2008年5月26日

寄稿 “いよいよ民衆の出番だ”と笑う古波津さんの姿見える 沖縄民権の会 座覇光子

週刊『前進』06頁(2344号6面5)(2008/05/26)

寄稿
 “いよいよ民衆の出番だ”と笑う古波津さんの姿見える
 沖縄民権の会 座覇光子

 「民権をもって国権を撃て」。この言葉が今、生き生きと響いて来る。
 古波津さんが逝かれてから9年、存命なら百歳になられる。もっと生きて欲しかった。私たちはいまだ未熟ゆえに、もっと教えを請わねばならないから……。こういう時、古波津さんは何とおっしゃるだろうかと思い巡らす。「失敗したら出直す。団結しなくちゃならんのに分裂とは何事か!」と怒られそうだ。
 「議会は相手の土俵なんだ。議員になってもしょせん切花さ」と分かっていても、沖縄の闘いに連なることならと区議選にも老体にムチ打って応援に来られた。しかし今、人間関係は引き裂かれた面もあるが、私たちは前向きに進むしかない。古波津さんは「いよいよ民衆の出番だな」とニコニコ笑っておっしゃることだろう。
 今年3月、沖縄とヤマトの架け橋となった福士譲二さんの死に哀惜の念を禁じ得ない。ヤマトの人で、これほど沖縄を真剣に思う人は少ないのではなかろうか。「ヤマトの人間が沖縄を真剣に考えて闘わなかったら、沖縄とヤマトの労働者の解放はない」と語った。三里塚と沖縄を結び、より強い連帯をめざした。
 私たちの一生は長い歴史の一瞬でしかないからこそ、後の世の人びとに明るい未来を手渡さねばならない。苦しい闘いの中にこそ光明を見い出す。長いトンネルの向こうに明かりをほのかに見い出す時の胸の高鳴りに似ているかも知れない。
 私たち沖縄人は支配階級に引き裂かれ、分断された溝を埋めるためにヤマトの労働者とガッチリ手を結ぶ。私たちに直接に差別、抑圧したのは支配者のみならずヤマトの労働者だったから、不信は簡単に消えるものではないが、この苦しみを必ずや乗り越えよう。これはおのれとの闘いでもある。
    ◇
 つい最近、ある建設会社に勤め、異例の早さで出世して行った甥が44歳の若さで突然亡くなった。余りにも忙し過ぎて身体も神経も限界に来ていたのだろう。会葬者は二千人と五百余の花輪があった。高校時代の友人は父親の所に飛んで来て「親父さん、彼はこの花輪に殺されたんだよ! こんなに大勢つき合っていたんでは忙し過ぎて、身体がもたなかったんだよ!」と、号泣した。
 それでも忙しい合間をぬって私の入院先に見舞いに来てくれた彼は、少年のころと同じようにやさしい面影を残していて懐しかった。あの笑顔、姿形が灰になったとは信じ難いが、これが現実だ。資本家階級と労働者階級と二分したこの社会構造は、どちらに属してもけっして幸せをもたらさないとつくづく感じた。「社会全体が幸せでなかったら個人の幸せはあり得ない」という言葉を思い出した。
 「会社に殺されたのかな」とつぶやくと、傍らにいた8歳の女児に「会社は誰が殺すの?」とシビアな質問をされ、ハッとした。子どもはラジカルなのだ。殺されたら殺して当然だと思っている。「働いても働いても苦しい生活をしている働く人たちが『生きられるだけの給料をくれ!』と言っても会社がきかない時にね、働く人たちが会社をつぶして新しい仕事場を作って、みんなが幸せに暮らせるようにするんだよ」と答えた。
    ◇
 24年前、フィリピンで見た労働者の真剣な闘いを思い出す。当時、多国籍企業がアジアを経済侵略していた。「私たちはここでがんばるから、あなた方は日本の資本主義を打倒して」と言われ、日本の企業がフィリピンをわがもの顔で、人権を無視して暴利をむさぼることを知った。
 若い女性従業員が組合事務所で、昼食になると「これを食べて」と、わずかなおかずとごはんを差し出して、「私たちはいつもごはんに少し塩をかけて食べているから大丈夫」と言われ、涙が出てしまった。
 「会社がわれわれの要求を受け入れなければ、われわれが決める」と大きな横断幕が胸を張るように風になびいていた。フィリピンの労働者は国際連帯を強く望み、世界の労働者の解放を願っている。
 今こそ世界に通用する「民権をもって国権を撃て!」の古波津さんの言葉を、誇りをもって実現する時が来た。

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■古波津英興さん(1907〜99) 沖縄県東風平村(現八重瀬町)に生まれ、龍谷大学在学中から労働運動を始める。治安維持法弾圧で2度逮捕・長期投獄。戦後、本土で沖縄の復帰運動に尽力。謝花昇(じゃはな・のぼる)顕彰会を設立。後、沖縄民権の会と改称。60年代後半から、全学連、反戦青年委員会の闘いに共感、沖縄救援センターをつくるなどして安保・沖縄闘争の裁判闘争などを支援した。以後、一貫して沖縄闘争の前進のために奮闘した。ガイドライン・有事立法に反対する闘いの渦中に交通事故で急逝した。