2010年2月15日

第2次再審勝利へ 松川事件の地元から 福島・取り戻す会呼びかけ人 根本敏子

週刊『前進』06頁(2427号6面2)(2010/02/15)

第2次再審勝利へ
 松川事件の地元・福島から
 敗戦の年から共産党で闘った日々
 星野さんの闘いは私が目指した道
 福島・星野文昭さんを取り戻す会呼びかけ人 根本敏子

 私は、星野文昭さんのことを考える時、昭和の初めころの東京地裁「判事赤化事件」(注①)のことを思い出します。

 「判事赤化事件」

 私は、戦争中、函館で東日本造船函館工場に勤務していました。そこは陸軍省の暁部隊発注の特攻舟艇を建造する工場でした。日本人のほか、朝鮮人、中国人も多数働かされていました。隣に樺太繊維という会社があって、毎朝出勤する時に顔を合わせてあいさつする40歳くらいのおじさんがいました。後にその人が判事赤化事件で懲役刑になり、9年間服役して出てきた人だということを知るのです。東京地裁の書記官で、裁判官の中に共産党のシンパ組織をつくっていたというので治安維持法にかかったのです。
 敗戦の年の12月に、会社は解散したのですが、その12月に函館で獄中18年の徳田球一が来て共産党の演説会が行われました。私は20歳でしたが、共産党の話が聞きたくてその会場に行きました。親には「友だちのところに行く」とかごまかして、晴れ着着て。するとその受付に、毎朝あいさつをしていたおじさんがいたのです。「よく来ましたね」ということで、それから1週間、共産党の事務所に通い詰めて話を聞きました。
 その演説会は500人以上の盛会でしたが、徳田球一が登壇して「諸君!」と言った途端に会場にいた右翼が壇上に殺到して、電気は消え、大混乱になりました。
 そのおじさんが西館仁という、後に共産党の北海道委員長、中央委員にもなった人です。「星野さんのように」と言いたいくらい、崇高な人でした。私は星野さんのことを最初に聞いた時、西館のことを思い出しました。そういう共産党との出会いがありました。
 当時、「天皇制打倒」「人民政府樹立」「宣伝扇動し組織せよ」という三つのスローガンが私の頭を占領していました。
 青年共産同盟に入って活動しました。北海道大学の水産学部の学生と一緒に。47年の2・1ストのころですが、私はメーデー歌とか赤旗の歌などの歌唱指導などしてわりとふわふわしていました。
 その後、労政事務所に勤めて、役所として労働組合の結成を指導する仕事もしました。その時に、国労青函船舶支部の委員長をやっていた根本佐喜治と知り合いました。小蒸気船の船長たちが山猫ストに入った時に、彼はストを組合指令に切り替え、それが政令201号に違反するとして懲戒解雇になりました。

 北海道庁を解雇

 49年の8月に松川事件(注②)があって、9月にレッドパージ(注③)がありました。北海道庁で56人が突然解雇され、私もその1人でした。松川事件では、共産党は10円パンフを作ったんですが、それはすごく売れました。私はパージされた身だったけど、函館地区の国鉄官舎などに軒並み入れました。1人で何百と売りました。松川事件の支援は本気になってやりました。
 50年に共産党の分裂と、占領軍による共産党幹部の追放があり、朝鮮戦争があって、当時私の家に共産党の幹部をかくまったというデッチあげで家宅捜索をされたこともあります。
 また、52年に破壊活動防止法(注④)が成立して、私はその第1号の逮捕者になりました。中国の日本向け放送をマスプリしてばらまいたのが破防法38条の外国の教唆扇動だと言うのです。不起訴でしたが、北海道で12人が逮捕されました。共産党は、この弾圧に対する反撃を何もやりません。パージの時も、逮捕の時も、共産党は冷たかったです。このころ私の共産党に対する不信感は強く、結局共産党を離れることになりました。

 三里塚と出会い

 54年に福島の二本松にいた根本と結婚し、それ以来福島で学習塾などを開いて生活してきました。福島は松川事件の地元ですから、こちらに来てから最終的に無罪をかちとるまで、カンパとかそれなりの支援はしました。
 78年に三里塚支援を訴える署名運動の学生と出会い、感動して80年以来三里塚闘争に決起しました。福島県実行委員会の連絡先にもなりました。79年に根本は亡くなったけど、彼も戸村一作委員長のファンでした。
 私は世の中を動かしているのは労働者だと思っています。多少ジグザグはあっても、絶対それは信じています。西館の獄中9年の闘いにはそれが刻まれているし、星野さんの35年はあまりにもすごいと思います。星野さんの闘いには、私が目指してきたものが凝縮して詰まっていると思います。労働者が主人公の社会をつくるために、闘っている皆さんと一緒にありたいと思います。
 肺がんを患い、最近は目も耳も悪くなりましたが、星野さんを奪い返すために、できるだけのことをしたいと思います。

【注①】判事赤化事件 32年11月に東京地裁判事・尾崎陞(のぼる)と書記4人が共産党のシンパとして治安維持法違反で逮捕・起訴された事件。
【注②】松川事件 49年8月、東北本線松川駅付近での列車転覆事件。国鉄などの人員整理に反対する共産党員らの暴力行為として党員・労組員らがデッチあげ逮捕され、一審、二審で死刑・無期など有罪判決が出たが、最高裁で63年全員無罪が確定した。
【注③】レッドパージ 共産党員とそのシンパを公職・企業から追放する攻撃。日本では49〜50年、GHQ(連合国軍総司令部)の指令により、大規模に行われた。
【注④】破壊活動防止法 
「暴力主義的破壊活動を行った団体」を取り締まるとして52年に制定を強行された治安弾圧法。戦後版治安維持法。