2009年9月 7日

空港絶対反対・農地死守の原則貫き労農学団結で三里塚闘争勝利を

週刊『前進』08頁(2406号4面1)(2009/09/07)

空港絶対反対・農地死守の原則貫き労農学団結で三里塚闘争勝利を
 10・11三里塚-11・1日比谷へ

 三里塚芝山連合空港反対同盟から10・11三里塚現地全国総決起集会の招請状が発せられた(1面掲載)。今年の10・11闘争は例年にも増して重大な闘いとなった。大恐慌と自民党崩壊という歴史的情勢下で三里塚の位置は決定的に大きい。その成功のために特集を組んだ。(編集局)

 革命的激動の三里塚闘争 日帝支配揺るがす「革命の砦」

 開始された巨大な反乱を革命へ

 労働者・農民の積もり積もった怒りのマグマが爆発し、ついに自民党政権が音を立てて崩壊した。小泉政権の新自由主義攻撃に対する怒り、さらに戦後の自民党独裁体制全体に対する怒りが爆発したのだ。世界大恐慌のもとで、既存の政治支配体制が崩壊する、まさに革命的な情勢の到来だ。
 何千万の労働者人民が投票行動という形態であろうと、一斉に自民党政権打倒に動いたことの中に革命の現実性が示されている。
 労働者人民は、開始されたこの巨大な反乱を、その大本である資本主義そのものを終わらせる革命に向かってさらに前に進めなければならない。
 労働者の中に民主党への幻想が仮にあったとしても、それは一瞬にして吹き飛ぶようなものでしかない。何よりも、自民党の崩壊をもたらした経済的基礎、日本資本主義の危機は何一つ変わらないのだから。これから大恐慌の2番底、3番底と言うべき破局が押し寄せてくる。この中で民主党政権は、直ちに暗礁に乗り上げ、帝国主義ブルジョアジーの救済のための政権であるという馬脚を現す。
 民主党のマニフェストに言う「無駄遣いの根絶」とは、公務員労働者に対する首切り・賃下げであり、これを連合ダラ幹と結託して進めるのが民主党・連合政権だ。労働組合の名をもって労働者を圧殺する政権なのだ。
 一方では、この情勢に危機感を募らせる右翼ファシスト勢力が一斉にうごめき出すことも明白だ。あらゆる意味で、革命的情勢がついに到来したことを、激しい闘志をもって確認しよう。

 国鉄と三里塚で革命の扉開こう

 この情勢の中で、われわれが国鉄闘争と三里塚農地死守の闘いをもって対決する路線を鮮明にしたことは、日帝打倒に向かって有利な地平である。国鉄−4大産別決戦と三里塚でわれわれは革命の扉を開くことができる。
 23年間にわたって闘われてきた国鉄1047名闘争は、大失業・首切り攻撃のもとで続々と決起する労働者階級の進むべき道を照らしている。「解雇撤回」を投げ捨て、政府・自民党にお願いする4者4団体路線は見るも無残に破産した。動労千葉や国労共闘が掲げ続けてきた原則的な路線が、全労働者の先頭に立っているのである。
 そして同時に、43年間の不屈の三里塚闘争は、この大恐慌下、そして民主党政権下の三里塚闘争として、一段と重要な位置に押し上げられた。
 三里塚闘争は、日本帝国主義を打倒する革命の根拠地である。閣議決定以来43年、2期着工からでも23年にもわたって、空港の完成を実力で阻み続けている。韓国民主労総の労働者が、三里塚を訪れて強い共感と共闘の意志を示しているように、国際的にも三里塚は労働者・農民の砦(とりで)だ。
 民主党は「国策」を掲げて成田空港の「完全空港化」をめざして襲いかかってくるだろう。それをもって自らの「統治能力」をブルジョアジーに訴えるだろう。
 だが、来るなら来い。三里塚43年間の闘いを甘く見るな。佐藤内閣から麻生内閣まで、歴代の自民党内閣と真っ向から渡り合って、一歩も引かず闘い抜いてきた地平は、揺るぎないものがある。三里塚闘争は、闘う人民の結集の砦として、全人民の反戦闘争の拠点として、そびえ立っている。三里塚闘争は、労働者階級・農民・全人民が、帝国主義を打倒することができることを、日々指し示しているのだ。

 国策と対決して非妥協的に闘う

 三里塚闘争は一言で言えば、帝国主義の国策に対して、農民が労働者・学生と団結して、真っ向から非妥協的に闘いぬいてきた歴史である。それは、出発点から国家権力に対する巨大な「ノー」の闘いだった。
 「開拓農家の貧乏百姓は金を積めばたたき出せる」と見くびった、人を人とも思わぬ扱いに対する怒り、体を張って阻止しようとする農民に問答無用で襲いかかる機動隊の暴力に対する怒り、闘う労働者・学生に対する共感と連帯。これらが原点になって形成された闘いである。最初から対権力対決性、非和解性を明確にもっていた。
 それは70年安保・沖縄闘争に大衆的・戦闘的に決起した全学連と反戦青年委員会の青年労働者の闘いと一体の闘いだった。
 同時に、闘いは敵の懐柔、買収、取り込みの攻撃との闘い、内部からの脱落、逃亡、裏切り、分裂との闘いだった。反対同盟の戸村一作委員長は、「三里塚闘争は階級闘争だ」と明確に規定し、権力を打倒してやまない戦闘精神を反対同盟に植え付けた。
 分裂や脱落は、敵権力の切り崩し攻撃だったが、その最たるものが1983年の3・8分裂だった。それは本質的には、78年開港阻止決戦にまで上り詰めた三里塚闘争を永続的に発展させるか(それは革命の拠点としてということを意味する)、それとも権力に屈服し、2期着工阻止闘争をやらない道を選ぶかという対立だった。
 脱落派の攻撃は、天神峰、東峰などの敷地内農民に対する襲撃だった。この分裂攻撃と闘い抜いて、反対同盟は「絶対反対同盟」として確立された。「空港絶対反対・一切の話し合い拒否」「農地死守・実力闘争」「二期阻止・空港廃港」の3本柱が座った。

 空港ののど元に刺さる闘う農地

 今日、敷地内・天神峰の市東孝雄さんに対する攻撃は、ついに、第3の誘導路を市東さんの家屋、畑を取り囲む形でつくるという計画まで出てきた。これは、従来の「への字」誘導路の問題を解消するものでも何でもない。要するに、市東さんを天神峰から追い出すだけの目的でつくられる究極の農民殺し、農業圧殺の攻撃だ。
 だが、それは一方では、日帝権力が市東さんを始め反対同盟の不屈非妥協の闘いに、打つ手がないところに追い詰められていることを示している。三里塚農民の不屈の闘いが空港ののど元に突き刺さり、完全空港化を押しとどめている。闘えば勝てることを能弁に示しているのだ。
 最末期帝国主義の唯一の延命策だった新自由主義が破産する中で、それ以外にないものとして「道州制」攻撃が日程に上ってきている。公務員360万人いったん解雇という超ど級の攻撃は、同時に農民に対する一層激しい攻撃である。道州制と同じことが農民に対して襲いかかっている。
 ブルジョアジー=日本経団連は、農業を市場原理に委ね、農民を切り捨てようとしている。日帝は農地法を改悪し、企業が農地を持てるようにし、「農地は耕作者のもの」という原則を破壊している。
 しかし、すでに改悪前の農地法をもって農地を取り上げる攻撃が、市東孝雄さんに加えられてきているのだ。「耕作者を守る」法律であるはずの農地法で、ほかならぬ市東さんの耕作地が奪われる。これに対して闘っている三里塚闘争は、全国の農地法改悪に対する闘いの最先頭の闘いである。
 今日の日帝の農業破壊攻撃との最先端の闘いが三里塚闘争であり、市東さんの農地強奪粉砕の闘いである。全国の農民は、三里塚とともに闘ってこそ、勝利することができる。
 農業・農民問題の解決は、帝国主義を打倒し、社会主義を実現するプロレタリア革命の中にのみある。また、労働者階級の側から言っても、勝利のためには農民の援軍が必要である。農民・漁民の合流なしには革命は勝利することができない。
 同時に、三里塚は「軍事空港粉砕」を掲げ、日帝の戦争と改憲の攻撃と対決してきた反戦闘争の巨大な拠点である。70年安保・沖縄闘争以来の三里塚闘争の地平は偉大だ。日帝は、三里塚の圧殺なしに改憲と戦争に踏み込むことはできない。だからこそ、三里塚は一層決定的な日帝との対決の戦場になっているのだ。
 国鉄労働者を先頭に4大産別とすべての労働者は三里塚に総結集しよう。「国鉄・三里塚・国際連帯」を軸に11月集会をかちとろう。
 10・11三里塚全国総決起集会への大結集と11月労働者集会1万人結集の中に勝利の道がある。すべての労働者・学生は、三里塚現地に総結集し、反対同盟とともに闘おう。

 労農連帯はいかに築かれたか 動労千葉ジェット闘争の教訓

 国家権力の暴虐に対し、徹底非妥協の実力闘争を貫く三里塚闘争は、まさに日本階級闘争に比類のない決定的な位置を占めている。農民が逮捕や流血を顧みず、機動隊の暴力と真っ向から対決する姿は、全国の闘う労働者人民の圧倒的共感を呼び、勝利の道筋を指し示してきた。そして43年という闘いの継続を通じて、成田空港建設という巨大な「国策」を一大挫折に追い込み、日本帝国主義に大打撃を強制している。
 この農民の闘いに限りない信頼を寄せ、労農連帯をとことん貫いてきたのが動労千葉だ。反対同盟と動労千葉が築き上げてきたこの労農連帯こそ、現下の革命的情勢の到来においてプロレタリア革命へと歩を進める労働者階級のかけがえのない武器であり、全世界の労働者・農民の連帯を築く拠点である。以下、ジェット燃料貨車輸送阻止闘争を中心に、闘いの歴史を振り返ってみよう。

 ハンドルを握り拒否から阻止へ

 1966年に反対同盟が結成されて、当初支援に参加したのは社会党と共産党だった。だが、67年11月3日、動労千葉地本を始めとする千葉県反戦青年委員会(中野洋議長)らの主催で「三里塚空港粉砕・ベトナム反戦青年集会」が三里塚第2公園で開かれた。10・8羽田闘争を闘った全学連、反戦青年委員会など1200人がついに現地に登場した。日本共産党は彼らを「暴力学生」「トロツキスト」と非難攻撃したばかりか、彼らを心底歓迎した反対同盟にもデマと中傷を投げかけた。反対同盟は怒りをこめて共産党と絶縁した。運動の創成期において、反対同盟が闘争破壊者の正体を的確に見抜いたことは決定的であった。戸村委員長を始め反対同盟は、この闘争を体制内的な条件闘争にするのか、それとも権力と対決して全学連のように闘うのかを考え抜いて「党派選択」をしたのだ。これが三里塚の原点になった。
 71年の強制代執行での激しい実力闘争の爆発は三里塚農民の根源的怒りの表れだった。社会党、総評、県労連などがこれにたじろぎ現地から撤退する中で、動労千葉は青年部を中心に共闘を堅持した。
 そしてジェット燃料輸送問題が動労千葉を闘いの中心に押し上げた。空港公団が当初計画していた千葉港からのパイプライン輸送計画は、沿線住民の強い反対にあって難渋した。そこで出されてきたのが、国鉄貨車での輸送計画だった。
 動労千葉はただちに「労農連帯」と「運転保安確立」を真っ向から掲げ、闘争態勢を整えた。77年1月、福田赳夫首相は年頭あいさつで「労使安定化」と「成田空港年内開港」の2大スローガンを打ち出した。労働運動から階級性を奪って体制内に取り込む、そして不屈の三里塚をたたきつぶすという攻撃が同時に襲いかかってきたことに対し、真正面から立ち向かうこと以外に選択肢はあり得ない。
 動労千葉は77年12月から78年3月の「100日間闘争」に決起した。第1波闘争は12月3日から5日まで強力順法闘争。総武緩行線だけで300本を超える運休を出し、終日「無ダイヤ状態」を強制した。「ジェット燃料輸送阻止!」と大書されたスローガン列車が、総武線を威風堂々と走った。
 反対同盟は全力で連日各支部を激励訪問し、沿線各駅では支援の労働者・学生がビラまき情宣に立った。
 さらに第2波は1月10日、佐倉、成田両支部を拠点に12時間スト。2月14日から助役機関士が投入され、線見訓練が強行された。第3波闘争はこれを阻止する連日の決起となった。そして3月1日の備蓄輸送開始の日には一番列車をストップする佐倉、成田両支部のストが決行された。
 4月6日の動労千葉地本臨時大会で、「輸送拒否から輸送阻止へ」という方針転換が打ち出された。職場を明け渡さず、ハンドルを握り続けることで闘争を続けていく。これは現場の機関士にとっては燃料を自ら運ぶ苦渋を伴う。だがスト、減産闘争、安全運転行動などの戦術を駆使し燃料輸送を寸断し、備蓄燃料をゼロにするために必要不可欠のぎりぎりの選択であった。激論の末この方針転換は全組合員のものとなった。反対同盟・戸村一作委員長の「農民は土地を武器に、動労は鉄路を武器に闘う」という激励、反対同盟の断固たる支持がこれを支えた。

 動労カクマルと闘って分離独立

 動労千葉にとってジェット燃料輸送阻止闘争は、動労中央を牛耳り「左翼」の装いで闘争を破壊するカクマル松崎一派との激烈な闘いでもあった。
 78年3月、開港を目前にした成田空港の管制塔を占拠・破壊する闘いが爆発し、5月出直し開港へ向けてもゲリラ戦が次々と炸裂(さくれつ)した。
 7月の岡山県津山市での動労全国大会でカクマルは、こうしたゲリラなどを口実に「三里塚闘争と一線を画す」なる絶縁宣言を発した。これに対決し、千葉地本を先頭とする反対派は「三里塚連帯」の修正案を提出し、代議員の4割の支持を得た。カクマルは動労千葉の代議員・傍聴者に対し、会場から宿泊場所まで執拗(しつよう)に陰湿・凶悪な暴力を振るい続けた。
 後に国鉄分割・民営化の先兵となるカクマルは、すでにこの時点で日帝の意を受けた極悪の反革命としての正体をむき出しにして、三里塚と動労千葉に襲いかかってきたのである。
 「統制処分」の脅しに屈服することなく、千葉地本は組合員全員の団結を固め、ついに79年3月30日、国鉄千葉動力車労働組合動労千葉)として動労中央からの分離独立を果たした。カクマル松崎一派の暴力と抑圧に耐えに耐えてきた組合員にとって、血を流してかちとった解放であり、からだを張って貫いた労農連帯であった。
 今日、塩川派が「動労千葉は分離独立すべきではなかった」などと、原点を否定する暴言を吐いているが、それは階級的労働運動に対する敵対であり、何よりも三里塚闘争に対する敵対である。動労千葉は労農連帯をかけて分離独立をかちとったのである。
 日帝国家権力は、78年「開港」の既成事実を突きつけることで、三里塚農民を切り崩そうとした。あらゆる方策で「話し合い」を追求し、条件派への変質を画策しうごめいたのだ。だが、反対同盟は話し合い=条件交渉に応じた一部幹部を厳しく処断し、「農地死守・実力闘争」の原則をあらためて確立した。その原動力となったのが、動労千葉との労農連帯であり、全国全人民の限りない支援と激励であった。
 独立後初めてのストライキが、79年10・22成田運転区支部の12時間の貨物列車ストだった。支部組合員の大部分が地元成田の出身であり、彼らの生活が空港問題と深くかかわっていた。
 この過程は同時に、動労本部カクマルによる「オルグ」と称しての動労千葉拠点事務所に対する度重なる集団的武装襲撃を、組合員が実力で撃退する大激突の連続であった。
 12月27日、国鉄当局は2波のストに対する処分を下した。中野洋書記長への解雇を始め、停職3人、減給11人など106人への大量処分であった。

 条件派化と闘う反対同盟と連帯

 ジェット闘争の最大の決戦は81年3月だった。日帝はそれまで「81年3月」としてきたジェット燃料暫定貨車輸送の期限を「83年末」に延長する攻撃に出てきた。これに対し動労千葉は3月を「延長阻止」の大ストライキで迎え撃った。3月2日の燃料列車指名ストから始まり、スト最終日の6日には全乗務員による全線ストが一糸乱れず打ちぬかれ、1390本の列車が完全にストップした。
 ジェット闘争を闘う現場組合員の合言葉は「ゼニカネの問題じゃない」「おてんとうさまの下を胸を張って歩きたいから闘う」だった。ここに階級的連帯の本質が言い表されている。動労千葉は三里塚闘争の大義を守り、カクマルの暴力と闘い、多くの処分者を出しながらジェットストを闘い、分離独立をかちとった。そこで培われた力で、国鉄分割・民営化=組織破壊攻撃にも立ち向かっていった。
 ジェット闘争の過程は、三里塚における日帝権力の総条件派化攻撃の過程と重なっていた。動労本部カクマルと激突しつつ、後に脱落派に行った青年行動隊と論争し、反対同盟と動労千葉への分断攻撃を打ち破った。
 まさにジェット闘争—分離独立—83年3・8分裂の過程は「車の両輪」として反対同盟と動労千葉が一丸となってなしとげた過程だった。
 反対同盟は日共、カクマル、脱落派らの闘争破壊策動を粉砕し、「農地死守」の原則をとことん貫いてきた。それは動労千葉が新自由主義、労組破壊攻撃と徹底対決し、階級性と団結を守りぬいてきた闘いとまさに相呼応するものであった。
 資本主義が音を立てて崩れようとしている今、この不抜の労農連帯にこそ勝利の確信と展望がある。