2010年2月 1日

革命的共産主義運動の飛躍かけ国鉄決戦の歴史的勝利切り開け 青年労働者を先頭に外注化阻止決戦へ 大倉総一郎

週刊『前進』08頁(2425号7面1)(2010/02/01)

革命的共産主義運動の飛躍かけ国鉄決戦の歴史的勝利切り開け
 青年労働者を先頭に外注化阻止決戦へ
 大倉総一郎

 革命派が労働運動の主流に躍り出る時代がついに来た

 革命的共産主義運動は、帝国主義ブルジョアジーと全面的に闘い、プロレタリア世界革命の勝利に向かって突き進む激動の時代へ突入した。大恐慌が進行し、深化し、大失業と戦争の時代に突入し、リーマン・ブラザーズやゼネラル・モーターズ(GM)、日本航空など基幹産業の連続的破綻が全世界的に進行している。階級支配はもはやガタガタであり、プロレタリアートが待ちに待っていた情勢である。
 資本主義体制は、文字どおり歴史的命脈が尽きた。しかし、帝国主義は延命するために争闘戦を激化させ、プロレタリアートを街頭へ放り出し、市場・資源の略奪戦に突進し、侵略と戦争へ向かっていよいよ地獄への道に突き進んでいる。この情勢そのものが、革命党にとって階級的労働運動を爆発させ、帝国主義体制を打倒する歴史的情勢である。革命的情勢は完全に成熟しているのだ。
 革命的共産主義運動は、長期にわたる闘いによってついに、最末期帝国主義の新自由主義攻撃の完全な破綻を主体的に引き寄せた。世界大恐慌の爆発によって、階級闘争は、この大恐慌をプロレタリア世界革命に転化するか、逆に資本主義の救済に走るかの非妥協的な党派闘争として激しく進展し始めた。帝国主義に屈服した勢力はこの情勢の中で淘汰(とうた)され、純化されて、11月労働者集会派だけが階級的に闘う勢力となった。
 既成政党は完全に体制内化した。資本の救済者として襲いかかったファシスト勢力は反動・反革命の烙印(らくいん)を押され、青年労働者を獲得する路線も思想も持てず、力を失った。あらゆる反革共同分子は今や民主党・連合政権のちょうちん持ちとなり、階級的労働運動と動労千葉労働運動を破壊するためにうごめいている。反マルクス主義勢力は、プロレタリア革命に絶望して敵対勢力と化した。
 われわれはこの時代に、動労千葉派、11月労働者集会派として、民営化絶対反対・道州制絶対反対派として登場した。そして今、階級的労働運動の力で、党と労働組合の力で、綱領草案を武器に労働者階級の新しい時代、すなわちブルジョア国家権力の打倒・プロレタリア独裁の樹立から共産主義社会建設へと突き進む時代の重大な関頭にいる。
 プロレタリア独裁への道を一挙に闘いとるために、連合はもとより日本共産党スターリン主義やカクマル反革命、国鉄1047名解雇撤回闘争における4者4団体派などに示される一切の反動・反革命・体制内派と激突し、労働運動・労働組合運動の戦場で徹底的に闘うことが階級闘争を発展させる道である。
 国鉄決戦はその最大の突破口であり、歴史的転換点となる闘いだ。検修全面外注化攻撃こそ、日帝ブルジョアジーとJR資本が追いつめられて仕掛けてきた団結破壊、組織破壊の大攻撃である。JR資本とJR総連カクマル・松崎との結託体制の崩壊、要員問題、安全問題が一挙に爆発している。この中で動労千葉派が労働運動の主導権を握る勢力に成長したことに敵は恐怖して、この攻撃をかけてきたのだ。
 この決戦に勝利し抜くために、革命的共産主義運動と戦後労働運動、日本階級闘争の歴史において、国鉄決戦のもつ位置の大きさをあらためて明確にしていきたい。

 戦後日本労働運動の戦闘的発展を牽引した国鉄の闘い

 革命的共産主義運動の創成は、1955年の日本共産党の6全協(第6回全国協議会)を契機とした、戦後革命敗北の総括などをめぐる日本共産党内部での徹底的な党内闘争を出発点とした。そして砂川闘争(56年)、国鉄新潟闘争(57年)、勤評闘争(57年)の爆発に示される日本労働者階級の戦闘性の確認と、この戦闘的闘いに敵対する社会民主主義とスターリン主義の裏切りをのりこえる闘いとして出発した。さらに、56年のソ連共産党第20回大会でのフルシチョフ秘密報告(スターリン批判)とハンガリー労働者の蜂起を主体的に受けとめ、スターリン主義と決別した「社共に代わる労働者党の創成」を掲げて遂行された。
 戦後革命期に党派として最大の影響力をもっていたのは、日本共産党である。したがって、1950〜60年代の階級闘争は、日共スターリン主義と闘って勝利する度合いに応じて前進した。それは、日共スターリン主義の裏切りをのりこえ、反スターリン主義・革命的共産主義運動が国鉄(と全逓)を中心に組織的中核をつくり戦闘的闘いを開始し、日本階級闘争の主導勢力として前進してきた過程でもあった。
 50年代前半、階級闘争の主役の位置にあったのは電産と炭労である。朝鮮戦争突入直後の1950年7月、米軍・GHQ(占領軍総司令部)の肝いりで結成された総評は、半年もたたずに急速に左転回した。ブルジョアジーは、総評の最前列に躍り出た電産の弱体化を狙い、「電力9分割」攻撃を仕掛けた。単一産業別組合の電産は当時、発電・送電事業を一手に引き受ける全国企業で総評の強力な闘争力の源泉になっていた。
 52年の電産争議は、96日間のストライキ、28波の電源ストライキ、6波の停電ストライキで闘われた。しかし、資本は企業別組合(第二組合)を結成し労働者を分断した。日共スターリン主義はこれと闘わず、闘いは大敗北に追い込まれた。日本帝国主義は、戦後革命を最終的にたたきつぶし、労働運動の体制内化を図ることに全力を挙げたのだ。

 国鉄新潟闘争の衝撃

 55年体制形成のもと、57年2月の岸内閣成立は新たな階級的激突の開始となった。岸は日米安保体制を全力で推進し、日帝の侵略帝国主義としての再確立を図るとともに、労働運動への全面的攻撃を開始した。労働者階級はこれとの正面対決に立ち上がった。
 57年春闘は最低賃金制の確立を求める闘争と重なり合って前進した。春闘が初めて労働者階級のものとなったとも言えた。国鉄では3月に抜き打ちストが至る所で闘われ、電車は立ち往生した。国鉄闘争が階級闘争全体を牽引(けんいん)し始めた時に、総評指導部は春闘を質的に高めるのではなく意識的に退却を開始した。これをみた日帝は、国労など公労協に対する大量処分を嵩(かさ)にかかって追い打ち的にかけた。
 この処分攻撃に対する粉砕闘争として最も激しく闘われたのが国鉄新潟闘争である。北陸地本では7人の逮捕、広島では解雇1人を含む250人の処分、門司では2248人、高崎では1522人の処分が次々と出された。これに対して7月から新潟、北陸を先頭に勤務時間に食い込む職場集会、抜き打ち職場大会が63カ所で開かれ、旅客・貨物列車の大幅な遅延を出した。新潟地本は7月13日、23カ所で職場大会。14日、新鉄局の権力導入要請に対し、約60カ所で職場離脱で闘う。
 この時に国労中闘の細井宗一は現地で当局とボス交に入り、職場大会は一時中止。この交渉の過程で長岡署が地本幹部5人を逮捕。地本は交渉を打ち切り、闘争は再び爆発過程に入った。新潟地本は15日、無期限の職場大会を指令した。
 驚いた国労中闘は、事態を収拾すると称して、闘争を中止し交渉を中央に移す決定をする。総評は国鉄闘争の中止を支持する。日共も「中闘が決定した。社会党も動かない。だから中止を支持する」と裏切りを合理化した。
 新潟地本の執行部は15人(日共8人、非日共の革同7人)で、新潟闘争を指導したのは無党派革同であった。新潟地本は約1万3000人の組合で、その中に2000人ぐらいの戦闘的活動家がいたと言われている。
 国鉄新潟闘争は、戦後革命期を除くと最も激しい全国的実力闘争であった。それが、砂川闘争、57年春闘の高揚を背景に闘われた。これらの闘いは当時の学生運動に、58〜59年転換といわれる激甚な影響を与えた。それは、革命的左翼が60年安保闘争を主体的に準備する過程でもあった。
 この新潟闘争の感動で、国労や機労(後の動労)の青年労働者が革命的共産主義運動のもとに結集することになる。いずれにせよ、新潟闘争の最大の教訓は党の問題だったのである。

 港地区委員会の獲得

 さらに学生運動の戦闘的転換とともに日共細胞の中で激しく党内闘争が行われ、革命的左翼の闘いが前進した。
 それは、日本共産党の東京・港地区委員会をどう革命的左翼が獲得したかということである。安保闘争の助走期、「港区青年学生共闘会議」の活動があった。いくつかの日共細胞の中に革命的左翼の力が形成された。共闘会議は、日共党員をオルグする絶好の条件を形成した。ともに革命運動をやる同志になる労働者に食らいつき、人間関係を深め、スターリン主義批判の理論闘争に勝利し、最終的に獲得した。
 そこでも、砂川闘争、国鉄新潟闘争の生き生きとした報告がオルグの力になった。今でいえばランク&ファイルの闘いを実践したのである。日共港地区委員会の獲得は、日共の地区組織を下から切り崩した点で特筆に値することであった。
 ここで普遍的にはっきりさせたいことは、1人の労働者や学生をこうした討論をとおして行動に立ち上がらせることは、その行動の意義を自己の内部に確認し、自己の思想としていく努力と一体だということである。そこでは、相手の感情と意識に密着して行動することと、それを真の階級的立場に高める意識的闘争とを現実に結合することが求められ、その両面において鋭い党派闘争が展開されるのである。これらの実践は今日すでに青年労働者や学生の闘いの中で開始されているが、歴史的経験としても確認したい。

 船橋事故闘争の地平

 1960年の三池闘争では、炭労の場合、一筋縄ではいかず、結局、三井三池の攻防に煮詰まった。しかしそれは、それを指導した社会主義協会派(向坂理論)の限界を露呈し、総労働と総資本の闘いと言われた三池闘争を最後まで闘うことを放棄して敗北する。まさに国家権力と闘うことを否定する協会派理論のなせる技である。
 革共同の歴史は、国鉄労働運動と全逓労働運動がその中心に存在した。3全総路線によるカクマルとの分裂は、三河島事故(62年・死者160人)、鶴見事故(63年・死者161人)に対し、前衛党とはどうあるべきかが問われたことが根底にあった。すなわち、反合理化闘争をどう闘うかで激論になり、松崎らは階級的労働運動路線を独自につくっていくことに反対し、民同の懐に飛び込んだ。そして反合理化闘争を闘うことから逃亡し、組織的にも革命的共産主義運動から脱落した。
 カクマルの逃亡と敵対をのりこえ、600万人の労働者が64年4・17ストライキ闘争へ決起した。
 このストに対して、日本共産党は4・8声明で歴史的裏切りに走る。ストは「アメリカ帝国主義と日本の売国反動勢力」による「挑発」だと開き直ったのだ。共産党は決定的段階で必ず闘争破壊者として登場するという認識が労働者の中に広がり、日共は労働者階級に対する影響力を完全に喪失していった。
 国鉄では67年の5万人合理化、機関助士廃止反対闘争を青年労働者が先頭に立って闘った。この力は反戦青年委員会運動として発展し、70年安保・沖縄決戦として爆発する。日帝が労働運動つぶしのために仕掛けたマル生(生産性向上運動)攻撃は、安保・沖縄闘争の高揚を背景として粉砕される。そして71年11月の全国マル生大会を中止に追い込む大勝利をかちとった。
 この闘いの過程で船橋事故(72年)が起こる。動労千葉は、事故は合理化の結果だとはっきりさせて断固闘いに立ち上がった。一切の屈服や妥協を排し、「奪われた労働条件を奪い返せ」を合言葉に反合理化・運転保安闘争路線を確立し、労働者の自己解放的決起を徹底して解き放ち、階級的団結を打ち立てる闘いを闘いぬいて勝利した。
 75年の8日間のスト権ストは、一言でいえば総評の最後のあだ花である。この中でカクマル松崎は「闘っても無駄だ」と公然と敵対を開始する。70年代は、動労青年部をめぐる動労本部と千葉地本との激しい党派的激突となる。
 この過程で特筆すべきは、78年全逓反マル生闘争の爆発である。全逓労働運動史上初めて年末年賀郵便物の取り扱いを拒否し、4億3000万通の滞貨を出すすさまじい闘争が闘われた。
 80年代の国鉄分割・民営化攻撃は、日帝ブルジョアジーがファシスト・カクマルを使って国鉄労働運動の解体—総評解体に全力を挙げた攻撃だった。しかし、79年に動労本部から分離・独立した動労千葉は、処分を恐れず徹底的に闘い、その闘いをとおして全国鉄労働者に国鉄分割・民営化粉砕への総決起を呼びかけ、今日の1047名闘争団をつくりあげた。昨年12月の動労千葉鉄建公団訴訟では、動労千葉つぶし、国労つぶしのために当局とカクマルが結託して強行した首切りの実態が完全に暴かれた。

 二組に逃亡した日共

 日本労働運動は、党派闘争の歴史である。日共スターリン主義と反革命カクマルの裏切りを徹底的に粉砕する闘いとして闘われてきた。
 60年代、70年代は、民間基幹産業の大合併の嵐が吹き荒れた。ブルジョアジーはその中で、労働組合に対する分裂と破壊・解体の攻撃を次から次へとかけてきた。この過程で日共スターリン主義が果たした役割は犯罪的である。
 日本最大の造船所(1万3000人)であり、当時の全造船の最精鋭の組合であった三菱長崎造船分会では、60年安保の過程で日共細胞が分裂し、革命的左翼が長船社研として独立した。ブルジョアジーはここに、三菱3重工の合併を契機に公然たる組合分裂攻撃を仕掛けてきた。長船社研は、日共や総評民同・社会党が無防備・無方針に終始する中、敵の第二組合づくりと必死に格闘して第一組合の旗を守った。
 問題は、石川島と播磨の合併の時である。この時に、日共は破廉恥にも第二組合に逃げ込んだ。当時の石川島は組合員1万人である。全造船脱退をめぐる投票が70年11月に行われた。賛成7000票に対して3000票の反対があった。しかし、3けたの勢力であった日本共産党は、全造船脱退反対運動から脱落して第二組合へ走った。第一組合の旗を守ったのは、石川島分会の委員長だった佐藤芳夫氏(後に全国労組交流センター代表)と、革共同が組織した造船社研である。
 日共スターリン主義の裏切りの立場を決定的にしたのは「自主独立路線」への転換であった。要するに一切の闘いを議会主義へとスターリン主義的に流し込み、労働現場での争議はもっぱら裁判所に対する幻想をあおる裁判闘争に純化することとなるのである。
 このように、日共スターリン主義やファシスト・カクマルとの闘いを貫いて勝利してきた日本労働運動は、動労千葉労働運動の前進を先頭に今日、階級的労働運動として驀進(ばくしん)を開始し、最大の決戦に突入している。それが帝国主義が大恐慌へ突入した中での検修全面外注化阻止決戦である。この決戦は、必ず勝利できる闘いである。

 反合・運転保安闘争路線を貫いて青年労働者の獲得へ

 反合・運転保安闘争路線は、09年決戦が切り開いた地平の大きさの上にそれをさらに大発展させる闘いである。
 09年11・1労働者集会は、1047名解雇撤回・農地死守・国際連帯の闘いとして大高揚した。この前進は、職場生産点での資本との非和解的闘いの実践をとおして切り開かれた。それは三里塚反対同盟の農地死守と一体化する闘いであり、民営化絶対反対の闘いであった。階級的団結論を基軸に絶対反対論、組織建設論として闘い、さらに国鉄を基軸とする4大産別決戦論として闘ってきた過程であった。具体的には大失業と戦争、道州制粉砕、〈戦争・改憲と民営化・労組破壊〉との闘いであった。
 検修外注化阻止・1047名解雇撤回闘争は、今日の新自由主義攻撃のもとでのブルジョアジーの合理化攻撃と、それによる安全問題・事故問題の爆発をめぐって闘われる。
 反合・運転保安闘争は第一に、資本の合理化攻撃という、労働者への分断と団結破壊の攻撃に対して真正面から立ち向かい、逆に階級的団結を奪い返し、拡大し、闘う労働運動を甦(よみがえ)らせる闘いである。合理化・外注化を切り口とする分社化・子会社化によって一気に進行する大々的な非正規雇用化攻撃を打ち破り、正規と非正規の労働者の階級的団結を構築していく闘いである。
 第二に、合理化・外注化によって不可避となる安全・事故問題の重大化を労働者への重圧に転化することで、労働者をますます資本の鉄鎖に縛りつけようとする攻撃に対し、全労働者の根底的な怒りと自己解放的決起を解き放っていく闘いである。資本の攻撃を逆に敵の破綻点としてとらえ、突きまくり、階級的力関係をひっくり返し、6000万労働者を圧倒的に獲得する闘いだ。
 第三に、安全・事故問題は資本主義にとって解決不能の問題であり、資本主義の根本的な矛盾と破綻をさらけだす。反合・運転保安闘争は合理化絶対反対を貫くことをとおして労働者階級と資本との絶対非和解性をはっきりさせ、資本主義社会そのものの転覆、プロレタリア革命に向かって攻め上っていく闘いである。資本主義の労働力商品化と価値法則の廃絶をかちとる闘いの根幹にかかわる決戦だ。そうした意味で、スターリン主義を始めあらゆる体制内勢力との熾烈(しれつ)な党派闘争に勝ち抜いて、労働運動の現場にマルクス主義を甦らせていく決戦であり、階級的労働運動の生命線的な闘いである。
 したがってこの闘いは、闘う労働者が職場の支配権を資本の手から実力で奪い取る闘いであるとともに、資本に屈服する一切の勢力を打倒して職場に本物の階級的団結を築き上げる闘いである。何よりも国鉄労働運動で、動労千葉、動労総連合、国労共闘を中心とした11月労働者集会派が真の主流派になる闘いに勝利することだ。それをとおして闘う労働組合・闘う労働運動を4大産別を先頭に全国全職場に甦らせ、日本労働運動の爆発的発展をつくりだす闘いである。
 すでに動労千葉はその先陣を切って、ライフサイクル第3次配転撤回、検修・構内業務外注化阻止のストライキに断固突入した。この闘いに続き、検修全面外注化阻止・1047名解雇撤回の国鉄決戦を全労働者階級の総力を挙げた決戦として闘いぬこう。
 ここにおいて、カクマル・JR総連のファシスト労働運動の完全打倒・解体とともに、日共スターリン主義と協会派を打倒する闘いが決定的だ。
 協会派(チャレンジグループ)は、国労5・27臨大闘争弾圧に示されるように組合員を警視庁公安部に売り渡すまでに転落した。しかし、これは突然起こったことではない。彼らはロシア革命を忌み嫌い、「平和革命論」を唱える。協会派の「平和革命論」は、議会で多数をとる運動である。その自己目的的追求が国家権力との癒着であり、労働者の階級的誇りと尊厳を足蹴にした、闘う労働者への襲撃である。それが5・27臨大闘争弾圧であり、現在的には民主党・連合政権への奴隷以上の屈服した姿なのである。
 勝利の道は、青年労働者を闘いの戦列に獲得すること、この一点にかかっている。未来を丸ごと奪われている青年労働者に、プロレタリア革命の中にこそ生きる道があることを真っ向から呼びかけ、階級的労働運動の隊列を塗り替えるような青年労働者の一大決起をつくりだそう。
 革共同政治局の本年1・1アピールが提起したように、職場生産点での日常活動をとおして職場細胞(経営細胞・工場細胞)を建設し、この職場細胞の実践を基礎に党の飛躍と労働組合の変革を闘いとろう。職場生産点での革命党の実践は、ストライキの中に革命のヒドラが宿っているように、変革に次ぐ変革であり、党と労働組合の限りない一体性をかちとっていく闘いである。
 階級的労働運動の司令塔として、全国労組交流センターを圧倒的に強化しよう。国際連帯闘争を発展させ、世界へ飛び立とう。革共同機関紙『前進』を熟読し、拡大する活動を、職場細胞建設の基軸に据えて闘おう。何よりも労働者出身の階級の指導部をぶ厚い「層」として建設しよう。検修全面外注化阻止・1047名解雇撤回の2〜3月国鉄決戦に総決起し、2010年の歴史的勝利を切り開こう。