大木よねさんの思い出 三里塚、半世紀の闘いの礎石 北海道 沢口達也

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週刊『前進』06頁(2672号06面06)(2015/03/09)


大木よねさんの思い出
 三里塚、半世紀の闘いの礎石
 北海道 沢口達也

(写真 大木よねさん)


 1971年、三里塚で機動隊が反対同盟の大木よねさんを襲い、家屋を奪って破壊した。しかしよねさんは、すぐ空港二期工事区域の東峰に小さな家を建て、亡くなるまで闘いを続けたのである。
 私が初めて三里塚の地を踏んだのはその翌年、大学の夏休みのこと。その後よねさんが亡くなるまで、よねさん宅に7、8回援農に入った。
 「権力がか弱い老婆の家を奪った」――私はこんな勝手なイメージを持っていた。ところが、実際のよねさんは「か弱い老婆」どころか「仁王様」だった。私は「仁王立ち」という言葉によねさんを連想してクスッとなる。
 「おめえは若いのにひょろひょろで色が白い。だからニンニクを食って元気をつけろ」。そう言ってニンニクのしょうゆ漬けを私にさし出した。恐る恐る一つ口にする。「もっといっぱい食え」。もう2、3個食べる。たちまち顔がぽっぽっと火照ってきた。
 よねさんは、軽妙ではっきりした語り口。歯に衣(きぬ)を着せず遠慮なくものを言う。私は、たちまちよねさんのファンになった。
   ◇
 その頃、よねさんと一度だけ闘争の場をともにした。「二期工区立会署名式」粉砕闘争である。夏のある日、反対同盟と現地にいた学生50人くらいで、空港そばの屋外式場に向かった。
 空港公団も式典警備にまで機動隊を使うわけにはいかない。百戦錬磨の反対同盟はこの式典を「たちまち粉砕」するようなことはしなかった。猫がネズミをなぶるように「楽しんで粉砕」した。
 よねさんは、公団職員を次々とひっ捕まえて追及の嵐を浴びせ、水を得た魚のような大活躍だ。
 最後に式場真ん中に「仁王立ち」した北原鉱治さんが、憔悴(しょうすい)した公団職員たちをしり目に、勝利の凱歌(がいか)をあげた。
    ◇
 よねさんの闘争宣言に「今まで生きてきた中で闘争が一番楽しかった」という言葉がある。それは私にとって「目からウロコ」だった。
 この社会の中に資本の抑圧から逃れる場所などありえない。人はその抑圧に立ち向かう時だけ、人間らしさを取り戻し、人間同士のほんとうの信頼関係を築くことができる。だから本来闘争は楽しいものなのだ。
 そうは言っても、闘争は苦しい場面の連続である。だから闘争をいつも楽しんでいる人はまずいない。
 それでも「今まで出会った人の中で、いつも生き生きとしていた人」と問われたら、私は迷わず大木よねさんと市東東市さんの名をあげる。
    ◇
 私はデモで東峰の旧よねさん宅を通るたびに、しばしよねさんの思い出にふける。
 私はよねさんが亡くなってからも三里塚に通い続け、数えきれないほど援農を経験した。逮捕・起訴されて半年勾留されたこともある。ガス弾の直撃も食らった。
 私だけではない。三里塚は、星野文昭さんをはじめ多くの活動家を、そして動労千葉などさまざまな闘いを育んできた。
 この三里塚闘争は、大木よねさんの闘いがあったからこそ、半世紀もの間、勝ち続けることができてきたのだ。
 今日も私は、よねさんを思い、三里塚をどこまでも闘い抜くことを誓うのである。

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