2008年10月 6日

戦後革命と賃金闘争の教訓 2・1ゼネストへ600万人が進撃 ブルジョア権力打倒の寸前に

週刊『前進』08頁(2362号5面1)(2008/10/06)

11・2労働者集会 UNITE!
 11・2一万人決起で賃上げゼネストへ前進を
 戦後革命と賃金闘争の教訓
 2・1ゼネストへ600万人が進撃 ブルジョア権力打倒の寸前に

 世界金融大恐慌の時代は、労働者階級が生存をかけて、嵐のような闘いに立つ時代だ。日本の労働者階級は敗戦直後、「生きさせろ!」のゼネストに立ち上がり、日帝打倒の革命の寸前まで闘いぬいた歴史をもっている。1947年の2・1ストがそれだ。当時の闘いをよみがえらせ、のりこえて進む時代がやってきた。11・2労働者集会をその突破口としよう。

 第1章 組織労働者の99%が立つ

 2・1ストは実際には、突入の前夜にストを指導していた日本共産党が米占領軍=GHQの中止命令に屈服した結果、最後の段階で不発に終わった。しかし、当時の組織労働者の実に99%、約600万人がゼネストに向け一糸乱れず団結して決起した闘いの革命性は、消すことのできないものであり、国際階級闘争の歴史に燦然(さんぜん)と光り輝いている。
 国鉄労働者でスト指導部の一員であった鈴木市蔵は語っている。2・1ストは当初、戦後インフレの嵐の中で飢餓線上をさまよっていた労働者の、生きる最低条件をかちとるための闘いとして出発した。「この経済的闘争が政治闘争へ、さらに革命的闘争へと転化発展した」。そして「『2・1』の革命性は要求の政治闘争化とともに、敵階級の政府をたおして、自らの政権樹立、すなわち『民主政府』『民主人民政府』をもとめて総決起したことである。しかもその武器としてゼネストの行使が確認された。これは典型的で本格的な労働者階級の革命的パターンであった」(『証言2・1ゼネスト』)
 さらに、当時全逓青年部員だった宝樹文彦(60〜71年に全逓委員長)は2・1ストについて次のように証言している。
 「革命前夜という感じですね。私はそう思いました。ほんとうにプロレタリア革命ということが行われるということなら、まさに私はこれだろうと。……労働者自身がすべての産業、交通、情報、通信、あらゆるものを全部握った。銀行も休み。こういう姿・形、私は率直に言わせていただければ、世界の労働組合運動史上、古今東西これだけの大規模なものはなかった」(『証言構成・戦後労働運動史』)

 第2章 ゼロから団結を強化拡大

 600万人もの労働者が職場・産別・地域を越え、ナショナルセンターと党派の枠を越えて階級として完全にひとつに団結し、資本家階級との非和解の一大決戦に立ち上がった。ここに2・1ストの巨大な意義がある。
 しかもこの600万人は、1945年8月の敗戦時には全員が未組織労働者だった。日帝の戦争体制下で労働者はあらゆる団結を奪われ、天皇制イデオロギーによる徹底した差別分断支配のもとに置かれていた。しかしその同じ労働者がわずか1年半の間にゼロから労働組合を結成し、自分たちこそ社会の主人公という自覚にめざめ、闘いの中で団結を強化・拡大し、ついに空前の一大ゼネストを組織するまでに成長したのである。
 それを可能にしたのは何よりも、敗戦直後の飢餓状態の中での「生きさせろ!」の切実な叫びだった。そして闘いを開始する中でつかんだ「団結すれば勝てる」という確信だった。と同時に、侵略戦争・帝国主義戦争で労働者と農民に多大な死と犠牲を強要した上に、戦後もそのツケをすべて人民に押し付けて生き延びようとしていた天皇と日帝ブルジョアジーに対する、労働者階級としての根源的な怒りの爆発であった。
 敗戦と米軍占領下での旧国家機構の解体は、日帝を体制崩壊の寸前に追いつめていた。資本家階級は延命に必死となり、その本質をなりふりかまわずむきだしにした。軍需産業に群がっていた資本家どもは政府・高級官僚と結託し、軍が備蓄していた食糧や石炭その他の膨大な物資の略奪と隠匿に走った。さらに、戦争中に政府が銀行や企業に約束した総額750億円(現在の貨幣価値で数十兆円)もの軍需補償金を、直ちに最優先で支払うことを要求した。
 その結果、物資の極端な不足に加え、激しいインフレが労働者人民を襲った。ブルジョアジーは生産を再開するよりも、隠匿した物資を闇市場に流すことで、インフレによるぬれ手にあわの利益をむさぼった。その一方で労働者の賃金は最低限の生存を確保することもできず、失業者は45年末で1300万人に達し、道端には餓死者があふれ出た。
 労働者階級は、団結して闘わなければもはや飢えて死ぬしかない。このぎりぎりの状況の中から決起が始まった。いったん口火が切られるや、闘いはせきを切って爆発した。45年秋に始まった労働者階級と資本家階級とのこの非和解の激突が、46年に入って全階級・全人民を巻き込む巨大な闘いに発展し、頂点に上りつめていったのが47年の2・1ゼネストである。それはまさに「プロレタリア革命の前夜」として、日帝の全支配階級はもとより米帝・GHQをも恐怖させたのだ。

 第3章 実力で賃金統制うち破る

 2・1ストの柱は賃金闘争だった。決定的だったのは、官公労働者(今日でいう国鉄・全逓・教労・自治体の4大産別)が闘争の中心にすわったことである。これが闘いを巨大なゼネストに発展させる原動力となった。
 その第一は、インフレが爆発する中で、労働者とその家族全員が実際に「食える賃金」をよこせという闘いだった。
 大幅賃上げ要求に対して政府と資本家階級は、「会社が倒産してもいいのか」「こんな要求をのんだら国がつぶれる」「賃金を上げたらインフレがもっとひどくなる」とわめいた。労働者の怒りはこれを真っ向から粉砕した。「労働者が働かなければ国も社会も成り立たない。おれたちが生きられるだけの賃金をよこせ!」——これは全労働者の共通の最も切実な叫びだった。
 実際に、労働組合は結成と同時に賃金の3倍、5倍引き上げを求めて直ちに争議に突入した。京成電鉄労組のように、10倍の賃上げを要求してその全額を実力でかちとったところもあった。組合のない職場でも、膨大な労働者が「食える賃金をよこせ」とまず立ち上がり、その闘いの真っただ中で労働組合が結成されていったのだ。
 第二は、政府による賃金統制を実力で打破することであった。
 日帝は46年3月、賃上げに次ぐ賃上げという闘いの大爆発を抑え込むため、賃金・物価統制令を発動した。物価を戦前の10倍、賃金は5倍の水準に固定して凍結し、同時に預金を封鎖した。そして労働者の生活費を5人家族で1カ月500円と勝手に決め、それを上回る賃金は現金で支給せずに強制的に預金させ、かつその預金を引き出すことを制限する措置をとったのである。公的物価は凍結されても闇物価はますますはね上がる。だが賃金は極度の低額に釘づけにされ、実質的にはどんどん下がっていったのだ。
 当時、独身者でさえ月に最低700円の収入がなければ生計を維持できないとされていた。これ以降、「500円枠」を実力で打ち破ることが全労働者の死活の課題となっていった。
 第三に、賃金によるあらゆる差別・分断を絶対に許さないという闘いである。
 戦前・戦中の労働者支配は、工員と職員、現業と非現業の間に身分制的な区別を設け、さらにそれぞれについて雇用形態も賃金も異なる無数の等級を設けて労働者を徹底的に分断していた。この身分制・職階制賃金の打破、あらゆる差別待遇撤廃の要求は、大幅賃上げや8時間労働制と並んで労働組合の結成当初から一貫して掲げられた。
 とりわけ官公労働者は「全員を年齢と勤続年数だけを基準とする1本の賃金表にせよ」「男女同一賃金」を掲げてその先頭に立った。今日まで続く公務員労働者の「男女同一賃金」や現業・非現業1本の賃金表は、この時の闘いによってかちとられたものである。
 賃金統制打破の闘いは46年8月、産別会議と総同盟という労働運動の二つのナショナルセンターの結成を契機に本格化した。9月、大量首切りを白紙撤回させた国鉄・海員の勝利が反転攻勢の突破口となった。産別会議の10月闘争がストライキの嵐となってこれに続いた。特に全国的な大規模停電ストを構えて闘われた電産争議は、その威力をもって2200円の大幅賃上げをかちとり、生活保障給を柱とするいわゆる「電産型賃金」を日帝資本に強制した。
 この勝利は官公労働者を奮い立たせた。当時、公務員の賃金は民間の半分以下に抑えられていた。政府は教育労働者の賃上げ要求に対し、「教師は労働者ではない。天皇の官吏だ」と言い放って組合代表との面会すら拒否するという、傲慢(ごうまん)きわまりない態度で臨んでいた。これへの怒りが爆発した。
 11月26日、国鉄労働組合総連合会、全逓信従業員組合、全日本教員組合協議会、全国官公職員労組協議会、全国公共団体職員労組連合会(のちの自治労)の呼びかけで、全官公庁共同闘争委員会が結成された。これに都労連、都市交、全医療などが加わり、13組合・260万人の一大賃金闘争がスタートした。民間労働者もこの闘いを支持し、これに呼応して決起し、「ゼネストへ!」の叫びがたちまち全国に広がった。

 第4章 官民一体の大ゼネストへ

 闘いは、労働者階級と資本家階級との互いに総力を挙げた一大激突へと発展した。47年1月には全国労働組合共同闘争委員会が結成され、鉄鋼・金属・化学・造船・機器・港湾・海員・炭労・電産・全繊・新聞・印刷など、基幹産業労働者を先頭に全国全組合が全官公庁共闘との共同闘争に立ち上がった。2月1日午前零時を期して600万人が全国一斉無期限ゼネストに突入することが宣言された。
 労働者階級の隊列は完全に一枚岩だったわけではない。社会党系の総同盟の中には戦前の産業報国会から横滑りした反共右派の幹部がいて、労資協調路線をとり、ゼネストには反対していた。だが闘う労働者の怒りの決起は、激しい党派闘争をとおして総同盟傘下の現場労働者の圧倒的多数をも獲得し、右派幹部に対して、公然と裏切ることを許さない関係を実力で強制していたのだ。
 経済闘争は政治闘争に転化した。今やブルジョア政治権力の打倒が階級闘争の日程に上った。日帝支配階級は土壇場に追いつめられていた。ここで介入したのがGHQである。米占領軍による武力弾圧をふりかざしたマッカーサー最高司令官のスト中止命令と、これへの日本共産党の屈服が、ぎりぎりのところで日帝を救った。ゼネスト突入時刻の数時間前、1月31日午後9時すぎ、全官公庁共闘議長の伊井弥四郎はNHKのマイクの前に立ち、涙ながらにスト中止の放送をした。
 歴史的な2・1ストがなぜ不発に終わったか。その総括については別途、詳しい考察が必要である。だがここで指摘したいのは次の点だ。すなわち2・1ストは、帝国主義の崩壊的危機の時代には、大幅賃上げという労働者の切実な生活要求の闘いそのものの中から革命への道が直接に切り開かれることを明白に示したのである。
 60年前の日本労働者階級が闘った賃金闘争は、そのまま今日の労働者の課題でもある。「生きさせろ!」のゼネストを今度こそかちとり、21世紀のプロレタリア革命に勝利しよう。
 〔坂本千秋〕