森研一同志を追悼する 三里塚の最前線で闘い労働運動に生涯を捧ぐ 革共同千葉県委員会

発行日:

週刊『前進』06頁(2683号06面04)(2015/06/01)


森研一同志を追悼する
 三里塚の最前線で闘い労働運動に生涯を捧ぐ
 革共同千葉県委員会

(写真 2008年3月徳島で)


 昨年12月9日、森研一同志は仕事で千葉県内を運転中、心臓発作を起こし66歳という若さで帰らぬ人となった。糖尿病と闘いながら「動労千葉のような労働組合をつくりたい」と頑張っていた姿が思い浮かぶ。
 森同志は1948年、九州で生まれた。68年に高校を卒業、美大受験のために上京し浪人生活を始めた。その中で学生運動に参加、そして三里塚闘争に決起していく。彼は国策で農地を強奪する国家権力を絶対に許せなかった。三里塚闘争は、彼の革命的共産主義者として生きていく原点的闘いであった。

放送塔で名演説

 71年7月の駒井野決戦では、農民放送塔に登って強制収用との徹底抗戦の先頭に立ち、闘いを呼びかけた。その闘いを、三里塚芝山連合空港反対同盟の戸村一作委員長が著書『野に起(た)つ』に書いている。
 「大島(森同志)の放送は、小止(こや)みなく続けられて、闘う同志全員の士気を鼓舞する」「マイクを握って叫ぶ大島の顔が、霞んで見えた」「大島の声は歯切れがよくて、全学連流の口調とは違って聞き易いばかりか、なかなか説得力を持つ語りかけである」「彼のように話せる者はなかなかいないのではなかろうか。彼は貴重な存在である」
 農民放送塔は国家権力・機動隊によって倒された。そのとき彼はアジテーションを行った。
 「『農民放送塔は決して倒れやしない。同志諸君、放送塔は倒れたところから、再び強固な放送塔が起てられましょう。もっともっと素晴らしい放送塔を建てましょう。さよなら』。この『さよなら』の一語で結ばれた大島のアジテーションは、三里塚闘争始まって以来、かつてない感動をもたらしたものである」(同書)
 彼は逮捕され獄中闘争を完全黙秘・非転向で闘いぬいた。保釈後は、7月仮処分阻止闘争被告団事務局として、三里塚闘争、裁判闘争の勝利へ星野文昭同志を始め多数の被告団の団結をつくりだした。その後は対カクマル戦争の先頭に立った。
 その彼の労働者観を変え、生きたマルクス主義をつかむ過程となったのが11月集会運動だ。

11月集会運動へ

 11月集会運動は、91年5月テーゼの具体的実践として94年9・18集会から開始された。それは、対カクマル戦争の勝利とともに、内戦下で動労千葉が国鉄分割・民営化攻撃を核心的に粉砕した闘いの地平で闘われた。
 森同志は94年春から中野洋動労千葉委員長(当時)の防衛隊の一員となり、オルグ団の一員として連日、東京・関東の労働組合を訪問し、9・18集会への参加を訴えた。その中で毎日、新しいことをつかんでいった。夜は中野委員長を中心に集会の成功に向けた討論が行われた。そこに森同志が生き生きと参加していた。彼は「この集会にかかわることを通して『労働者とは』『労働組合とは』といった労働者観を変えた」と話していた。

職場闘争を実践

 階級的労働運動路線のもと、森同志は懸命に闘ってきた。糖尿病との闘いに入る過程で常任活動を離れ、労働者として労働組合運動に生涯を捧げた。ダラ幹執行部による15年もの組合員権停止の統制処分と闘いぬき、職場で階級的労働運動を推進した。その教訓を友人への手紙に記している。
 「プロレタリア革命という事業は、何も党派とシンパの行動ではありません。党員ではないけれどもともに闘う、味方してくれるプロレタリアートや、非プロレタリア人民の協力なしに勝負にならない。そういった説得力をもった運動をつくろうという党派性がないとできません」
 森同志は党派性と大衆性を一体のものとして労働組合に貫くことを全力で実践してきたのだ。
 三里塚闘争をともに闘った星野同志を取り戻す前にこの世を去らねばならなかったことは、最大の心残りだっただろう。彼の遺志を継ぎ、一日でも早く星野同志を取り戻すために全力で闘うことを新たに決意する。

このエントリーをはてなブックマークに追加