライキ、デモ、時に暴動などの戦闘的手段で運動を牽引した。労働者の階級的結集の全国的組織の役割を果たした。
 思想的には、公式では共和主義者とされるが、実際の指導者のほとんどは社会主義者で、組織人員は400万人に及んだとエンゲルスは言っている。
 ブルジョア急進派との共闘は、チャーティストの側が10時間労働法制定、新救貧法反対などのプロレタリア的要求を出し、ブルジョアジーが穀物法反対運動へのチャーティストの労働者を動員しようとしたことから対立を深めた。
 42年のマンチェスター大闘争(炭鉱を軸とする賃金闘争でゼネスト、デモ)でブルジョアジーが裏切り・脱落しチャーティスト運動は分裂し、労働者の運動に純化した。そして10時間労働法は、48年にチャーティスト運動がもぎりとった決定的な成果であった。
 その後政府の大弾圧の結果、48年(パリ、ウィーン、ベルリンでは48年革命が起きたのと同じ年)に解体に追い込まれた。
 マルクスとエンゲルスは、チャーティストの機関紙に定期的に原稿を送っていた。チャーティスト運動は、事実上イギリスの労働者階級の党としての役割を果たした。イギリスでは、労働者階級は、労働組合運動の蓄積の上に労働者階級の党と言えるものを持つまでになったのだ。

(写真  チャーティストの反乱)
▼熟練労働者の労働組合運動(1840~60年代)

 18世紀後半に始まる産業革命が終わり、イギリス資本主義が「世界の工場」になったのは、50~70年代と言われる。イギリスは広大な植民地を持ち、七つの海を海軍力と工業力で制圧し、世界の覇権国家となった。この頃が最も繁栄した時期である。
 この時代にイギリスでは、熟練労働者の職能別労働組合が結成された。これらの組合の多くはオーエンの大ブリテン・アイルランド全国労働組合大連合に参加し、弾圧されても生き延びてきた組合だった。
 彼らは社会主義を掲げていたが、実際の組合活動は、高い組合費を徴収して病気や失業に備える相互扶助に力点を置き、見習い工の制限で労働力を制限し、資本家との団体交渉において、その不調の時にストライキを闘い、労働条件の改善に専念した。
 この熟練者の労働組合は、51年の合同機械労組に始まり、紡績労働者、炭鉱労働者、建築労働者などに広がった。
 当時の労働組合は、法的には刑事訴訟法や損害賠償法の対象となって、ストライキなどの闘争を制限されていた。これらの労働組合は68年に「労働組合会議」を結成し、議会に働きかけ、71年に「労働組合法」、75年に「雇用主及び労働者法」をかちとった。これで労働組合は法的に公認された。
 しかしイギリスの繁栄も70年代中期、ドイツやアメリカの追い上げによってかげりを見せ始め、70年代後半からは長期不況に陥った。
 その結果、これまで労働組合に組織されてこなかった未熟練の労働者が続々とストライキに入り、労働組合を結成していった。これらの80年代に起きた非熟練労働者の組合運動は「新組合主義」と呼ばれる。マッチ工場の女性労働者、ガス労働者、港湾労働者、交通労働者などである。
 その特徴は、熟練労働者のように技能を軸にした組織ではなく産業別の労働組合であった。もっぱら団体交渉とストライキを目的とした戦闘組織であった。指導者も新人の社会主義者であった。
 88年から1900年までの12年間に労働組合員は75万人から202万人に増えたが、増えたのはほとんどはこの新組合員であった。

マルクスの労働組合論

【年代的に論じれば、この場所にすでに第1章で述べた「1848~51年革命」「共産党宣言」「マルクスの労働組合論」が入る】

▼ドイツの労働組合の台頭(1850~60年代)

 ドイツの急速な産業的発展に伴う戦闘的な労働者階級の登場があったが、48年のドイツ3月革命とその敗北でいったん後退した。その後、ラサールが全国的労働組合組織である「全ドイツ労働者協会」を1863年に結成した(ラサールは、その翌64年に死亡している)。労働運動と普通選挙権獲得運動などの政治運動を一体的に展開した。
 ラサールは「賃金鉄則」を唱え、労働者の賃金は常に最低賃金に向かう傾向を持つという法則を叫んで、賃金闘争は無意味として否定し、経済闘争を通じて労働者を階級として組織することを放棄した。
 ラサールによれば、党と労働組合の目的は、普通選挙権の獲得と普通選挙で選ばれた労働者の政府の国庫による生産協同組合への援助を通じて労働者の理念に基づく国家を実現することを追求することであった。ビスマルク(プロイセン首相、1871年のドイツ統一後の帝国初代宰相)と密談することも辞さなかった。ビスマルクのアルザス・ロレーヌ併合やフランスへの侵略戦争の継続に賛成する立場をとった。およそプロレタリア革命や労働者の国際主義とは無縁の組織であった。
 一方、ドイツ社会民主労働党は、ラサール派との対抗を意識して1869年にアイゼナッハというところで結成された。アイゼナッハ派と言われる。国際主義的・階級的な立場を鮮明にしていた。
 1871年のパリ・コミューンは仏独のブルジョアジーにとりわけ大打撃を与えた。フランスでは第1インターへの加盟が法律で禁止され、ドイツでは大反動が吹き荒れた。ラサール派もアイゼナッハ派も弾圧された。この苦境を乗り切るために74年に両派の合同の話が持ち上がった。
 マルクスとエンゲルスは、両派の合同綱領草案を見て、それがおよそマルクス主義とも無縁のラサール派の立場を全部受け入れるものであったのでカンカンとなり、激しく批判した。
 75年5月、マルクス・エンゲルスの批判を無視する形で全ドイツ労働者協会とドイツ社会主義労働者党がドイツのゴータ市で合同大会を開き、採択した綱領(ゴータ綱領)に基づいて両派はドイツ社会民主労働者党に統一し、その後のドイツ社会民主党になっていく。
 マルクスの著書『ゴータ綱領批判』は、この大会前に手紙で「ゴータ綱領草案批判」として出されたものだ。
 内容は、小ブルジョア的社会主義を徹底的に批判して、「パリ・コミューン」(1871年)という世界史上初の労働者権力の樹立という経験を通じて、現実の共産主義論を提起したものであった。

▼第1インターナショナル結成(1864年)

 1848年の『共産党宣言』以来、「万国の労働者、団結せよ」は、共産主義者のスローガンであったし、労働者の国際連帯組織は、先進的な労働者の共通の目標だった。最初の国際連帯組織である国際労働者協会が結成されたのは、1864年9月28日だった。
 後に第1インターナショナルと呼ばれるこの組織ができたきっかけは、ロンドン国際博覧会に、フランスの労働者200人が参加したことにあると言われる。このフランスの労働者がイギリスの労働者の招待を受け、共同の集会を催した。両者は共通の利害で結ばれていることが自覚された。63年にポーランドの独立を求める反乱が起こった時、マルクスは「革命の時代が再び始まった」と書いた。
 63年7月に再びロンドンで英仏労働者の会合がもたれ、「国際労働者同盟」設立が相談された。こうして、64年9月に、ポーランド問題を主題にした集会がロンドンで開かれ、国際労働者協会が誕生した。

▼マルクスが規約など執筆

 国際労働者協会の創立宣言と規約は、マルクスが執筆した。規約の前文には「労働者階級の解放は、労働者自身の手で闘いとられなければならない」「労働者階級解放のための闘争は、階級特権と独占をめざす闘争ではなく、平等の権利と義務のため、またあらゆる階級支配の廃止のための闘争である」と高らかにうたわれた。また、「労働の解放は、地方的な問題でも一国的な問題でもなく、近代社会が存在しているあらゆる国々にわたる社会問題であり、その解決は、最も先進的な国々の実践的および理論的な協力にかかっている」とも明言された。
 これは、規模は大きくなかったが、英仏独伊米を始めヨーロッパ全域に広がった。執行部として総評議会を選び、66年の第1回大会から72年のハーグ大会まで5回の大会を開いた。しかし、その思想、路線は種々雑多であり、マルクス派はプルードンやバクーニンらの無政府主義者などとの党派闘争を死活的に闘った。
 マルクスが第1インターの中央委員会(65年6月)で行った講演が著書『賃金・価格・利潤』である。そこでマルクスはイギリスの労働組合代表のウェストンに熱心に語りかけている。ウェストンは、賃金引き上げは労働者にとって何の利益もないと主張していた。
 当時、まともな労働組合運動を展開している国はイギリスしかなかった。ドイツもフランスもロシアも労働者の代表は出ているが、労働者階級に、労働組合に基礎を置かない代表者だった。だからマルクスは他の人には目もくれず、ウェストンだけを見て、賃金引き上げは労働者にとってムダな闘いなのか、そんなことはないと懇切丁寧に解き明かした。
 最後に労働組合は「現行制度の結果に対するゲリラ戦に専念して、それと同時に現行制度を変化させようとしないならば、その組織された力を労働者階級の窮極の解放すなわち賃金制度の窮極的廃止のためのテコとして使用しないならば、一時的に失敗する」と述べている。
 歴史上最初の労働者権力を樹立した71年のパリ・コミューン。直接に指導したのはマルクス派ではなかったが、この蜂起は「ブルジョアジーの階級的独裁を打倒し、プロレタリアートの独裁を実現する」というマルクス主義の実践そのものだった。マルクスは国際労働者協会の総評議会の公式の評価と総括として『フランスの内乱』を著した。

▼パリ・コミューンの後に

 パリ・コミューンを弾圧したフランス・ティエール政府と各国の政府は共同してインターナショナルへの攻撃を激化させた。ほとんどの国でインターナショナルは非合法化された。
 また一方で、バクーニン派その他との党派闘争は激烈化の一途をたどり、事実上分裂に至った。マルクスらはハーグ大会で、本部のニューヨークへの移転とバクーニン除名を決議した。
 ハーグ大会についての演説でマルクスは、次のように語っている。
 「市民諸君、インタナショナルのあの基本原理――連帯――について考えてみよう。万国のすべての労働者のあいだで、この生命力にみちた原理を強固な基礎のうえに確立したとき、われわれは、われわれの目ざす偉大な目標に到達することができるであろう。革命は連帯のうえにきずかれなければならない。そして、この点についての偉大な戒めを、われわれはパリ・コミューンに見いだすのである。パリ・コミューンが倒れたのは、すべての中心都市に、ベルリンに、マドリード等々に、パリ・プロレタリアートのこの壮大な蜂起に応じるような大規模な革命運動が起こらなかったためである」
 ニューヨークに移った総評議会は国際的指導機関として有効に機能しえず、76年7月解散に至った。
 第1インターは、プロレタリア国際主義の基礎を築き、各国に労働組合運動を起こし、その闘いを指導した。それ自身は10年余りの短命だったが、国際階級闘争の発展に重要な貢献をしたのである。

パリ・コミューン

 パリ・コミューンは労働者の権力を(わずか72日間の短命だったが)初めて地上に打ち立てた革命である。
 1860年代後半、フランスでは67年の恐慌とその後の不況の中でナポレオン3世の帝政は危機を深めていた。64年にはロンドンで国際労働者協会(第1インターナショナル)が結成されパリ支部が活動していた(指導部は小ブル無政府主義のプルードン主義者)。
 ナポレオン3世は、70年7月、延命のために冒険的にプロイセンに対する戦争に打って出た(普仏戦争)が、たちまちフランス軍は撃破され、プロイセン軍に国境を越えて攻め込まれた。民衆の帝政への憎しみは高まり、国内には革命的情勢が生み出された。
 9月4日、パリの労働者市民が立法院に押し寄せ、議会のブルジョア共和派は帝政の廃止を宣言、「国防仮政府」が成立した。
 9月4日以前から、パリには各種の民衆クラブが作られていたが、革命直後に「パリ20区共和主義中央委員会」が組織され、コミューンの萌芽とも言える直接民主政的な活動を行っていた。下からの義勇軍組織として「国民軍」の募集が行われ、30万人の市民が参加した。政府は目前に迫ったプロイセン軍より武装した民衆=国民軍を恐れた。
 10月31日、民衆は国民軍の大隊を先頭にパリ市庁舎を包囲したが、蜂起は失敗した。国防政府は反撃に転じ、弾圧を強めた。
 71年2月12日、反動議会が召集され、ティエールを行政長官とする王党派とブルジョア共和派の連立内閣が成立した。26日、「アルザス・ロレーヌ両地方の割譲と50億㌵の賠償金支払い、ドイツ軍のパリ市一時占領」などを取り決めた仮講和条約に調印した。

(写真 パリ・コミューン【1971年】)
▼コミューン4原則

 3月18日、ティエールの命令でフランス正規軍は国民軍を急襲、この衝突が「コミューン革命」の幕開けだった。パリ市民は、武装蜂起し、政府軍を次々に打ち破った。ティエールの政府と軍隊はパリを捨てベルサイユに逃亡した。政治権力の空白となったパリの支配権は、コミューン側=国民軍中央委員会に移った。26日、パリの全区でコミューン選挙が実施され、翌日、市庁舎前に20万人の市民が集まり、歓呼の中でコミューンの成立が宣言された。
 ①常備軍は廃止された。②ブルジョア的三権分立は否定され、コミューンは執行と立法とを同時に行う直接民主政的行政機関となり、③すべての官吏は徹底的なリコール制に服し、④その俸給は労働者の賃金の最高水準を超えないことが決められた(コミューン4原則)。
 4月2日からベルサイユ軍の攻撃が始まり、5月21日、ベルサイユ軍はパリの城壁内に突入、「血の週間」と呼ばれる凄惨な市街戦が開始された。大量の兵士・市民が虐殺され、28日に最後のバリケードが撤去され、全市がベルサイユ軍の手に落ちた。
 5月末までに殺された市民は3万人を数えた。死刑・強制労働・要塞禁固・流刑など1万8000人余が有罪となった。

▼ロシア革命に継承

 パリ・コミューンはさまざまな限界、弱点を持っていた。労働者階級が未形成で、労働組合も未発達だった。マルクス主義者ではなくアナーキストの影響力の方が強かった。軍事的にも首尾一貫した指導がなかった。にもかかわらず、それは史上初めて労働者階級が自らを支配階級に高める革命に踏み出した闘いであり、現にそれは1917年革命でロシアのプロレタリアートに受け継がれた。
 70年9月には、新政府を倒すことに反対していたマルクスは、蜂起が現実となった時、最大の感激をもってこれを歓迎した。
 エンゲルスは後に、「パリ・コミューンを見たまえ。あれがプロレタリアートの独裁だ」と言った。
 レーニンは、ロシア革命の渦中で『国家と革命』を著し、「パリ・コミューンは、『労働者階級は、できあいの国家機構をそのまま手に入れて、自分たちの目的のために使うことはできない』ということを証明した」というマルクスの言葉を引用し、その意義を強調している。【パリ・コミューンの意義については3章の「パリコミューンと労働組合」で詳しく述べる】

▼第2インター結成

 イギリスの資本主義は、1820年頃から自由主義段階に突入し、10年ごとの恐慌を繰り返していた。恐慌の度ごとに大量の失業者を街頭にあふれさせた。
 ところが1873年の恐慌以降、景気は回復せず19世紀末まで約30年続く「世紀末大不況」に陥った。ここには後進資本主義国ドイツとアメリカの追い上げがあった。それは資本主義が独占と金融資本の形成を軸として帝国主義段階への移行しつつあることを示すものであった。
 ドイツは、1830、40年代には封建的な諸邦に分裂していた。34年のドイツ関税同盟の成立は、ドイツの近代的統一国家への第一歩だった。機械制綿工業の輸入、鉄道業の発展がなされ、50、60年代に産業における株式会社形式の採用が急速に普及した。鉄、石炭といった重工業では、巨額にのぼる資金需要のため株式会社形式を採用した。そして一挙に生産の集積と独占を形成し、銀行の新しい役割を通して金融資本の確立と支配を進めた。そして71年にドイツは国家統一をした。
 またアメリカは、この時期以降ドイツ以上に急速な経済発展をし、世界の資本主義を主導した。
 このようにして資本主義は、産業資本が軸となっていた自由主義段階から帝国主義段階へ移り変わっていった。
 パリ・コミューン後の反動によって停滞していた労働運動が、80年代後半から再び復活し、ヨーロッパ各国に労働者政党が誕生した。こうした中で新しいインターナショナルをつくる気運が盛り上がり、1889年7月14日、パリのペトレル通りでマルクス主義者たちが国際集会を催した。20カ国400人に上る代表者が出席した。労働者政党や労働組合の組織加盟が原則で個人加盟は行われなかった。当時は「8時間労働制」の制定が大きなスローガンだった。
 1886年5月のシカゴのゼネストとそれに対する弾圧との闘いに連帯して、1890年5月1日を期してメーデーを労働者階級の国際的団結の日とすることを決めたのが、第2インター結成の直接的な成果だった。
 そして1898年に米西(アメリカ・スペイン)戦争、
1899~1902年のボーア戦争(イギリスとオランダ系ボーア人の南アフリカ植民地の争奪めぐる侵略戦争)。1904~05年の日露戦争など、世界市場と世界の再分割という帝国主義時代に突入した。これは英仏などの先発資本主義がすでに全世界を植民地として分割し支配しているなかで、独・米・日などの後発ながら新たに台頭する資本主義が世界の再分割戦争を挑む時代の始まりであった。
 19世紀末、第2インターの中心的政党だったドイツ社会民主党内で、ベルンシュタインら革命を否定する日和見主義が発生し、激しい理論闘争が展開された。
 1900年9月のパリ大会では、大会名を正式に「国際社会主義大会」とすることを決定。常設書記局をブリュッセルに置いた。
 1904年8月アムステルダム大会では、日露戦争で交戦中だった両国代表プレハーノフと片山潜が大会冒頭で握手を交わし、国際的結束をアピールした。
 1907年シュトゥットガルト大会では、ロシア代表のレーニンとポーランド・ロシアの代表であるローザ・ルクセンブルクが作成した修正案を受け、戦争が勃発したら、労働者階級は「戦争によって引き起こされた危機を利用して、資本主義を打倒するために全力をつくして戦う義務がある」との決議が採決された。

▼第2インターの崩壊

 帝国主義戦争に対する態度が労働者党の試金石だった。平時には「戦争反対」を唱えていても、いざ現実に戦争が切迫すると、「祖国を擁護する権利と義務」を語り始める者が出てくる。
 帝国主義間の対立は激化し、ついに世界の再分割戦争として始まった。第1次世界大戦は、1914年7月、英仏ロシアの3国協商と独・オーストリア・オスマン帝国の同盟国との間で勃発した。そして米・日は協商国側に参戦した。全世界を二分する世界大戦だった。
 この世界大戦に対して、ロシアのボルシェビキなど一部を除き、社会主義者や労働組合は、自国帝国主義の戦争を支持する側に転落した。
 ドイツ社会民主党は、8月4日のドイツ帝国議会で戦時予算の議決に賛成投票した。フランス、オーストリアの社会主義者も同じ行動をとった。1914年8月4日は、第2インターが社会排外主義に転落した日として歴史に刻まれた。
 同年9月、レーニンは第2インターの崩壊を宣言した。
 「全世界の社会主義者は、きたるべきヨーロッパ戦争を『犯罪的』で最も反動的な行為とみなし、このような行為は資本主義の崩壊をはやめ、かならず資本主義に対する革命を生み出すにちがいないと、1912年にバーゼルで厳粛に声明した。戦争が到来し、危機がやってきた。社会民主党の大多数は、革命的戦術のかわりに反動的な戦術をとり、自国政府と自国のブルジョアジーの側に立った。このような社会主義者の裏切りは、第2インターナショナルの崩壊を意味している」(『社会主義と戦争』)

サンジカリズムの台頭

 労働組合の活動のみで労働者を解放する革命を実現しようとするサンジカリズムが台頭した。サンジカリズムとは、19世紀末のフランスで始まった無政府主義的労働組合主義のことである。
 当時、フランス労働党というエセ革命党が党の選挙や党員獲得のための手段として労働組合を政治主義的に利用する立場に立っていた。それに対する反発と不信感から生まれた運動である。
 1902年にサンジカリストはフランス労働総同盟(CGT)を創設した。労働組合が独力で「資本の収奪をもって実現しうる完全なる解放を準備する」と宣言し、ゼネスト戦術を採用し、ゼネストで資本家の支配を打ち倒し、革命を実現すると主張した。そして労働組合が生産と分配を支配して社会変革の基盤となるとした。労働者階級自身の前衛党の建設という課題を放棄し、労働組合の闘いに依拠するだけで革命が実現できるとした。
 だが、時代は帝国主義の時代に入っていた。彼らは帝国主義や帝国主義戦争について正しい革命的認識を持てず、第1次世界大戦が勃発すると帝国主義戦争を支持した。
 帝国主義戦争が、労働者階級の奴隷主(資本家)同士の強盗戦争であり、さらに労働者同士に殺し合いをさせる階級戦争であること、ゆえに労働者階級の内乱と国際連帯によって社会主義革命に勝利できることを理解しなかった。

▼アメリカのサンジカリズム

 アメリカでも、第1次世界大戦まで、アナルコ・サンジカリズムが台頭した。これが米労働運動、革命運動の源流となっている。
 1890年代の鉄道労組の闘いや、炭鉱労働者の闘いを基盤にして、1905年に、階級協調主義的なAFL(アメリカ労働総同盟)に反対する労組活動家などによってシカゴで全国的な産別労働組合である世界産業労働組合(IWW)が結成された。
 賃労働の廃止と、労働者階級による生産と分配の支配を目的に掲げた。職業別労働組合の限界を認識し、熟練・非熟練労働者を問わず、人種の違いを超えて一切の労働者を産業別労働組合に組織した。いかなる政党とも協力を拒否し、労働者自身のデモ、スト、ピケットなどの「直接行動」で、とりわけゼネストで資本家の支配を打ち倒すとした。これは労働者階級の自己解放の闘いを活性化させる極めて重要な役割を果たし、後の時代のアメリカの労働運動、例えばILWUのハリー・ブリッジス委員長などに重要な影響を与えた。
 だが、彼らの限界は、労働組合を革命党の代替物にし、革命党なしに労働者革命を実現しようとしたことだ。労働者階級の階級的利益を追求する労働運動を展開しつつも、日常的な労働組合運動を通じて全労働者階級を革命の主体として広範に組織する活動が十分に行われず、組合活動家による革命的な社会運動のようなものに活動が切り縮められる傾向が生じた。
 このため、労働者階級の政治的闘いをそれ自身として広範に組織する活動が不十分になる傾向が生じた。
 他方、IWWは宿命論的に戦争を不可避とみなし、階級闘争に勝利した暁にのみ戦争をなくせると考える傾向があり、社会主義者ほどに反戦運動を重視しなかった。弾圧に対する準備も不十分であり、第1次世界大戦が始まると激しい弾圧を受けて指導機関を壊滅させられてしまった。
 ゼネストが勝利すれば、自動的に革命に勝利するという自然発生性の限界を示した。プロレタリア革命による国家権力の奪取の計画的準備を否定した。現在の国家が資本家の国家であり、ゼネストで資本家が危機に陥れば、必ず国家権力が激しい弾圧にのりだしてくることを軽視した。
 組織的にも、社会主義者、サンジカリスト、無政府主義者の寄り合い所帯であり、統一的な戦略や統一的指導が欠落していた。
 このため正式会員は延べで100万人に達したが、最大時でも10万人の会員を維持するのが精一杯であった。社会的影響力は大きかったが、労働者階級の間に広く根を張ることはできず、先進的労働者の組織にとどまった。

▼イタリアのサンジカリズム

 第1次世界大戦後、イタリアでは、戦後革命が闘われた。サンジカリストの指導による1920年代初頭の工場占拠闘争である。
 労働者による全国の工場の占拠とストライキによる生産管理が行われた。しかし、生産を支配しても原料の確保や運搬、製品の流通面を管理できず、失敗した。
 労働者は生産を支配するだけでなく、国家権力を獲得することで資本家が専有する生産手段を没収し、経済全体を支配しないと資本家の支配から脱却できないことを示すものだ。だが指導部は国家権力の掌握を決断せず、「労働者による工場管理」を認める法律をつくるという約束と引き換えに闘争を収束させてしまった。
 ここにはプロレタリア独裁国家の下で、資本家の抵抗を最後的に粉砕し、社会主義社会に移行する闘いの否定がある。さらに前衛党の形成とそのもとでの革命の勝利、社会主義社会建設に向けて労働者階級全体を指導していく闘いの否定がある。自然発生的闘いでは、資本家に対抗できない。無政府主義の限界を示すものだった。
(以上第2回)