2009年11月30日

戸塚秀夫「試論 動力車労働組合運動の軌跡について」を弾劾する〈上〉 大迫達志

週刊『前進』06頁(2418号5面1)(2009/11/30)

戸塚秀夫「試論 動力車労働組合運動の軌跡について」を弾劾する〈上〉
 国鉄分割・民営化=20万人首切りの先兵・カクマル松崎を絶賛する大罪
 大迫達志

 JR総連カクマルとカクマル松崎明に籠絡(ろうらく)されたエセ学者や自称「労働運動家」どもが、国鉄1047名解雇撤回闘争に介入し、JR検修全面外注化攻撃との大決戦の真っただ中で動労千葉労働運動を破壊しようとうごめいている。われわれは、これを断じて許さない。怒りをこめて粉砕し、国鉄分割・民営化をめぐる階級決戦の決着をつける闘いにうってでよる決意である。その闘いの一環として、今号から、動労本部=JR総連カクマル松崎明を賛美し「新たな労働運動」と称揚して国鉄1047名闘争解体に手を貸す戸塚秀夫とその『試論・動力車労働組合運動の軌跡について』への徹底的な批判・弾劾を開始する。

 他労組員の首を切り動労カクマルの生き残り図る

 80年代の国鉄分割・民営化をめぐる攻防は、けっして二十数年前の過去の問題ではない。それは今現在、自治労・社保労組本部をはじめ、小沢・鳩山民主党政権の中軸を担い、ファシスト労働運動と一体化して道州制=公務員360万人首切りに全面協力し、現場の闘いの圧殺に動く連合指導部を打倒する闘いの一環でもある。そうした観点から動労カクマルによるファシスト労働運動の歴史的経緯をあらためて明確にする。
 具体的事実として、動労カクマルという国鉄労働運動内部に巣くった反革命ファシストの存在と所業ぬきに国鉄分割・民営化はあり得なかったことを確認したい。
 80年時点の国鉄職員数は42万人。それが、87年4月JR新会社発足時には21万人に減らされていた。そのほとんどが退職を余儀なくされ、200人を超える労働者が自殺に追い込まれた。当時、最強の労働組合運動といわれた国鉄労働運動の本丸に手をかけ、20万人以上の首を切り、総評を解散に追い込むという日本帝国主義の戦後史を画する攻撃の成否は、ひとえに労働組合指導部のあり方にかかっていた。
 戸塚の主張の概要は、「国鉄分割・民営化という国家をあげた未曾有の攻撃に対して、動労という組織を守り動労の組合員を守るためには、動労本部・松崎明が考え抜いて決断し選択した道以外にはなかった。古い労働運動観、過去の労使関係にしがみついて無為無策のままでいた国労とその点が決定的に違う。『裏切り』などと言われるが、それしかなかったし、むしろ現在に通用する『新しい労働運動』だ」というものである。
 しかし、現実はどうだったか。動労カクマル松崎明は、国鉄分割・民営化過程での20万人を超える首切り(そのほとんどが「自主退職」だ!)のために、当局にもできないあくらつな職場暴力をもって国労のみならず自らの組合員も脅迫し、勧奨退職、一時帰休、出向・派遣に追いやり、追い出していったのだ。200人に上る自殺者の中には、国労組合員だけでなく同じ動労の組合員もいる。「組織を守る」と称してやったことは、動労内のカクマル分子を守ることだけだったのだ。そのために「他労組解体」を叫び、自らの組合員すら切り捨てた。こんなものは労働組合運動とは縁もゆかりもない。こういう連中をファシストというのだ。
 この反革命暴力ぬきに国鉄分割・民営化はありえなかった。そしてこの動労カクマルのファシスト行為か、今日の貧困と大失業を生み出した日帝ブルジョアジーによる新自由主義攻撃の進展を可能にしたのだ。
 安全問題を崩壊させてまで全面外注化・労組破壊に突き進む現在のJR体制も、JR総連カクマルの一連の裏切りと支えがあったればこそ生み出された。戸塚論文はデマゴギーの塊なのである。以下、具体的経過を見ていく。
 国鉄分割・民営化攻撃に先立つ1978年3月、すでに動労本部カクマルは動労定期大会において、4割に達する反対を押し切り、「国鉄貨物の需要が減るのはストライキをやるからだ」として貨物合理化反対闘争を放棄する「貨物輸送安定宣言」と「三里塚絶縁宣言」を強行した。

 「国鉄=国賊」論に屈服し「働こう」運動を打ち出す

 81年3月、第2次臨時行政調査会(第2臨調)が発足し、11月には「戦後政治の総決算」を呼号する中曽根政権が登場した。中曽根は、行革攻撃の頂点に「国鉄の分割・民営化」を据え、今日の社保庁攻撃のような「ヤミ・カラキャンペーン」を大々的に始めた。自民党政権が生み出した20兆円の国鉄債務の責任を「働き度の悪い労働者」に転嫁し、「ヤミ手当」や「カラ出張」を誇大に宣伝し、「ストをやるから国鉄赤字が増える」という厚顔無恥なデマ宣伝がくりひろげられた。
 これに対して動労カクマルは、当局の意向に沿う形で82年1月、『国鉄問題に関する動労の考え方』を発表、「職場と仕事を守るために働き度を高める」という「働こう運動」を打ち出した。「国家意志の攻撃に抵抗してはならない。国鉄の国鉄としての維持のために労使一体で国民世論の喚起をうながす。働き度を高め、輸送需要を開発せよ。自らエリを正し、社会的に許容される労働の体制を」と公言したのだ。これが今、自治労本部が「攻めの民営化対応」として進める「職の確立」「現業活性化」方針の手本となっている。
 しかし現場労働者の怒りが噴き出し「働こう」運動が行き詰まる中、動労カクマルは『83年・我々の組織的課題』と題する歴史的文書の総学習運動を展開した。「国労からの『産報化労使協調路線』とか『資本の軍門に下った動労』であるとかの誹謗中傷」を非難し、「冬の時代だ。総評労働運動は終焉した。この情勢を無視して唯我独尊的に原則主義を押し出し、戦術を引き回すことに断固対決する」として”国労解体運動”に乗り出したのだ。これは「戦術的対応」の次元ではなく、ファシスト労働運動路線への自覚的な踏み切りだった。
 82年5月、第2臨調第4部会は「国鉄の分割・民営化」と新経営形態移行までの「緊急11項目」を発表、「職場規律の確立」「私鉄並みの生産性」、新規採用停止、外注化、あらゆる手当の削減、既得権剥奪(はくだつ)などの組織破壊攻撃が職場に吹き荒れた。

 「雇用守った」という大ウソ

 これに対し動労カクマルは全面屈服し、ブルートレイン添乗旅費手当の返済を決定。現場協議制破棄をも承諾し1万5千人要員削減を承認した。抵抗してスト態勢をとった国労を「挑発者」呼ばわりし、時間内入浴への賃金カット攻撃に対する闘いにも敵対した。まさに国鉄労働運動破壊の突撃隊となったのだ。
 83年8月の動労大会は「職場がなければストもできない。仕事がなければ入浴の必要もない。仕事があってこそ国鉄労働者として生活することができる」と企業防衛主義を満展開し、84年3月には動力車乗務員勤務協定(動乗常勤)改悪を妥結、3万人の「過員」が人為的に作り出された。同年5月、動労臨時中央委で松崎明は「利便性を高める血の犠牲が必要。改憲、安保、自衛隊を認めなければ経営参加できない」と発言し、当局が打ち出した「余剰人員対策」=首切り3本柱の「勧奨退職、一時帰休、出向・派遣」に全面協力した。
 動労カクマルは、50歳以上の労働者は職場を去らざるをえない状態をつくり出した。カクマル分子がベテラン労働者をつかまえて「後進に道を譲れ!」と迫り、ロッカーの中の靴に泥水を入れるなど、さまざまな嫌がらせを組織した。戸塚らの言う「動労は雇用を守った」などというのは真っ赤なウソなのだ。
 85年7月、国鉄再建監理委最終答申が閣議決定され、この時点での国鉄職員27万6千人のうち9万3千人が余剰人員とされ、首切り攻撃が始まった。動労カクマルはこの10万人首切りの先兵として国鉄労働者の前に登場したのだ。

 闘争圧殺の労使共同宣言と「血の入れ替え」を強行

 85年9月、動労千葉は定期大会で「悪者にされ3人に1人が首を切られて黙っていられるか。敢然とストライキに打って出て社会に信を問おう」と満場一致でスト方針を採択。同年11月28〜29日の24時間スト(運休243本)に決起した。
 その結果、国鉄分割・民営化の恐るべき陰謀は暴かれ、社会問題化・政治焦点化することに成功した。国論を二分する議論が始まった。
 さらに国鉄労働者の総決起を切り開く突破口が切り開かれた。スト破りを拒否した国労千葉の組合員が決起。力関係の逆転が始まった。組合員の屈服を迫るために当局が行った「進路アンケート調査」に対して国鉄労働者の52%、動労千葉は全員、国労は7割が白紙回答を出し、当局に手痛い打撃を与えた。
 国鉄分割・民営化計画が労働者の反乱で瀬戸際の危機に陥る中、86年1月、動労、鉄労、全施労は、当局と「労使共同宣言」を結んだ。「国鉄改革は国民的課題」「余剰人員問題の解決(=12万4千人首切り)は最大のテーマ」とし、「労使が一致協力して取り組む」「諸法規遵守(ストも順法闘争も放棄)」「リボン・ワッペン不着用、氏名札の着用」「点呼妨害など企業人のモラルにもとる行為の根絶」「必要な合理化は積極的に推進する」「余剰人員対策、派遣制度、退職勧奨、希望退職制度の目標達成」とまで誓った。単なる裏切りではなく、まさに資本の奴隷頭として「国鉄改革・首切りの先頭に立つ」と宣言したのだ。
 2月、動労千葉は処分粉砕・業務移管攻撃粉砕で線路見習い訓練(線見訓練)阻止闘争をまる1カ月間闘い抜き、さらに第1波を上回る千葉全線区の第2波ストライキに決起、運休本数は602本に達した。
 これに対し3月、動労カクマルは、広域異動によって首都圏の国労・動労千葉組合員を追い出すことを狙った「血の入れ替え」攻撃に北海道・九州の動労組合員を駆り出し、東京・大阪の国電区間の運転士はほとんど動労に替わった。
 さらに86年4月、国労内カクマルが国労破壊のために「真国労」をデッチあげた。当局は「人材活用センター」を設置、2万1千人を隔離・収容する攻撃に出た。動労は「国労をつぶし総評を解体する」(松崎)と公然と表明して総評を脱退。国鉄分割・民営化にかけた中曽根の意図を体現する先兵となった。
 こうした中で、当時16万人の国労は、「タコつぼ」方針をとる本部の対応不能状態の中で、組合員が毎月1〜2万人脱退する状況に追い込まれた。自殺者は200人に達した。当局と組んだファシスト・カクマルの陰惨な暴力の結果だ。
 86年8月、動労と鉄労、全施労、真国労が「第2次労使共同宣言」を締結した。「分割民営化の推進」を明言、「争議権を自粛」「新会社を担う職員は勤労意欲がある職員であるべし」とうたい、新会社への選別・排除を当局と確認した。
 しかし同年10月、国労修善寺大会において、国労組合員は「労使共同宣言」路線を拒否し、民同執行部を打倒した。12月、当局の「配属先希望調査票(意思確認書)」に対し、動労千葉は全組合員が「一本書き」で対決した。87年1月、国労組合員や動労千葉の闘いに危機感を募らせた動労カクマルは、当局に対し「採用枠を削ってでも国労や動労千葉の首を切れ」と緊急申し入れを行った。他労組の首切りまで要求するファシスト労働運動としての変質はここにきわまった。
 87年2月16日、新会社不採用で国労・全動労・動労千葉など7628人の労働者が清算事業団送りになり、4月にJR新会社が発足。職員数は21万人となり、80年〜87年で21万人削減が強行された。しかし89年12月、動労千葉のストライキに続き、90年3月、国労と動労千葉がストライキに決起し、ついに4月から1047名解雇撤回闘争が始ったのである。
 歴史の全過程が、動労カクマル松崎明の大罪を証明している。何が「新しい労働運動」(戸塚)なのか。まさに帝国主義の危機の時代におけるファシスト労働運動だ。
 2010年4・1JR検修全面外注化絶対阻止! 10春闘で国鉄決戦の爆発をかちとり、全労働者の手でJR総連カクマルを打ち倒そう!