2008年11月17日

“私に弾圧通用しない” 国労5・27弾圧裁判 原田被告が闘志を表明

週刊『前進』06頁(2368号3面3)(2008/11/17)

“私に弾圧通用しない”
 国労5・27弾圧裁判 原田被告が闘志を表明

 11月7日、東京地裁刑事第10部(植村稔裁判長)で、国労5・27臨大闘争弾圧裁判の第97回公判が開かれ、前回に続き原田隆司被告への被告人質問が行われた。原田さんは、国鉄分割・民営化が徹頭徹尾、国鉄労働運動の解体を目的に強行されたことを、職場での体験を踏まえて全面的に暴ききった。その内容は、4者・4団体路線の裏切りを鋭く突き出すものともなった。
 冒頭、羽廣憲被告が意見を述べ、裁判所が松崎弁護団らに「特別傍聴」を認めていることを弾劾した。毎回行われている被告の意見陳述に追いつめられた松崎弁護団らは、前回に続き今回も公判に姿を現さなかった。
 弁護団の質問に答えて原田さんは、「11・2労働者集会で1047名闘争は国際的な闘いに発展した。国労闘争団が登壇し発言したことにより、11・2は4者・4団体路線に真っ向から対抗する闘いになった」と確信に満ちて発言した。
 国鉄分割・民営化の攻撃が具体化したのは、1982年に第二臨時行政調査会が設置され、国鉄分割・民営化の基本方針が打ち出された頃からだ。同時期、自民党は「国鉄基本問題調査会・国鉄再建に関する小委員会」(通称・三塚委員会)を設置し、「国鉄の職場規律は乱れている」というデマを叫んで、国鉄労働者がかちとっていた諸権利を奪い取る攻撃を開始した。
 原田さんが勤務していた山陰本線・綾部駅も、三塚委員会によって「重点職場」に指定された。その理由を聞かれた原田さんは、「分会青年部が合理化反対の立て看板や懸垂幕を職場で出していたからだ」と答え、三塚委員会による攻撃の中で職場の団結がどう破壊されていったかを具体的に説き明かした。
 85年11月の動労千葉のストライキについて問われた原田さんは、「動労千葉のストライキは、国労組合員に対し、みすみす首になるなら一緒に闘えという呼びかけだった」と返答した。このストライキは、国労の中に「動労千葉のように闘えば勝てる」という思いを与え、修善寺大会(86年10月)での山崎執行部提案の否決に結びついた。だが、国労はその後もストに立てなかった。「それは、国労本部が敵の本気さに対抗できなかったからだ」と原田さんは述べた。
 86年7月に原田さんは人材活用センターに送られた。原田さんは、この攻撃に対し、あくまで国労にとどまるという腹を固めた。それは、「赤字を労働者のせいにするのは問題をすり替えるデマだ」という強い怒りを感じたからだという。
 原田さんはまた、国鉄分割・民営化を率先推進し、国労や動労千葉の組合員の首切りを要求した動労本部カクマルの裏切りを生々しく暴露した。
 90年4月、国鉄清算事業団から1047名が解雇された。これを前に国労本部は、全員をいったんJRに採用するが、すぐに退職させるという政治解決案で闘争収拾を図った。だが、動労千葉がストライキに立ち、国労もストライキに入らざるを得なくなる中で、こうした国労本部の思惑は吹き飛んだ。90年3月のストライキの意義を、原田さんは「1047名闘争が二十数年にわたり闘われる基盤をつくった」と総括した。
 国鉄闘争勝利のために何が必要かと問われた原田さんは、「1047名闘争はJRに戻るための闘いだ。そのためには、私たちがJRと闘うことが必要だ」「JR体制の矛盾を背負わされた青年労働者には、不満が鬱積(うっせき)している。これに火をつけるために、尼崎事故の責任を糾弾し続ける」と言い切った。
 最後に原田さんは、「私はこの弾圧の中で、労働者は社会を運営する主体になれるという確信をつかんだ。私たちに弾圧は通用しない。取り調べで刑事は『お前は二度と制服を着てホームに立つことはできない』と言ったが、私は制服を着てホームに立っている。今後も人生をかけて闘う」と宣言した。
 弁護団の質問に答え、原田さんは「検察官、裁判官の質問に一切黙秘する」ときっぱりと答えた。検察官が質問しようとすると、すかさず弁護団が異議を出し、判例を引用しながら、黙秘を明言している被告に質問すること自体が違憲・違法だと声を強めた。裁判長は異議を棄却したが、検察官の質問は「いかなる質問にも答えないのか」の一問だけで終了した。
 その後、裁判長は弁護側が申請していた田中康宏動労千葉委員長と荻野富士夫小樽商科大学教授の証人採用を決定し、2月13日の公判で立証段階を終えるまでの残り5回の公判予定を確定した。次回は向山和光被告への被告人質問だ。あと5回の公判に総力で結集し、裁判闘争に勝利しよう。