■News & Review 日本 日米安保新ガイドライン絶対阻止を(中) 97年ガイドラインと周辺事態法・武力攻撃事態法

月刊『国際労働運動』48頁(0460号02面02)(2015/01/01)


■News & Review 日本
 日米安保新ガイドライン絶対阻止を(中)
 97年ガイドラインと周辺事態法・武力攻撃事態法

(写真 7月12日の毎日新聞は、政府は、「武力攻撃の明白な危険が切迫している」場合でも武力行使(先制攻撃だ】ができるように武力攻撃事態法を改定する方針を固めたと報道した)

(写真 陸海空港湾20労組などが呼びかけた「STOP!有事法制全国大集会」には6万人を超える労働者らが結集した【2002年6月16日 代々木公園】)

(写真 米兵による少女暴行事件を糾弾する沖縄県民総決起大会【1995年10月21日 宜野湾市】)


  目次
Ⅰ 78年ガイドライン
Ⅱ 97年新ガイドライン (以上前号)、周辺事態法
Ⅲ イラク・中東侵略戦争、 PKO派兵法
Ⅳ 対テロ特措法、イラク特措法、武力攻撃事態法(以上今号)、関連法(以下次号)
Ⅴ 米軍再編
Ⅵ 集団的自衛権行使・閣議決定、ガイドライン再改定、再改定に伴う安保関連法

 11月21日、安倍首相は、衆院を解散した。2014年階級決戦と、11月労働者集会の地平がついに安倍を打倒したのだ。
 革共同は12月総選挙に労働者階級の唯一の代表として鈴木弁護士を押し立てて衆院東京8区で闘う。
 7・1閣議決定による集団的自衛権行使は恐るべき戦争への道であり全人民の怒りを引き出した。安倍はグラグラになって年末に予定されていたガイドラン改定の最終報告を先延ばしし、「集団的自衛権は選挙の争点ではない」と逃げ回っている。
 戦争関連法の内容の一部が7月12日の毎日新聞で報道された。それは以下の通り。
 「集団的自衛権の行使を可能にするための法整備を巡り、政府は(7月)11日、武力攻撃事態法を改正し、日本が外国から攻撃を受ける前でも武力行使できるようにする方針を固めた。同法は武力行使を『(外国からの)攻撃が発生した』場合に限定して認めているが、『攻撃が発生する明白な危険が切迫している』場合でも武力行使を可能とする。日本の安全保障法制の大きな転換点となる」
 集団的自衛権の行使にかこつけて、「武力攻撃が発生する明白な危険が切迫している場合」などと政府がどのようにでも解釈できる場合で「武力行使」(先制攻撃)できるようにするというのだ。絶対に阻止しなければならない。
 前回は、78年ガイドラインと97年ガイドラインについて述べた。今回は97年ガイドラインの具体化である周辺事態法とその関連法案、武力攻撃事態法とその関連法案について述べていきたい。
【参考文献】「有事立法」(03年3月)、「ACSA改定と有事7法(04年5月)、「米軍再編・日米同盟強化を止めよう」(06年3月)、「朝鮮半島を戦場にさせない」(07年3月)。前進社発行のブックレット。
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安倍政権が改悪を狙う安保関連法
海上保安庁法
防衛省職員給与法
防衛省設置法
自衛隊法
国連平和維持活動協力法
国際機関等派遣処理法
周辺事態法
船舶検査法
武力攻撃事態対処法
国家安全保障会議設置法
米軍行動関連措置法
特定公共施設利用法
外国軍用品等海上輸送規制法
国民保護法
捕虜取り扱い法
海賊対処法
国際人道法違反行為処罰法
日米物品役務相互提供協定
日豪物品役務相互提供協定
 .................................

 97年ガイドラインの内容
 では97年ガイドラインの内容とはどのようなものであったのか。
 97ガイドラインの全体の項目は以下の通りである

 《日米防衛協力の指針》
Ⅰ 指針の目的
Ⅱ 基本的な前提および考え方
Ⅲ 平素(平時)から行う協力
Ⅳ 日本に対する武力攻撃(日本有事)に際しての対処行動等
Ⅴ 日本周辺地域における事態で日本の平和と安全に重要な影響を与える場合(周辺事態)の協力
Ⅵ 指針のもとで行われる効果的な防衛協力のための日米共同の取組み
Ⅶ 指針の適時かつ適切な見直し

●「周辺事態」のペテン

 Ⅲの「平時」、Ⅳの「日本有事」、Ⅴの「周辺有事」をひとつながりの事態として作戦計画を立てているのが特徴である。Ⅳの日本有事に対応するのが武力攻撃事態法案と関連法案(有事法案)で02年から国会に提出された。
 その突破口となったのが、Ⅴ項目の周辺事態で、「日本周辺地域における事態で日本の平和と安全に重要な影響を与える場合(周辺事態)の協力」である。この周辺事態において日米は軍事協力ができるとした。周辺事態とは、すでに述べた通り、米日帝の朝鮮侵略戦争が引き起こす事態である。それを切り口にして、平時、日本有事、周辺有事を貫く日米の戦争協力体制、戦時体制をつくろうとするものである。
 この周辺事態という考え方は、「専守防衛」とはまったく相容れない。
 専守防衛とは、「相手から武力攻撃を受けたとき初めて防衛力を行使し、その防衛力行使の態様も、自衛のための必要最低限度にとどめ、また保持する防衛力も自衛のための必要最低限度のものに限られる」と日本政府は憲法9条によって自衛隊が許される活動を説明してきた。
 ところが周辺事態とは、日本が武力攻撃を受けていないにもかかわらず、日本の領土外の戦争(周辺事態)に自衛隊が出動するものだ。米帝の朝鮮侵略戦争を支援するために自衛隊が朝鮮半島に限りなく接近していくものだ。
 これは完全に「専守防衛」を踏み外すものであり、憲法9条を無視し、自衛隊のあり方の原理を破壊するものだ。
 そのことがあまりにも明白なので、「統幕の研究」でも領土外における自衛隊の米軍支援行動を「グレーゾーン」とせざるをえなかった。
 にもかかわらず日帝は「周辺事態」なるものをデッチあげて、「グレーゾーン」を無理やり自衛権の発動の中に押し込めようとした。
 「後方地域支援」という言葉をデッチあげることによって、戦争行動を展開する米軍とは同じではない、「武力行使はしない」のだ、米軍に対して、「武器・弾薬」を除く物資の補給・輸送活動を後方で支援活動をするだけなのだ、だから憲法9条には違反しないのだと言い逃れようとしている。
 しかし米軍50万人が日本本土の米軍基地や自衛隊基地に集結し、米軍艦船200隻が在日米軍基地に出入りし、1600機の航空部隊が日本本土周辺に配備されて朝鮮半島に向かう場合に、北朝鮮を攻撃してくるのは米軍だが、日本はその後方で支援をしているだけだと思うだろうか。
 さらに核施設がある寧辺や首都ピョンヤンが空爆された場合は全面戦争になるのは必至だ。
 北朝鮮軍が反撃し「ソウルは火の海」となり、朝鮮半島が戦場となり、日本の米軍基地や自衛隊基地が攻撃を受けることになるのも必至だ。周辺事態が全面戦争に発展していくのは不可避なのだ。
 それを前提にして米軍は最初から「5027」作戦計画という大戦争を構え、自衛隊の後方支援を要請し、日本全土の兵站基地化を要求してきた。周辺事態は朝鮮半島をめぐる大戦争である。南北朝鮮人民はもとより日本、アメリカ、全世界の労働者人民にとって絶対に認められないものだ。
 つまり「専守防衛」として国家の自衛権を認めたら、日帝は周辺事態まで自衛権を拡張してきたのだ。これは明らかに個別的自衛権を超えた集団的自衛権の行使に当たる。政府は自ら集団的自衛権の行使はできないという手前、その言葉を避け、あくまでも(個別的)自衛権の拡張として強行してきたのだ。日帝はこうして憲法9条を破壊しようとしたのだ。
 政府はこの周辺事態における自衛隊の米軍支援をどのように説明したのか。
 1997年6月10日、衆議院安保委員会で、周辺事態における後方地域支援の憲法上の根拠を質問されて、大森内閣法制局長官は以下のように答えた。
 「後方支援を行うべしと正面から規定している条文がないことはもちろんでございますけれども、自国の平和と安全を維持し、全うするために必要な自衛の措置をとりうることは、国家固有の権能として当然である」
 安倍の7・1閣議決定の理屈もこれとまったく同じだ。
 国家には自衛権があるから、自衛のための必要な措置がとれると開き直っている。要するに国家の自衛権は憲法の上にあるとしているのだ。日米安保が憲法よりも優先されると言っているのだ。
 こうした憲法をも無視して戦争を始め、日本の労働者階級人民、南北朝鮮人民を戦禍にたたきこむ日本帝国主義を、労働者階級人民は日韓米の3国国際連帯の力で打倒する以外に生きる道はない。
▼周辺事態法
 こうしてガイドライン関連法として周辺事態法案、自衛隊法改悪案、ACSAの周辺事態適用改悪案が98年4月に国会に提出された。船舶検査法案は00年10月に国会提出された。
 政府は、前に述べたように「周辺事態とは日本有事と一体である」「周辺有事は国家自衛権の発動だ」として、自衛戦争の理屈で朝鮮侵略戦争への参戦を正当化した。
 その上で政府は、集団的自衛権の行使は憲法上許されないとしてきた手前、自衛隊と米軍の作戦協力を「武力行使と一体化する米軍作戦支援」(統幕の図で言えばCゾーン)と「武力行使と一体化しない米軍支援」(統幕の図のBゾーン=グレーゾーンのうち戦闘行動に当たる米艦船の護衛・防空は不可、機雷掃海は日本周辺の公海は可)の場合に分け、後者の場合には集団的自衛権の行使には当たらないから個別的自衛権の枠内だと強弁した。
 さらに周辺事態法では、自治体や民間などへの戦争協力の義務を定めた。
▼自治体・民間の戦争動員
 空港、港湾、給水、汚水処理などの業務を担う自治体労働者、海上輸送にあたる船舶労働者、軍事医療にあたる医療労働者、増員される基地労働者、鉄道輸送の貨物労働者や陸上輸送の運輸労働者、戦時放送にあたる放送・通信労働者、戦争教育を強制される教育労働者など全産別の労働者を戦争協力に動員するのが周辺事態法である。
 ということは、労働者が戦争協力を拒否すれば帝国主義者は戦争できないということだ。実際に94年朝鮮戦争危機は、日帝による戦争への労働者動員体制がとれないことから挫折を強制したのだ。職場での労働組合の闘いによって戦争は阻止できるということだ。
▼陸空海港湾20労組
 周辺事態法には、周辺事態法で動員を強制される陸海空港湾20労組(日本海員組合など)が反対闘争に立ち上り、99年5月21日には明治公園に5万人を集めた大集会を開いた。動労千葉はともに闘った。百万人署名運動は、85万筆を上回る署名を集め闘いの先頭に立った。
 新自由主義の中曽根は80年代に「戦後政治の総決算」を唱えて「国労をつぶし、総評を解体し、お座敷をきれいにして憲法を飾る」と改憲の狙いは労働運動の破壊だと語った。そして国鉄労働運動つぶしの国鉄分割・民営化攻撃をかけた。
 動労千葉は、組織をかけて国鉄分割・民営化攻撃に2波のストライキを闘い団結を守り抜いた。国労は脱退が相次ぎ89年に総評は解散し、帝国主義的労働運動の連合が誕生した。95年に社会党も解体した。
 にもかかわらず90年代の周辺事態法阻止闘争に連合、全労連、全労協というナショナルセンターの違いを超えて陸海空港湾20労組が結成されて闘い抜かれたことは決定的であった。周辺事態は戦争であり、その戦争で真っ先に動員され犠牲になるのは陸海空港湾労働者であるとの現実があった。特に日本海員組合は連合傘下でありながら戦争で船員が多大な犠牲を受けてきた歴史から反対闘争の先頭に立った。そして何よりも階級的労働運動を闘う動労千葉が労働組合として先頭で闘い抜いた。
 船舶検査法案は、周辺事態における経済制裁のために北朝鮮船舶に対する臨検を強化する戦争法案である。
 周辺事態法などは99年5月に成立、ACSAも改定された。船舶検査法は00年12月に成立した。

Ⅲ イラク・中東侵略戦争、PKO派兵法

●自衛隊海外派兵の始まり

 97年ガイドラインの改定に至る前に、自衛隊の海外派兵をめぐる重大な攻撃があった。1991年のイラク・中東侵略戦争(湾岸戦争)における自衛隊の掃海艇の派遣、さらに92年の国連PKO法による自衛隊のカンボジア派兵である。
▼イラク・中東侵略戦争(湾岸戦争)
 1991年の米帝のイラク・中東侵略戦争で日帝は、中東の石油一滴ですら自力では確保できない弱点をさらけだした。米帝ブッシュは「血を流さないで石油が確保できるか」とペルシャ湾の機雷掃海のための掃海艇の派遣を求めた。ここには米帝の対日争闘戦があり、日米安保の下で日帝を米帝戦略に徹底的に動員していくものであった。
 日帝は対応不能に陥り、130億㌦を戦争基金に拠出し、「金だけ出せば済むのか」と追い討ちをかけられ、戦争終結後にペルシャ湾に遺棄されている機雷を除去するために掃海艇を派遣した。自衛隊発足直前の1954年6月2日に行われた参議院における「自衛隊の海外出動を為さざることに関する決議」を踏みにじるものであった。
▼PKO派兵法
 ベトナムの隣国のカンボジアは、60年代からベトナム戦争の戦火が波及し70年代には米軍の大爆撃を受け、ベトナム戦争後は中国の支援を受けたポルポト派が支配していた。中ソ対立を受けてカンボジア・ベトナム関係が悪化、カンボジアに侵攻したベトナム軍が79年1月、プノンペンを陥落させポルポト派政権を打倒した。その報復として中国がベトナムに侵攻した(79年2月中越戦争)。その後はベトナムに従属するヘンサムリン政権と対抗するポルポト派などとの内戦が続いていた。
 ソ連が崩壊過程に入る中でベトナムが帝国主義との協調路線に転換し、米帝が国連を使って介入し、カンボジアを帝国主義支配下の「自由と民主主義国家」につくりかえようとした。そのために92年に国際連合カンボジア暫定統治機構(UNTAC)がつくられた。国連加盟国に国連平和維持活動(PKO)への部隊参加が求められた。当時の自民党幹事長の小沢一郎は、これを憲法9条の制約を破り自衛隊の海外派兵の突破口としようとした。
 小沢は、憲法は前文で「積極的・能動的平和主義」をうたっている、だから国連の要請に応じて自衛隊を海外に派兵することは「憲法9条に違反しない」と国連PKO参加を正当化した。侵略戦争の別名である「国際貢献」を叫びたてた。
 言うまでもなくPKOは軍事活動である。カンボジアは内戦が戦われていた。自衛隊を派兵すればその「武力行使」が問題になる。政府は「武力行使」を回避するPKO5原則なるものをデッチあげ、92年6月、国連平和維持活動(PKO)協力法が成立した。9月以降、国際連合平和維持活動(PKO)に参加するために自衛隊がカンボジアへ派遣された。本格的な部隊としては初の自衛隊の海外派兵であった。
《PKO5原則》
 ⑴停戦合意が成立、⑵紛争当事国によるPKO実施と日本の参加への合意、⑶中立的立場の厳守、⑷基本方針が満たされない場合は撤収できる、⑸武器の使用は命の防護のための必要最小限に限る
▼細川―小沢内閣成立
 米帝の軍事的要求にまったく対応できない日帝の危機を反動的に突破するものとして小沢一郎が自民党を飛び出し、小沢新党をつくり、共産党以外の非自民の勢力を結集した。その組織的基盤になったのが連合(89年総評解散後に生まれた帝国主義的労働運動)と創価学会であった。自民党を政権から引きずり下ろし、93年8月に細川(小沢)内閣を成立させた。ここで自社対決を基軸とする55年体制が崩壊した。
 細川首相は94年2月に訪米し、クリントン大統領と首脳会談したが、包括経済協議で合意できず会談は決裂した。これは戦後の日米関係では初めてのことだった。日米「同盟漂流」と言われた。
 さらに細川政権が発足させていた防衛問題懇談会が同年8月に村山首相に報告書を出した。いわゆる「樋口レポート」で、その内容は、日本が軍事の領域で能動的になること、世界の中で「能動的な秩序形成者」=覇権国家になることを宣言し、そのうえで多角的安保(国連中心主義)を日米安保よりも優先させる内容であった。小沢路線を体現するものであった。
 つまり日米同盟を最優先するこれまでの自民党の伝統的な政策を、小沢―細川は転換しようとしたのだ。これは米帝にショックを与えた。

●ナイ・レポート、日米安保の再定義、沖縄基地強化

 78年ガイドラインが想定する作戦計画の対象は、「ソ連の北海道侵攻」であった。そのソ連が崩壊した時に、日米安保は何のためにあるのか。それが問題になった時に小沢は日米同盟よりは国連中心主義を掲げた。
 95年2月のナイ・レポートはこれに対する米帝の巻き返しだった。日米安保を維持強化する立場から日米安保を再定義するものだった。
 ナイ・レポートは、アメリカが今後さらに20年間、世界とアジア支配を続けること、日本を対米対抗的な覇権国家にはしないこと、日米安保を「アジアの要」とすることを宣言している。そして日米安保を要にして朝鮮侵略戦争を構え、中国情勢、中国・台湾情勢をにらむとしている。
 アジアにはこのような緊張があり、戦争危機が切迫しているので、米軍は東アジアに10万人、日本に4万7千人を配置するとした。特に沖縄の米軍基地の維持・強化を強調している。
▼沖縄で米兵の少女暴行事件
 ナイ・レポートから半年後の95年9月、沖縄で米兵による少女暴行事件が起きた。この事件に対する沖縄人民の怒りはすさまじく、それは72年「ペテン的返還」後も少しも変わらない米軍沖縄基地の存在に向けられた。それは島ぐるみの決起となり、10月21日に宜野湾市で8万5千人の県民大集会となった。
 日米安保の実態は米軍基地であり、その70%以上が沖縄の米軍基地であった。その沖縄米軍基地を根底から覆す闘争だった。沖縄闘争の大爆発は村山政権をぶっとばし、自民党の橋本が首相になった。
▼日米安保共同宣言
 96年4月12日夜、橋本首相とモンデール駐日米大使は緊急共同記者会見を行い、米軍普天間基地を日本に返還することで正式に合意したと発表した。これは沖縄の人民の怒りをなんとしてでも抑えこむための大ペテンだった。
 沖縄人民の米軍基地への怒りを抑え、あざむき、沖縄の米軍基地を存続させ、安保再定義をやり抜くための卑劣な許されない策動だった。
 4月17日、米大統領クリントンが来日し、日米安保共同宣言が発表された。その内容は、基本的にナイ・レポートを受け継ぐもので、「朝鮮半島の緊張」を挙げ、東アジア米軍10万人体制を確認し、ガイドランの改定を宣言している。さらに日米安保協議会で確認された沖縄米軍基地の「整理・統合」に関するSACO(沖縄に関する日米特別行動委員会)の中間報告(「普天間基地の返還」)を承認した。それは沖縄基地の「整理・縮小」ではなく沖縄基地の強化であった。その後闘いは、普天間基地即時撤去、名護市辺野古新基地建設絶対阻止闘争へと発展していった。
 97年9月、日米両政府は安保ガイドランを改定した。

Ⅳ 対テロ特措法、イラク特措法、武力攻撃事態法、関連法

●9・11反米ゲリラ戦争

 2001年にブッシュ政権が誕生した。ブッシュは最初から「北朝鮮・イラク・イラン」を「悪の枢軸」と名指しした。そこには米帝の歴史的没落、ソ連崩壊後に爆発的に進行した世界支配の危機があった。90年代を通して欧米帝のユーゴスラビア侵略戦争の泥沼化があった。
 80年代のソ連のアフガニスタン侵攻はアフガニスタン人民の巨大な民族解放闘争により敗北したが、多くのイスラム諸国人民が義勇兵となって参加した。これを米帝とパキスタンが支援した。その義勇兵の中にオサマ・ビンラディンがいた。
 ビンラディンは、91年「湾岸戦争」においてイスラム教の聖地メッカがあるサウジアラビアに異教徒である米軍が布陣したことが許せなかった。ビンラディンはタリバンが支配するアフガニスタンを根拠地に反米武装闘争を行っていた。背後に米帝の中東支配に対するムスリム人民の怒りがあった。その怒りが01年9・11反米ゲリラ戦争として米帝中枢にたたきつけられた。
▼アフガニスタン侵略戦争
 ブッシュは「アメリカを選ぶのか、テロを選ぶのか」と全世界を脅し、「対テロ戦争」と称して01年アフガニスタン侵略戦争に突入した。
 日帝・小泉政権は、米帝の参戦への強い要求に応えて、これを海外派兵できる国家への飛躍の好機として対テロ特措法を制定して、米軍のインド洋における海上阻止行動の「後方支援」として米軍艦船などへの洋上補給活動を行った。日米安保は極東をはるかに越えてインド洋にまで広がった。
 海上自衛隊の本格的な部隊編成をして初の派兵であった。活動地域はインド洋の公海上であること、米軍への「後方支援」であること、「武力行使」をしないというペテン的言い逃れを駆使して行われた。2年間の時限立法であった。参戦したのは01年11月から07年11月まで。
 米帝のアフガニスタン侵略戦争は完全に敗北し、米帝は16年までの撤退計画を進めているが、撤退を見越してタリバンの攻勢が続いている。
▼03年イラク侵略戦争
 米帝のイラク侵略戦争は新自由主義の侵略戦争であった。フセイン政権を打倒し、米軍の占領統治体制をつくり、石油などの国営企業などを民営化し、米帝企業がその富をむしゃぶりつくすことを狙ったものだった。戦争の民営化も実行された。戦闘を含めて兵站・輸送などあらゆる部門に民間軍需会社が進出し、戦争を食い物にした。米ビジネスのために新たな機会を与える企業活動としてイラク侵略戦争が行われた。
 この戦争で多数のイラク人民が虐殺された。石油労働者の労働組合を拠点とする民営化反対闘争、イラク人民の民族解放闘争が闘われた。
 戦争の口実は「イラク大統領フセインが大量破壊兵器を隠し持っている」ということだった。だがそれはまったくのウソであることは今ではブッシュ自身が認めている。
 このイラク侵略戦争に小泉は、直ちに参戦を表明した。イラク特措法を強行した。
 日帝は04年1月、初めて激戦が展開されている戦地イラクに派兵した。小泉は、イラクの「戦闘地域ではない」と勝手に認定したサマワに自衛隊を送った。国会で小泉は「戦闘地域ではないところはどこか」との質問に対して「自衛隊がいるところが戦闘地域ではないところだ」などと苦し紛れの答弁を繰り返した。
 陸自部隊は派兵前の訓練として、イラクで戦う米兵と同じ対ゲリラ戦の訓練を北富士の訓練場で行っていた。
 サマワは戦闘地域であった。陸上自衛隊は宿営地を武装解放勢力による迫撃弾で何度も攻撃され辛うじて死者は出なかったが、宿営地から一歩も出られなくなった。自衛隊はオランダ軍(05年3月撤退)やオーストラリア軍に防衛されるだけの存在となり、06年7月に撤退した。約2年半だった。
 04年1月に派兵された航空自衛隊は、自衛隊の輸送機で武装米兵を戦闘地域であるバグダットに運んだ。これが憲法9条違反として提訴され、08年4月に名古屋高裁において憲法9条違反とする判決を生み出した(同年5月に確定)。それで空自は撤退に追い込まれた。空自の派遣期間は04年1月から08年12月まで5年間だった。

●武力攻撃事態法案など有事関連法

 02年4月に武力攻撃事態法案など有事関連法案が国会に提出された。武力攻撃事態法案とは97年ガイドライン改定のⅣ項目、「日本に対する武力攻撃(日本有事)に際しての対処行動等」に対応した法案である。
 この法案の特徴は、日本が武力攻撃を受けた場合に、自衛隊の武力行使の発動を最大限に前倒し可能にする新たな概念・体系をデッチあげたことだ。
 武力攻撃事態法の第2条「定義」によれば、
 「一 武力攻撃」とは「我が国に対する外部からの武力攻撃」のことであり、
 「二 武力攻撃事態」とは「武力攻撃(武力攻撃のおそれのある場合を含む)が発生した事態または事態が緊迫し、武力攻撃が予測されるに至った事態」としている。
 この「武力攻撃事態」という言い方が従来の「外部からの武力攻撃」と区別されて、新しく提起されている。まったく新しい「武力攻撃事態」という概念をつくりだしたのだ。「武力攻撃」をいくらでも拡大解釈できるようにするためである。
▼武力攻撃事態とは何か
 先に述べた「武力攻撃事態」の定義を整理する。
 a 武力攻撃そのものが発生した事態
 b 武力攻撃のおそれのある事態
 c 武力攻撃が予測されるに至った事態
 という三つのケースが想定されている。
 武力攻撃の発生のかなり以前の段階のものを広義の武力攻撃事態に組み込むためである。
 これについて政府が02年5月16日の衆院有事法制特別委員会で示した「武力攻撃事態に関する政府見解」でも明らかにされている。
▽「武力攻撃のおそれのある事態」=「ある国が我が国に対して武力攻撃を行うとの意図を明示し、攻撃のための多数の艦船あるいは航空機を集結させている」場合
▽「予測されるに至った事態」=ある国が日本攻撃のため、「予備役の召集や軍の要員の禁足、非常呼集を行っていると見られることや、我が国を攻撃するためにとみられる軍事施設の新たな構築を行っていること」などの動きのある場合
 と言っている。
 「おそれ」の場合も、「予測」の場合も、判断するのは日本政府である。いくらでも恣意的な判断ができる。その上で、「予測」はまったく日本政府の側の主観的判断であるからどうにでも拡張解釈ができる。
 自衛隊法76条「外部からの武力攻撃(そのおそれを含む)に際して、わが国を防衛するため必要があると認める場合には......自衛隊の全部又は一部の出動を命じることができる」と「武力攻撃(そのおそれがある場合を含む)」を受けた場合には自衛隊は防衛出動できることになっている。
 それよりはるか以前の予測の段階で「武力攻撃事態」を宣言し、宣言とともに直ちに自衛隊は事実上の防衛出動を開始することができるようにするのだ。
 法案審議の中で、これでは「事態の緊迫度に応じた対処措置の違いが法案上わかりにくい」「『おそれ』と『予測』との違いがわかりにくい」とかの意見が噴出して、「武力攻撃事態」から「予測」を切り離して「武力攻撃事態」と「武力攻撃予測事態」に分けた。
 また武力攻撃事態の「おそれのある事態」を「武力攻撃が発生する明白な危険が切迫していると認められる事態」とした。
 そして、自衛隊法第77条(防衛出動待機命令)のところに第二項を新設し「武力攻撃事態が予測される場合」に「防御施設構築の措置」を新設した。
 これまで自衛隊は防衛出動前の段階では、防衛出動待機命令が出され、基地から出ることは想定されていなかった。それを予測の段階で自衛隊は基地から出て、陣地構築ができるとされたのだ。事実上の防衛出動の発動であり、その大幅な前倒しを行ったのだ。
(つづく)
(宇和島洋)
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