小山衛一同志を悼む 週刊『三里塚』発行責任全う 最後まで周辺住民をオルグ 三里塚現地闘争本部

週刊『前進』04頁(2953号04面02)(2018/07/02)


小山衛一同志を悼む
 週刊『三里塚』発行責任全う
 最後まで周辺住民をオルグ
 三里塚現地闘争本部


 6月7日午前、わが三里塚現闘のかけがえのない仲間・小山衛一同志が家族・同志に見守られ、静かに68年の生涯を閉じた。断腸の想いである。まだまだ生きていてほしかった。彼が先頭になって切り開いていた第3滑走路=空港機能強化策との攻防がまさにこれから本格化する。その中で、闘い半ばで斃(たお)れたことは、わが現闘にとって大きな痛手であり、本人も本当に無念だったと思う。
 小山同志は昨年末、胃の不調を訴えて成田日赤病院に緊急入院した。胃がんと診断され年明けに手術するも、肝臓とリンパ節に転移しており、余命6カ月を宣告される。しかしその予測を覆す意欲をもって退院後、抗がん剤治療を続ける中で体力を回復して、セーブしつつも現地で活動を再開した。

80年に三里塚現闘

 1950年、埼玉県戸田市に生まれた小山同志は68年に慶応大学に入学し、70年安保・沖縄闘争に触発され、学費値上げ反対闘争に取り組む。その過程で中核派と接し全学連の隊列に加わる。75年、反革命カクマルによる本多延嘉・革共同書記長虐殺に衝撃を受けた彼は、本気で革命を志す決意をもって党に結集した。
 その後数年の学生戦線を経て、80年に三里塚現闘に着任した。成田空港1期開港後、運輸省・空港公団による成田用水を使った反対同盟切り崩し=話し合い路線が強まるさなかだった。翌81年から週刊『三里塚』の編集に携わり、「党の革命」後の08年からは編集長として2016年まで、実に36年にわたって発行責任を全うした。
 2週間に1度新聞を出し続けることは並大抵の苦労ではなかったはずだ。しかし彼の口からは愚痴も弱音も聞いたことはなかった。さらに最近の5年間は月刊の「反対同盟ニュース」の作成にも携わり、三里塚闘争の〝血液〟ともいうべき機関紙・宣伝活動の中軸を担いきった。継続するその強靭(きょうじん)な精神力にあらためて敬服する。
 毎年、民主労総が三里塚を訪れるようになってからはハングルを習得し、現地案内を担うなど国際連帯にも貢献した。
 彼は精神的な強さだけでなく、共同生活をする現闘の他の誰よりも頑健だっただけに、病魔に気付けなかったことが悔やまれる。

不当逮捕と闘って

 小山同志は死の間際まで闘いに生きぬいた。芝山町、横芝光町住民のオルグの軸を担い、精力的に活動していた。闘いの前進に恐怖した国家権力は彼を狙い撃ちにして5月16日に不当逮捕した。即日奪還されたとはいえ、この弾圧が彼の残された体力を奪い、5月21日に再入院し、遂に帰らぬ人となった。
 三里塚闘争と革命運動に生涯をかけた壮絶な生き様は残されたわれわれ現闘に一層の奮起を促している。改憲・戦争攻撃の激化の中で日帝・安倍政権打倒の怒りは地に満ち満ちている。わが現闘は小山同志の闘魂を受け継ぎ、市東孝雄さんの農地強奪阻止・第3滑走路粉砕へ、北総人民の総反乱で攻め上ることを誓う。
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