繰り返すな戦争  憲法をめぐる激突 第1回 戦後革命の中で生まれた9条 戦犯天皇の免罪と引き換えに

週刊『前進』02頁(2952号02面01)(2018/06/28)


繰り返すな戦争
 憲法をめぐる激突 第1回
 戦後革命の中で生まれた9条
 戦犯天皇の免罪と引き換えに

(写真 皇居前広場に25万人が集まった1946年5月19日の食糧メーデー)


 安倍政権の改憲・戦争攻撃に拍車がかかっている。憲法9条を解体して再び海外への侵略戦争、世界戦争をもやりぬける国にしなければ、激化する国際争闘戦に帝国主義として生き残れないという危機感が日帝を突き動かしている。だがそれは日本の階級闘争を、現在の憲法が成立した原点である戦後革命期の嵐の時代の真っただ中へと引き戻す。憲法を軸とする戦後の統治形態は、そこでのプロレタリア革命の敗北と引き換えに誕生した。「戦争の実相」をテーマとした前回のシリーズに続き、憲法と戦争との関係に焦点をあて、戦後史の根底に横たわる革命と反革命との激突について明らかにしていきたい。

敗戦を機に労働者が決起

 憲法9条はその第1項で「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」と宣言している。さらに第2項で「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」と言い切っている。
 〝戦争は一切しない、軍隊も持たない〟というこの9条は、資本主義・帝国主義の国ではおよそありえない、ブルジョア国家としての自己否定にも等しい条項だ。なぜこんな規定が憲法の中に盛り込まれたのか。
 その理由は、日帝の敗戦と同時に爆発した労働者階級人民の嵐のような帝国主義打倒の決起と、この革命を必死に抑え込んで延命の道を見出そうとあがきにあがいた支配階級との攻防の中にある。
 日帝の戦争を支えた天皇制国家の巨大な軍事機構は1945年8月15日の敗戦とともに崩壊した。天皇・皇族と財閥、大地主、軍需産業に群がった資本家階級と軍や政府の高官など、「大日本帝国」を支配してきた連中が敗戦の瞬間に最も恐怖したのは、労働者人民の革命への決起だった。
 戦争中に一切の団結を破壊されていた日本の労働者階級は、直後の虚脱状態を脱するや否や労働組合をつくって続々と闘いに立ち上がった。膨大な労働者人民が戦争で家族を亡くし、空襲で家を焼かれ、路頭に投げ出されていた。さらに天文学的なインフレと食糧危機が民衆を襲った。当初はゼロだった労働組合の数は45年秋から爆発的に増え、職場のほとんど全員が組合に加入し、結成と同時に争議に突入した。闘いは資本家に代わって労働者が職場の全支配権を握る生産管理闘争へと発展し、46年に入ると労働組合が地域の民衆を組織して食糧の人民管理を求める闘いが始まった。
 それは生きるための必死の闘いであると同時に、帝国主義戦争とそれを推進した支配階級に対する戦争責任追及の激しい怒りの爆発だった。とりわけ、戦時中に人民を奴隷のように扱ったその同じ連中が、飢餓に苦しむ民衆を尻目に戦後も権力の座にのうのうと居座っていることは、絶対に許せないことだった。
 46年5月1日、復活したメーデーには東京で50万、全国で125万人が決起した。会場では「戦争をたくらみ、戦争でもうけた憎むべき資本家、地主、官僚どもはわれわれの苦しみを平然と眺めて何の手を打とうともしない。われわれは政府を取り替えなくてはならない! 働く者の民主人民政府を打ち立てなくてはならない!」という熱烈なメーデー宣言が読み上げられた。続く5月19日の食糧メーデー(皇居前広場に25万人)では、天皇を真っ向から糾弾する「朕(ちん)はタラフク食ってるぞ、ナンジ人民飢えて死ね」のプラカードが掲げられた。
 これに先立ち、4月冒頭には7万のデモ隊が警官隊の発砲をも打ち破って首相官邸に突入。連日の米よこせデモが都内を席巻し、首都を半無政府状態にたたき込んでいた。
 それはまさしく旧体制の根底的転覆=プロレタリア革命を求める闘いだった。これに恐怖したのは日帝支配階級だけではない。戦勝国として日本を占領した米帝=GHQ(連合国総司令部)にとっても、それだけは絶対に回避しなければならないものだった。

広がる戦争責任断罪の声

 日帝の戦争責任を追及する声は国内だけでなく全世界から上がっていた。
 とりわけ日帝の侵略戦争によって言語に絶する苦しみを味わった朝鮮・中国・アジア人民は、日帝の戦争犯罪の最高責任者である昭和天皇ヒロヒトの徹底断罪と処刑を当然にも要求した。朝鮮半島から中国大陸、フィリピン、インドネシア、ベトナムに至るアジア全域が戦後革命の巨大な激動のるつぼのただ中にすでに入っていた。ひとつ間違えば、米帝の戦後のアジア支配全体が根底から吹き飛ばされる危機をも迎えていた。
 米帝にとって唯一の選択は、労働者階級の怒りと不満を上からの「民主化」によって取り込んで、プロレタリア革命への発展を未然に阻むこと以外になかった。そのためには新憲法の制定が不可欠であった。天皇を絶対不可侵としてそのもとに全人民を強権的に支配してきた天皇制国家から、議会制民主主義への統治形態の転換である。だが日帝支配階級は、「国体護持」を掲げてこの転換をかたくなに拒否していた。
 46年2月、労働者階級の決起が日一日とその勢いを増す中で、焦った米帝・GHQは自ら新憲法の原案をつくり、日本政府に提示した。そこには、明治憲法に規定された天皇の絶大な権力の代わりに「主権在民」と象徴天皇制への移行が、戦争放棄の条項とともに盛り込まれていた。驚き抵抗する日本政府にGHQは、「天皇が戦争責任者として裁かれるのを防ぐためにはこれしかない」「権力の座にとどまりたければ、決定的に左にかじを切った憲法を受け入れるしかないのだ」と説得した。
 46年春の政治危機の真っただ中で完成した新憲法草案は、6月20日からの憲法制定議会に提出された。これと並行して、天皇ヒロヒトは平和主義者で一切は一部の軍人の「暴走」によるものだという、歴史の公然たる偽造が始まった。6月18日には東京裁判でキーナン主席検事が「天皇を訴追しない」と正式に発表し、天皇の免罪が確定した。
 「9条は国家の自衛権まで放棄するのか」という憲法制定議会での質問に、首相・吉田茂は〝当然だ。それなしに戦後の日本は国際社会に受け入れられない〟と答えている。まさに天皇と日帝が首の皮一枚残して生き残るための、その代償が憲法9条による戦争放棄の宣言であったのだ。

今日まで続く矛盾と危機

 戦後革命を敗北に導いたのは、当時の闘いの中心にいたスターリン主義=日本共産党指導部の裏切りだった。彼らは、日本に必要なのは「民主主義革命」であってプロレタリア革命ではないとし、GHQによる「民主化」を賛美した。労働者階級の闘いがそれを超えて47年、米占領軍との激突をもはらむ2・1ゼネストへと進むと、スト突入前夜に中止指令を出して闘いを挫折に追い込んだ。
 こうして誕生した憲法は最初から矛盾をはらみ、きわめて危機的な構造をもっていた。1950年の朝鮮戦争が戦後革命の波を最終的に圧殺した後、日帝支配階級にとって憲法9条は最大の憎しみの対象となり、改憲は彼らの「悲願」となった。逆に改憲を阻止し続けることは、戦後革命期の労働者階級の闘いの全獲得物を守り抜くことだった。 問われているのは、戦後革命の敗北をのりこえて進むか否かである。この課題に挑戦する時が今日、ついに来たのである。

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