ロシア革命勝利の機関紙活動に学ぶ 全国的政治新聞の発行と配布網で 党と労働組合を建設したレーニン 『前進』武器に1千万人と結合し現代革命へ

週刊『前進』08頁(2809号08面01)(2017/01/01)


ロシア革命勝利の機関紙活動に学ぶ
 全国的政治新聞の発行と配布網で
 党と労働組合を建設したレーニン
 『前進』武器に1千万人と結合し現代革命へ

(写真 「児童労働の廃止」「8時間労働日」を求めて行進するペトログラート【現サンクト・ペテルブルク】の労働者【1917年3月】)


 20世紀最大の世界史的事件としての1917年ロシア革命は、今日という時代をも根底から規定しています。そのロシア革命から100年をへて、韓国・民主労総のゼネスト決起を最先端とする新たな世界革命の扉が開かれました。では、ついに始まったこの革命情勢をプロレタリア世界革命の勝利に転化するためには、何が決定的に求められているのでしょうか? 強力な革命党と結びついた巨万の革命勢力の登場です。それをつくりだすには機関紙活動の徹底的な推進が不可欠です。このことをロシア革命におけるレーニンとボリシェビキの機関紙活動から学んでいきましょう。(以下、日付はロシア暦で表記。日数を13足すと西暦になる)

機関紙の定期的発行を出発点に革命党を創成

 20世紀初めのロシア帝国は、国土面積が地球の地表の6分の1、人口約1億4千万人のうち約半数を占める大ロシア民族が他の100を超える諸民族を抑圧し、その頂点に「神聖不可侵」の専制君主(ツァーリ)が君臨していました。1905年の第1次革命の後、国会(ドゥーマ)が開設され、労働組合が一部合法化されました。
 またロシアは当時、人口の8〜9割を農民が占める農業国でしたが、19世紀末頃から金融資本的蓄積様式のもとで急激に機械制大工業を発展させ、世界有数の工業力を持つ帝国主義国となりました。ただし外国資本への依存度が非常に高く、大企業のほとんどは英、仏などの銀行から融資を受け、株式資本の約4割は外国人が所有していました。こうした特異な形での工業化をへて、都市部を中心に労働者階級が急速に形成されていきます。

新聞『イスクラ』発行と全国配布網の確立

 レーニン(1870年生まれ)は、首都ペテルブルクで大衆的労働運動が始まった1893年頃から、労働者の間で活動を開始しました。95年の大ストライキの後、同年12月の一斉弾圧で逮捕・流刑にされたレーニンは、1900年2月に刑期を終えるとスイスへ亡命しました。この時レーニンが考えていたのは、ロシアに本格的なマルクス主義の党を建設すること、そしてそのために定期的に発行される機関紙を創刊することでした。
 「われわれは、規則的に発行され、すべての地方グループに緊密にむすびついた党機関紙を設立することを、自分の当面の目的としなければならない」「こういう新聞なしには、労働運動全体のどんな広範な組織化も不可能である」(「われわれの当面の任務」1899年)
 こうしてレーニンはスイスのジュネーブに編集局を置く新聞『イスクラ(火花)』の創刊にこぎつけました。この新聞にかけた狙いを、レーニンは次のように説明します。
 「第一には、......堅固な思想的統合が、つくりあげられなければならない。この思想的統合を、党綱領によってうちかためることが必要である。第二には、すべての運動中心地のあいだに連絡をとり、運動にかんする完全な情報を適時に送達し、ロシアのあらゆるすみずみにまで定期刊行物を規則ただしく供給する仕事に専念する組織が、つくりあげられなければならない。このような組織がつくりあげられ、ロシアの社会主義的郵便組織がつくりだされたときにはじめて、党は強固な存在を獲得し、現実の事実となり、したがってまた威力ある政治勢力となるであろう」(「『イスクラ』編集局の声明」1900年9月)
 当時のレーニンの手紙には、印刷場所、ロシア語活字の入手、論文のテーマ、資金の問題などを、組織や通信員と暗号含みで文通し決めている様子が表れています。こうしてできた新聞を国境を越えてロシアに届ける方法を探し、デポジット(預け)場所を探し、その担い手を育て、運搬費を手当てする闘いを毎号毎号、決戦としてやりました。こうして、初めての非合法新聞の定期発行を実現したのです。

レーニン『なにをなすべきか?』の党建設論

 1900年以降、ロシア発の恐慌、欧州金融不安、鉄道株暴落によるアメリカ恐慌などが連続する中、ロシアの工場では賃下げと解雇が始まり、労働者がストライキに立ち上がります。
 こうした中で、激しい党派闘争が巻き起こりました。それは当時、国際的な社会主義運動の内部に発生した「修正主義」がロシアにも影響したものでした。修正主義とは、「労働者階級の自己解放の闘いで資本主義を打倒し、労働者が主人公の新しい社会をつくる」というプロレタリア革命の思想を放棄し、労働者は資本主義の枠内で日常的改良運動だけを行うべきだという体制内思想へと社会民主党の綱領を「修正」しようとするものです。
 そのロシア版として現れたのが「経済主義」でした。経済主義者は、高揚する労働運動を革命へと高めるために闘うことを否定し、労働者は「経済的要求」だけを運動目的とし、政治闘争は自由主義ブルジョアジーに任せるべきだと主張しました。
 これに対しレーニンは、著書『なにをなすべきか?』(02年2月)などで反論しました。今なすべきことは、単に労働者の経済闘争を指導するだけでなく、「専制の打倒」および「無産者が金持に身売りしなければならないような社会制度(=資本主義そのもの!)をなくすための闘争」(同)へと労働者を導くことである。そして、そのために「自然発生的な労働運動と切りはなせないように結びついた革命党」(「われわれの運動の緊要な諸任務」1900年12月)の建設が急務なのだと訴えました。
 そのような革命党を建設するために、レーニンは「全国的政治新聞の計画」を『なにをなすべきか?』で打ち出したのです。全国的政治新聞=機関紙による革命の宣伝・扇動、機関紙の定期的発行と全国的配布網の建設、すなわち党の建設を一斉武装蜂起に向かって進めるという計画です。
 このような激しい論争をへて、03年8月、第2回ロシア社会民主労働党大会が開催されますが、「党組織の一つに参加すること」を「党員の資格」と規定するボルシェビキ(レーニン派)と、そうでないメンシェビキ(マルトフ派)とに分裂しました。

ゼネストとソビエトと蜂起の1905年革命

 1904年1月26日、史上初の本格的な帝国主義間戦争としての日露戦争が勃発しました。同年12月19日、激戦の末に中国・遼東半島の先端部にある旅順が日本軍の手に陥落し、ツァーリの権威は地に落ちました。
 同じ頃、ロシア最大の軍需産業拠点であったプチーロフ工場で働く「ペテルブルク市ロシア人工場労働者の集い」(司祭ガポンが主宰する当局公認の労働者親睦団体)の4人の組合員が解雇され、05年1月3日から解雇撤回を要求するストライキが始まりました。それは周辺に拡大し政治闘争へと発展していきます。
 1月6日には約400職場12万人がストライキに突入し、ガポンは皇帝への直接請願行動を呼びかけました。請願内容は、8時間労働日と超過勤務の制限、労働組合の自由(団結権)、日露戦争の中止、憲法制定会議選挙、基本的人権の確立など労働者民衆の切実な要求でした。
 1月9日、ガポンを先頭に、工場街にある組合各支部から冬宮(ツァーリの宮殿)に向けて約10万人の労働者が行進を始めます。市内各所で軍隊がサーベルで切りかかるなどしましたが、請願行進がなおも進むと軍隊が一斉射撃を行い、非武装の労働者に次々と銃弾を浴びせました。死者は1千人、負傷者は4千人に達しました。これが「血の日曜日」事件です。
 翌10日、発電所がストライキに入り、一時、首都は暗闇となりました。ストライキは全国に広がり、1月だけでもスト参加者は44万人に達しました。こうして、後に「17年革命の総稽古」(レーニン)と呼ばれる05年革命が始まったのです。

労組建設を中心にすえゼネスト・蜂起へ進む

 同年4月、ロンドンで第3回ロシア社会民主労働党大会(ボルシェビキ単独)が開催されます。大会では、ブルジョアジーから革命の主導権を奪うべく、労働組合建設を党活動の中心にすることが確認されました。こうして全党が労働組合活動に突入し、各地区組織が党員を大量に工場に送り込み、労働組合を結成していきます。また武装蜂起の決議も採択されました。
 5月以降、労働運動が発展するにつれて、ツァーリは部分的に労働組合を認めざるを得なくなりました。6月14日には、黒海艦隊の戦艦「ポチョムキン号」の水兵が反乱を起こし、戦艦「オーロラ号」も命令を拒否します。
 8月、「ツァーリを補弼(ほひつ)する」国会設置法が発布され、また信教の自由、農民の土地買い戻し金の減額が認められました。しかし、国会の権限や選挙権は大幅に制限されていたため、労働者人民は怒りを爆発させ、10月には全国ゼネストに至ります。
 ロシア政府は「戦争継続は困難」と判断し、8月23日、アメリカの仲介のもとで日本との講和条約(ポーツマス条約)に調印しました。政府は戦争の継続がプロレタリア革命をもたらすことを何よりも恐れました。
 こうした中、第3回党大会の決定に基づき、機関紙『プロレタリー』が5月から11月にかけて計26号発行されました。ペテルブルクで40余り、モスクワでも50以上、オデッサでは30以上の労働組合がつくられました。
 10月、鉄道従業員組合のストをきっかけに全国ゼネストが起こりました。ゼネストの指導機関としてペテルブルクをはじめ全国主要都市に「労働者代表ソビエト」が結成されました。ソビエトはストライキと労働組合運動を指導し、11月にもゼネストを決行、革命的自治機関として機能し始めました。さらに12月には壮絶なモスクワ蜂起が戦われましたが、鎮圧されました。

12年プラハ協議会後に日刊『プラウダ』を発行

 革命が下降局面に入る中、社会民主労働党は06年4月、第4回(統一)大会を開催しました。メンシェビキが中央委員会の多数派を占め、合法日刊紙『ノーバヤ・ジーズニ(新生活)』『ボルナー(波)』『フペリョート(前進)』(05年10月〜06年6月)を発行。ボリシェビキは非合法機関紙『プロレタリー』の復刊に成功し、06年8月から09年まで50号発行、組織と運動の骨格を守りました。
 ツァーリは06年7月、ストルイピンを首相に任命し、革命の鎮圧を図ります。「ストルイピンのネクタイ(絞首刑)」といわれる弾圧が吹き荒れました。メンシェビキはこの弾圧と闘えず、国会選挙のみに戦線を縮小することを主張しました。
 ボルシェビキも党勢を後退させますが、このような厳しい「退却」の局面においても、組織の基盤を守りぬいた力は機関紙でした。「ボルシェビキは退却にあたって、秩序はもっとも正しく、その『軍隊』の損害はもっともすくなく、軍隊の中核はもっとも多く保存されており、分裂はもっともすくなく、士気阻喪はもっともすくなく、きわめて広範に、正しく、力づよく活動を再開する能力はもっとも多かった」(レーニン『共産主義における左翼空論主義』1920年5月)

合法日刊紙を通じて組織と財政を強化

 12年1月、レーニンはチェコスロバキアのプラハで第6回ロシア社会民主労働党全国協議会を開催し、党の本格的再建に着手しました。ロシア国内で非合法的に活動する11の地方組織代表が結集したプラハ協議会は、ボリシェビキほぼ単独で開催され、メンシェビキと最終的に決別する重要な会議となりました。
 ここでレーニンは、高揚に転じたロシア革命運動の要請に応えるために、非合法機関紙を堅持しつつ合法的なマルクス主義的機関紙を発行することを最も重要な任務として提起し、ついに外国からの持ち込みではなくペテルブルクで合法週刊紙『ズべズダ(星)』の発行をかちとりました。
 12年4月4日、シベリアのレナ金鉱で、ストライキ中の労働者に軍が銃撃を加え、500人以上の死傷者が出ました(レナ事件)。この事件を報じた『ズべズダ』が全国の労働者を組織し、デモが続発しました。この中で非合法機関紙『ソツィアル・デモクラート』(隔月刊)と合法週刊紙『ズべズダ』だけでは情勢に対応できないことがはっきりしました。
 こうして4月22日、ボルシェビキの国会議員を編集名義人にして『プラウダ(真理)』を創刊します。労働者の投稿を満載した『プラウダ』は、第1次世界大戦で発禁になる14年7月8日までの2年2カ月の間に636号発行されました。その間8回の停刊、155回の押収決定、36回の罰金を科せられますが、創意工夫を凝らして弾圧を打ち破り、発行し続けました。
 レーニンは、機関紙活動を通じて人を組織し、必要な財政を確保することを重視して、国内の同志に宛てた手紙でも次のように強調しています。
 「『プラウダ』とそのあり方にこそ現状のかなめがある。......『プラウダ』は運動の結集と高揚のために必要な組織的手段だ。......この手段を通じてはじめて......必要な人間と資金の流入が起こりうるだろう。ペテルブルクの状態が思わしくないのはなによりも『プラウダ』が思わしくなく、われわれが『プラウダ』を利用する力がない......からだ。2万5千人が1カ月に1コペイカずつ出せば250ルーブリになる。もともとこのほかに財源がないことを銘記していてほしい」(「ヤ・エム・スベルドロフへ」13年2月)

第1次大戦の勃発と戦時下の機関紙活動

 14年7月に勃発した第1次世界大戦で、ロシアでは17年までにおよそ1500万人が動員され、死傷者と捕虜にされた者の合計は550万人、うち戦死者が250万人にも達し、その数は協商国側の全軍隊の死者数の40%を占めました。脱走兵も200万人にのぼり、またインフレと生活必需品の不足が人民を極限的に苦しめました。
 17年革命をジョン・リードらとともにしたアルバート・ウィリアムズは、同年夏にウクライナのある村に立ち寄った際、350人ほどの女性、老人、子どもと交流しました。彼が「戦争で肉親を失くした人は?」と質問すると雰囲気が一変しました。
 「私の質問に、ほとんど全部の手が上がって、まるで梢(こずえ)をわたる冬の風のような泣き声が笑いの渦にとって代わった。......いったい、どこからこれほどの涙が出てくるかと思われるほどだった。能面のような顔の影に、これほどの悲しみが隠されているとは夢にも考えられなかった」(アルバート・ウィリアムズ『11月革命の勝利』1921年)
 戦争の勃発後、『プラウダ』は発禁となり、11月にはボリシェビキ国会議員団も逮捕されました。しかしボルシェビキはこの弾圧に抗して、工場細胞を基礎にした機関紙読者網を活用し、非合法機関紙『ソツィアル・デモクラート』を維持、ストとデモを組織して破壊された組織を再建していきます。

戦争を内乱に転化した二月革命と十月革命

 17年1月から続いていた首都でのストライキを背景に、2月23日の国際婦人デーには女性労働者を先頭に大規模デモが勃発、二月革命が始まりました。鎮圧を命じられ出動した軍隊も次々と反乱を起こし、労働者とともに監獄を襲撃して何千人もの政治犯を解放しました。また反乱軍は将校や警察署長らを逮捕・銃殺し、武器・弾薬を労働者に引き渡しました。
 2月27日、ペトログラート・ソビエト臨時執行委員会が結成され、3月1日には首都の政府軍約13万人がソビエトに忠誠を誓いました。3月2日、自由主義ブルジョアジーを代表する臨時政府がペトログラート労兵ソビエト総会の承認のもとに成立し、皇帝が退位して帝政は崩壊しました。そこに生まれたのは臨時政府とソビエトの二重権力状態でした。
 3月5日、『プラウダ』が再刊されますが、カーメネフやスターリンら国内ボルシェビキ指導部の立場は、「条件付きで臨時政府を支持する」「主要な課題は民主主義共和制の導入である」というものでした。レーニンは亡命先から手紙でこれに抗議しました。
 4月3日に帰国したレーニンは「全権力のソビエトへの移行」を訴える「四月テーゼ」を発表しました。これはプロレタリア社会主義革命綱領の提起であり、ボルシェビキの誰もが驚天動地の思いでした。レーニンはボルシェビキの路線的再武装をかちとり、「四月テーゼ」は4月下旬に開かれた社会民主労働党(ボルシェビキ)の第7回全国協議会で承認されました。
 協議会で確認された党員数は7万9204人。大胆な機関紙活動の成果です。その上でレーニンは次のように労働者に訴えました。
 「準備を整えよ、そして記憶せよ。諸君が、資本家と一緒に、数日のうちに、人民の憤りの爆発だけで勝利することができたとしても、資本家をむこうに回し、資本家に対して勝利するために必要なものは、それだけではないということを。......一にも、二にも、三にも組織が必要である」(「ロシア社会民主労働党〈ボ〉第7回〈4月〉全国協議会決議集の序文」17年4月)

7月弾圧を打ち破り圧倒的多数派へ飛躍

 その後、臨時政府が協商国の政府に宛ててひそかに打電した「ロシアは決定的勝利まで世界戦争を遂行する」という内容のミリュコーフ外相の覚書が発覚し、戦争終結を求める労働者・兵士の怒りが爆発します。この過程で、四月テーゼ路線で武装したボリシェビキのもとに膨大な数の労働者・兵士が結集し、「全権力をソビエトへ」のスローガンが浸透していきました。
 しかし、肝心のソビエトは、当時まだメンシェビキとエスエル(社会革命党)が執行部を握っており、両者はともに臨時政府と協調していました。そうした中、7月3日に機関銃兵連隊を先頭とする40万人の武装デモが爆発し、決起した兵士や労働者がソビエト執行委員会に「臨時政府を倒して権力を掌握せよ!」と迫りました。
 しかしメンシェビキとエスエルに権力をとる気はなく、ボルシェビキはまだ少数派であり、武装蜂起は時期尚早でした。ボルシェビキは街頭へ出て労働者・兵士とともに行進した後、「平和裏に組織的にストとデモを打ち切れ」と呼びかけました。この困難な決断を労働者・兵士に貫徹したのは、機関紙を通じて彼らと結びついた中央集権的な革命党の力でした。
 その後、7月デモへの報復弾圧が始まります。『プラウダ』編集室が襲撃を受け発刊停止にされ、政府軍はボルシェビキ党本部を占拠。レーニンは地下潜行を余儀なくされ、トロツキーら多くの党指導部が逮捕されました。
 さらに臨時政府は「政府転覆を狙うレーニンは敵国ドイツのスパイだ」とのデマゴギーでボルシェビキへの白色テロを扇動しました。メンシェビキとエスエルも臨時政府の尻馬に乗ってボルシェビキを攻撃しました。
 この大反革命に対し、ボルシェビキ労働者は機関紙を武器に反撃に転じます。7月23日、発禁になった『プラウダ』に代わって日刊紙『ラボーチー・イ・ソルダート(労働者と兵士)』を発刊。7月の時点で15万部発行体制に成長していた『プラウダ』配布網の威力が遺憾なく発揮されます。7月26日からの第6回社会民主労働党(ボルシェビキ)大会で、党員は24万人に達しました。
 8月下旬、反革命将軍コルニーロフが軍事政権樹立を狙って反乱を起こしますが、ボルシェビキを先頭に武装した労働者と兵士が決起して直ちに鎮圧。この過程でボルシェビキは圧倒的な大衆的信頼を獲得していきます。
 そして9月、ついに首都ペトログラートのソビエト総会で執行部が打倒され、ボルシェビキが執行委員会を掌握、牢獄から奪還されたトロツキーが同ソビエトの議長となりました。

武装蜂起を成功させソビエト権力を樹立

 地下潜行中のレーニンは『国家と革命』を執筆後、一刻も早く武装蜂起の準備にとりかかるよう党指導部に訴えました。一部の党指導部の動揺を伴いながらも、主にトロツキーを先頭に武装蜂起の準備が進められました。
 追いつめられた臨時政府は、全ロシア・ソビエト大会初日の10月24日、弾圧に乗り出します。早朝、政府の命令で武装した士官学校生らがボルシェビキの印刷所を襲撃し、閉鎖・占拠しました。武装蜂起を阻止するために政府が第一に考えたのは、機関紙の発行を停止させることだったのです。
 しかし、これがむしろ蜂起開始の合図となりました。ソビエトはこの弾圧を「反革命の暴挙」とみなし、直ちに連隊を出動させ、印刷所を奪還、続いて各連隊に戦闘準備を指令します。夕刻までに武装した労働者・兵士が各駅と郵便局・電信局、橋を制圧し、午後9時までに首都全体を支配しました。翌25日未明に冬宮が陥落、臨時政府の閣僚が逮捕され、ソビエト大会が全権掌握を宣言しました(十月革命)。蜂起の瞬間まで機関紙をめぐる革命と反革命の激烈な攻防が闘われたのです。
 ロシア革命の巨大な衝撃は全世界の労働者人民を奮い立たせました。翌18年にはドイツ革命が起こり、第1次大戦はついに終結しました。

おわりに

 1900年の『イスクラ』発刊から始まった機関紙活動が、こうしてロシア革命を勝利に導く力となりました。
 第一に、機関紙を軸に宣伝・扇動を変革していきました。『イスクラ』や『プラウダ』への投稿、印刷と配布体制、そのために必要な財政や秘密警察から防衛する非合法・非公然体制など、すべては現場労働者の自己解放的で献身的な闘いで実現されました。
 第二に、機関紙を軸にして労働組合の拠点を建設しました。05年4月の第3回党大会で決定した労働組合建設方針のもと、機関紙を軸に各都市に無数の労働組合がつくられたことが、10月ゼネストや12月蜂起をかちとる力となり、その後の弾圧から組織を守り抜いて17年革命を準備しました。
 第三に、機関紙を軸に1千万人と結合しました。工場労働者や兵士の間に機関紙網がつくられ、農民の中にも浸透していきました。
 レーニンが活字や印刷機の確保で苦闘した教訓から学び、革共同はついに独自の印刷機2台体制を確立しました。機関紙配達と機関紙財政闘争をさらに推進しましょう。
 2017年、労働者階級の中に『前進』10万部配布網をつくり、21世紀革命を実現しましょう。

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