2009年1月26日

三浦五郎さんを追悼する 労農解放貫いた96年 三里塚現地闘争本部

週刊『前進』06頁(2376号6面4)(2009/01/26)

三浦五郎さんを追悼する
 労農解放貫いた96年
 三里塚現地闘争本部

 反対同盟本部役員であり最長老の三浦五郎さんが1月14日、心不全のため亡くなられた。享年96歳だった。三浦さんは1月6日が誕生日。元気に96歳を迎え、前日まで普段の日常生活を過ごしていた。テレビで好きな大相撲を見ながら、反対同盟ニュースや支援団体の機関紙・ビラを隅々まで読んでいた。その直後の異変だった。
 三里塚43年の闘いのリーダーであった三浦さんを失った反対同盟、そしてわれわれ支援者の悲しみは、何物をもってしても癒やされない。
 しかし、「闘争に全人生をささげた」三浦さんの遺志を継ぎ、三里塚闘争を勝利させることこそ、唯一、三浦さんの闘魂に応える道と肝に銘じ、悲しみをのりこえて、空港廃港へ邁進(まいしん)することをここに誓うものです。
 三浦さんは1913年、父美貞、母松世さんのもと、山梨県東八代郡に生まれた。山梨県は耕地が少なく、同年10月、五郎さんがまだ1歳にもならない時点で、美貞さんは千葉県遠山村(現・成田市)の御料牧場に24戸とともに集団で入植した。
 入植とは言っても小作労働だった。御料牧場の小作人は天皇の農奴同然だった。開墾担当の地区を3度もたらい回しにされ、塗炭の苦労をしたと、折に触れお聞きした。ここから、父親が農民運動に目覚め御料牧場当局との闘いに立ち上がっていった。
 芝山地区は、隣の八街・富里地区の明治以来の農民運動の影響を強く受けている地域だったため、農民運動先進地域だった。三浦さんは「子どものころからおやじのビラ配りをよく手伝ったよ」と話してくれた。
 1932年には共産青年同盟の一員として治安維持法で逮捕されたことが新聞にも報道された。45年の敗戦後、横須賀から復員した三浦さんは直ちに農民組合運動に参加していく。そして、50年代になると農地解放闘争および御料牧場解放闘争の先頭に立つようになる。農地改革のための農地委員も務め、64年には芝山町議会議員にも当選した。
 こうして自作農の地位も得、社会的な地位も安定してきたところへ降りかかったのが空港建設計画だった。農民無視のこの暴虐に、三浦さんは最先頭で反対運動に参加していった。
 その後、67年の外郭測量強行、71年9・16戦闘後の激しい青年行動隊弾圧、77年の鉄塔破壊から78年の成田空港開港重圧による一部幹部の動揺、そして82年2月、戸村一作委員長亡き後の実質的な最高指導者・石橋政次元副委員長の脱落、83年3・8分裂、87年9・4分裂……。これらの反対同盟の試練の中に、常に三浦五郎さんの姿があり、反対同盟が「絶対反対同盟」として自らを磨き上げていく精神的な支柱として、「戦前以来の闘士」三浦五郎さんの存在があった。
 2000年以後では、とりわけ市東孝雄さんへの農地法を使った農地強奪攻撃に怒りを燃やし、顔を真っ赤にして千葉県、成田空港会社の暴虐を弾劾していた姿を忘れることができない。
 06年7月2日、市東さんの記者会見の場に三浦五郎さんの姿があった。高齢のため、集会には参加していなかった三浦さんだったが、この時ばかりは「はってでも参加する」というりりしい姿があり、農地法の精神を記者たちに直接解説し、農地法で農地を取り上げようとしている空港会社に対する怒りを爆発させていた。
 三浦さんが育て、鍛え上げた三里塚反対同盟は43年の激闘を経てついに、日帝・国土交通省、空港会社と四つに渡り合い、一歩も引かぬ堅忍不抜の農民組織へと飛躍を遂げた。
 私たち三里塚現闘は、三浦さんの遺志と闘魂を受け継ぎ、この反対同盟を支えて、三里塚闘争の最後の勝利まで闘いぬく決意をここに誓います。
 三浦五郎さん。最後まで私たちの闘いを見守り、鼓舞激励して下さい。そして安らかに眠って下さい。