帰還と被曝の強制許さない 避難指示区域を訪ねて 「希望の牧場」吉沢代表と共に(上) 「止まったままの町」浪江

週刊『前進』06頁(2709号05面01)(2015/12/07)


帰還と被曝の強制許さない
 避難指示区域を訪ねて
 「希望の牧場」吉沢代表と共に(上)
 「止まったままの町」浪江

(写真 牛の鉄のオブジェの前で旗を掲げる希望の牧場代表・吉沢正巳さん【右】)

 福島県双葉郡浪江町の「希望の牧場」を11月に訪問し、希望の牧場代表の吉沢正巳さんに、浪江町や南相馬市小高区の各地を案内していただいた。「復興」の大キャンペーンのもとで住民に無理やり帰還が強いられる中で、3・11から4年7カ月をへた福島の現実を伝えたい。1回目は、大地震と大津波、原発事故によりずたずたに壊滅させられた「浪江町の今」。

見渡す限り更地の請戸港

(写真 津波で2階まで流された請戸漁協)

(写真 屋上から見渡す限り続く更地)

 希望の牧場に着くと牛にえさをやる作業中の吉沢さんが迎えてくれた。早速「牧場パトロールカー/決死救命・団結!」と書いた黄色い自動車に乗り込んで出かけた。
 浪江町の請戸(うけど)漁港に向かう。大地震と大津波で壊滅した請戸地区は福島第一原発から約6㌔。浪江町で津波で死亡した184人のうち125人が請戸地区の犠牲者だ。3・11直後、原発のない町・浪江町には国からも東電からも何も連絡もなく、見捨てられた。その中で町独自の判断で翌12日早朝に避難を決めた。請戸では助けを求める声も聞こえていたが、救助も行えずに町民は逃げ出すしかなかった。その無念は深い。
 漁港の目の前に、漁協の大きな建物が立つ。鉄筋コンクリート製の建物が約15㍍の津波に襲われ、2階まで津波が突き抜けて壊滅、2階の屋根まで破壊されている。
 屋上からは請戸漁港と周りの町が一望できるが、見渡す限り更地と化した土地が続く。上部は流されて土台だけ残された家の跡地、津波が突き抜けて柱だけになって傾いた家が点在する。
 吉沢さんは「住宅が密集する港町だったのに、約600軒の家が一瞬で壊滅した。僕は3・11直後にもここを見に来た。海岸から内陸約2㌔ぐらいまで、がれき、漁船、自動車でぐちゃぐちゃだった。それから5年近くたっても、変わったのはがれきなどが撤去されただけ。あとはまったく変わっていない」と語る。

「3時42分」を指した時計

 港のそばの破壊された住居の玄関に、3時42分で止まった時計が置かれていた(写真上)。津波が来た時間だろう。壁が流され部屋がむき出しになった住宅のリビングルームと思われる部屋に、手作りの梅酒と酒びん、ペットボトルの水が置かれていた。犠牲者に手向けられたものだろう。静寂の中で、深い悲しみと悔しさがこみ上げる。
 先祖伝来の墓地が跡形もなく流されたため、山あいの高台に請戸地区共同墓地がつくられた。近くの交差点に「東日本大震災慰霊碑」が立つ。卒塔婆(そとば)の1本に「大愚愚政 人災愚行」という文字が刻まれていた。為政者により家族を殺された遺族の無念が心に突き刺さる。
 双葉町との町境近くから南側を見ると、4㌔先にある福島第一原発の排気筒がよく見える。この化け物のような巨大プラント、福島第一原発の存在が、この土地をここまで荒廃させたのだ。

崩れた店が並ぶ浪江駅前

(写真 4㌔地点から見る第一原発排気筒)

(写真 JR浪江駅前は傾いた商店が続く)

 JR浪江駅方向に向かう。駅前商店街はまさにゴーストタウンだ。2階部分が崩れ落ち1階の高さになった店、隣の店に寄りかかりながら3軒一緒に斜めに傾いた店。
 経営者の60代男性が自殺したスーパーもある。12年5月、避難先からの「一時帰宅」中にスーパーで片づけをしている最中に姿が見えなくなり、翌日昼、首をつった状態で見つかった。一緒に一時帰宅していた妻に「避難先に戻りたくない」と話していた男性は、「生きていても仕方ない」と書き残していた。

除染労働者しかいない町

 浪江町をどこまで走っても住民には会えない。出会うのは除染労働者と除染関係車両だけだ。
 浪江町は今も町内全域が「避難指示区域」で、約8割を占める山側の土地は「帰還困難区域」だ。海側の「避難指示解除準備区域」と「居住制限区域」は日中は立ち入りできるようになったが居住は禁じられている。
 3・11当時は約2万1千人が住んでいたが、今は県内に避難している人が約7割、県外が約3割。今年9月の町の調査で、避難指示解除後の住民の帰還意向は「すぐに・いずれ戻りたいと考えている」が17・8%、「まだ判断がつかない」31・5%、「戻らないと決めている」が48%だった。ほとんどの町民が「帰れない、帰らない」と考えているのだ。

「骨になっても帰れないかも」

 「先日、二本松市の浪江焼きそばの店で食事していたら、津島地区の年配の女性たちがいた。浪江町長選のさなかで、『復興とか帰ろうなんて言わないで、だめだとはっきり言ったほうがいい。おそらく自分たちは骨になったら帰れるだろう』と言うんだ。すると隣の女性は『いや、骨になっても帰れないかもしれない』。津島の人たちはそこまで考えている。切ないよ」(吉沢さん)
 浪江町は津波による死者184人以外に「震災関連死」が、復興庁が認定しただけでも361人にのぼる(今年3月末現在)。直接死の約2倍の人が、長引く避難生活の中で命を落としているのだ。「復興住宅が今、南相馬市の原町区で建設されているけど、完成まで約2年かかる。それまでに仮設住宅暮らしの人たちがもつのか。悔しいけれど、関連死はこれからまだ続くと思う」
 安倍内閣は今年6月に「避難指示解除準備区域」「居住制限区域」の避難指示を17年3月に解除し、18年3月に月額10万円の精神的賠償も打ち切ると閣議決定した。9月には楢葉町が帰町を宣言し、来年4月には南相馬市小高区の避難指示解除が目指されている。政府は17年3月に自主避難者の住宅支援を打ち切る方針だ。財政援助を打ち切ることで無理やり帰還を強いるものだ。
 大地震と大津波で壊滅させられた上に、原発事故で町の意味そのものを失ったまま4年7カ月がたった浪江町。
 「すべては原発事故ゆえだ」。政府と東電、県当局の責任を徹底追及する闘いはまだまだ続く。
(本紙・里中亜樹)

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