100万署名で星野解放を② ウソとデッチあげの供述証拠

週刊『前進』08頁(2651号08面01)(2014/10/06)


100万署名で星野解放を②
 ウソとデッチあげの供述証拠

(写真 渋谷区・神山交番前を進むデモ隊。矢印が星野さん【1971年11月14日午後3時19分=警察官撮影の写真】)

 星野文昭同志は、1971年11月14日、米軍基地を強化、永続化するための「沖縄返還協定」の批准を阻止するために最先頭で決起した。
 闘いの爆発に恐怖した日帝・国家権力は、東京都内のデモを禁止し、1万2千人の機動隊で厳戒体制を敷いた。午後3時過ぎ、小田急線代々木八幡駅を降り立った星野同志を先頭とするデモ隊は、労働者・学生・人民と合流するために、渋谷を目指して進んだ。途中、神山交番前で27人の機動隊が阻止線を張っていた。約200人のデモ隊の怒りは、一瞬にして機動隊を粉砕した。その過程で、最後までガス弾を発射してデモ隊を攻撃していた機動隊員が、神山十字路付近でデモ隊に捕まった。
 星野同志はその現場を通り過ぎ、十字路に立った。NHK方向からの機動隊の襲撃を警戒しながら、機動隊との衝突で乱れたデモ隊をまとめ、一刻も早く渋谷に突入するためだった。こうして、デモ隊は渋谷の東急本店前に到達し、万余の労働者・学生と合流して深夜まで激しく闘いぬいた。

「殺人罪」の恫喝

 デモ隊に捕まった機動隊員が翌日死亡した。検察・警察は、デモ隊のリーダーだった星野同志に狙いを定め、デッチあげ弾圧を開始した。星野同志が高崎経済大学の学生だったことから、翌年2月になって、群馬の学生が集中的に逮捕された。検察・警察は、毎日、「殺人罪」の恫喝を加えながら長時間にわたる取り調べを強行した。「星野がやった」と言うまで、徹底的に攻撃した。取調室で、親に学生を殴らせた検察官もいた。
 こうして、6人の学生のウソの「供述調書」が捏造(ねつぞう)された。6人のうち3人は少年であった。
 83年7月、東京高裁・草場良八裁判長は、星野同志に無期懲役の判決を出した。判決は、星野同志が機動隊員を鉄パイプで殴打し、「火炎びんを投げろ」と指示したと認定している。物的証拠は一切ない。根拠にしているのは、6人の虚偽の「供述調書」だけである。うち5人は、裁判で「取調官の強制と誘導でウソの供述をした。星野さんを見ていない」と証言している。
 Kr証人は、現場に連れて行かれた時、殴打現場そのものが分からずに通り過ぎてしまった。何もわからなかったが、「全部警察官に教えられた」「現場の位置関係について、あらかじめ石墨で道路に書いてあった」さらに、「記憶の事実を離れて、調書が検察に都合よく作成されていった」と公判廷で怒りを込めて証言している。

無実を示す写真

 にもかかわらず、裁判所はそれらをすべて抹殺して、星野同志を無期懲役にしたのだ。
 2008年7月、第1次再審の特別抗告審で、最高裁は、「星野同志がきつね色の服を着ていた」というKr供述は間違いで、星野同志は薄青色の服を着ていたことを認めた。これは、Kr供述が虚偽であったということだ。ところが、「後ろ姿」や「声」で星野同志を特定できたと強弁して、再審請求を棄却した。
 第2次再審では、殴打現場通過後に警察官に撮られた星野同志の写真が開示された。星野同志が持っている白い紙が巻かれた鉄パイプはまったくきれいで、何の損傷もない。これこそ、星野同志が機動隊員を殴打していない証拠だ。しかし、東京高裁は写真が少し不鮮明なことを利用して、「損傷らしき痕跡が確認される」などと言いなし、再審を棄却した。
 現在、異議審の段階でその写真の精細なネガデータが開示された。これをもって星野同志の無実・デッチあげをなんとしても明らかにしよう。
 国家権力は、無実の星野同志を40年間も獄中に閉じ込めている。心底からの怒りで、星野同志を絶対に奪還する。
 11・2労働者集会と、11・29星野全国集会の大結集こそその力だ。100万人の署名運動に打って出よう。
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