2009年2月23日

国労5・27弾圧裁判 “暴処法は団結破壊法” 荻野教授が証言

週刊『前進』06頁(2380号2面5)(2009/02/23)

国労5・27弾圧裁判 “暴処法は団結破壊法”
 荻野小樽商大教授が証言

 2月13日、国労5・27臨大闘争弾圧裁判の第104回公判が東京地裁刑事第10部(植村稔裁判長)で開かれ、荻野富士夫・小樽商科大学教授の証言と、橘日出夫被告への被告人質問が行われた。この日の公判で証拠調べは終了し、次回は検察による論告となる。
 公判の冒頭、富田益行被告団長が意見を述べ、「この弾圧は1047名闘争をつぶせなかったことに対する報復弾圧だ。私たちは最も闘ったから最も敵の憎しみを受けた。光栄だ」と言い切った。そして、「1047名を救済の対象とし、闘争団と国労組合員の誇りを傷つけているのが4者4団体だ」と弾劾して、「私たちが1047名闘争の責任勢力に躍り出る」と宣言した。
 荻野教授の証言は、暴処法の制定過程や、戦後もそれが生き残った経緯、戦前・戦後をつうじての暴処法の適用実態に及ぶ詳細なものだった。
 暴処法は、治安維持法が制定された翌年の1926年に成立した。この法律は、労働争議やストライキの弾圧をあからさまに掲げた治安警察法17条の廃止と引き換えにつくられた労働運動鎮圧法・団結解体法だ。だが、その制定過程で政府は、暴力団対策が目的で労働争議や小作争議への適用は意図していないと繰り返し答弁したという。こうした事実を指摘して、荻野教授は「暴処法はまさに、だまし討ち的悪法だ」と断言した。
 荻野教授はまた、戦後、暴処法が廃止されずに生き残った過程について説き明かした。日本政府は、GHQが暴処法の廃止を明示に指示しなかったことにつけ込んで、戦後もこの法律を生き残らせた。そこに示される戦前・戦後をつうじての治安体制の一貫性に言及して、荻野教授は、戦前、治安維持法下で弾圧を指揮した思想検事たちが、戦後も公職追放されずに公安検事に再編され、中には最高裁の裁判官になった者もいると指摘した。そして、60年代、70年代にかけて毎年1万人を超える人が暴処法により送検されている実態を明らかにした。
 荻野教授は最後に「暴処法という戦前の遺物が残っていること自体が問題だ。裁判所は、戦後も暴処法を残した為政者の思惑にとらわれるべきではない」と証言した。
 続いて橘日出夫被告への被告人質問が行われた。橘さんは修善寺大会以降の国労を全面的に総括して、「国鉄分割・民営化に対して動労千葉以外のすべての勢力が屈服した。修善寺大会で国労は分割・民営化反対の旗を掲げたが、執行部を握った革同や協会派は分割・民営化を認め、それに屈していた。だから修善寺大会以後、国労本部は『闘争団がいるからJRとの労使関係がうまくいかない。闘争団は国労にとってお荷物だ』という立場をとった。国鉄闘争はこの国労本部との闘いだった」と述べた。
 また、国鉄闘争の展望について「大恐慌下での首切り攻撃、道州制による公務員労働者への解雇攻撃に対して、1047名が先頭に立てば6千万労働者の反撃は呼び起こされる」と語り、それを裏切る4者4団体を弾劾し、「動労千葉と被告団は1047名を解雇撤回の旗のもとに総結集し、日本の労働運動を塗り替えていく主体だ。資本主義をぶっ飛ばす闘いを断固闘う」と宣言した。