知る・考える 用語解説 国鉄労働運動-戦後の日本労働運動を主導

週刊『前進』02頁(2730号02面05)(2016/03/10)


知る・考える 用語解説
 国鉄労働運動-戦後の日本労働運動を主導


 戦後の労働運動は焼け跡の中から「食える賃金をよこせ」と戦犯追及を掲げて始まった。国鉄でも職場ごとに自発的に労働組合が結成され、それらは全国的に結集して1946年2月、国鉄労働組合総連合会を結成、翌47年に単一労組としての国鉄労働組合(国労)に移行した。
 鉄道職場は仲間が団結していなければ労災で命を失うことも多い。これが国鉄労働運動に戦闘性を与え、国労は89年の連合結成以前まで労組のナショナルセンターだった日本労働組合総評議会(総評)の中心を担っていた。
 国鉄労働運動は激しい党派闘争の場でもあった。50年に機関車労組が国労から分裂して後に動力車労組(動労)となった。57年以降は、国鉄当局が育成した御用組合も各地につくられた。
 国労を主導したのは、社会党や共産党などの体制内勢力だった。「スト権奪還」を掲げて闘われた75年のスト権ストに敗北すると、国労は急速に戦闘力を失った。動労もファシスト・カクマルによって牛耳られるようになった。80年代に入ると日帝は、「国鉄労働運動を解体すれば総評をつぶせる」として、国鉄分割・民営化攻撃をしかけてきた。
 他方、72年の船橋事故闘争をきっかけに反合・運転保安闘争の路線を確立した動労千葉は、階級的労働組合として自己を打ち立て、79年に動労本部から分離・独立した。国鉄分割・民営化に対し、動労千葉だけが2波のストライキで立ち向かい、階級的団結を守りぬいた。
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