全国の学生は8・5―6広島へ 被爆者とともに核戦争絶対阻止を

週刊『前進』04頁(2955号03面01)(2018/07/09)


全国の学生は8・5―6広島へ
 被爆者とともに核戦争絶対阻止を

(写真 1945年8月6日、広島に原爆が投下された後の「原爆ドーム」)


 被爆地ヒロシマから、8・5国際反戦反核集会―8・6ヒロシマ大行動への参加を訴える! 朝鮮半島と中東を焦点に、世界戦争―核戦争の動きが加速している。被爆73年の8・5―6ヒロシマは、被爆者の怒りとともに国際連帯で戦争を止める決定的な闘いだ。

世界戦争の帰結8・6ヒロシマ

 「8・6ヒロシマ」とは何か。第2次世界大戦最末期の1945年8月6日、アメリカによる広島への原爆投下(それに続く8・9長崎への原爆投下)は、米日帝国主義が植民地・勢力圏の強奪と支配を争った侵略戦争の帰結だった。
 当時の広島は、三菱資本が兵器を製造するアジアへの侵略戦争拠点=軍都だった。8月6日午前8時15分、米軍は広島市中心部上空から原子爆弾を投下し、人類史上初の核攻撃を行った。上空600㍍で爆発した原爆は、直径280㍍、表面温度5千℃(太陽の表面温度は6千℃)の火球をつくり、わずか10秒で全市を破壊。数万人の命を一瞬で奪った。熱線は人々を焼き尽くし、建物は燃えて火事嵐を巻き起こした。7万6千戸の68%が全焼・全壊、約24%が半焼・半壊。約35万人の広島市の人口のうち、放射能の影響も含めて同年12月までに約14万人が亡くなった。漫画『はだしのゲン』に描かれた地獄図こそ「二度と繰り返さないと誓った」8・6ヒロシマの現実だった。

日米政府による被爆者抹殺攻撃

 日米両帝国主義の被爆者抹殺攻撃、そして核と戦争に対して被爆者と労働者が命がけで闘って、反戦・反核の原点である「8・6ヒロシマ」はかちとられてきた。
 終戦直後の45年9月、占領軍は「日本ニ与ウル新聞規制」(プレスコード)で、原爆関係報道を禁止した。被爆者自身が「原爆」を口にすることも難しくなり、被爆者は「存在しないもの」とされ、原爆治療も無視された。むしろ原爆は礼賛されさえした。46年8月6日の中国新聞1面には「けふぞ巡り来ぬ平和の閃光(せんこう)」と書かれ、47年8月6日には「ピカッと光った原子のたまにヨイヤサー、飛んで上って平和の鳩よ」と、広島市中心部で「平和音頭」に合わせて人々が練り歩いた。
 平和公園建設地になった中島町にバラックとテントで生活していた被爆者と労働者は、警察に無慈悲に追い出された。被爆者は後遺症と被爆差別だけでなく、日米政府にその存在を徹底的に抹殺されてきた。

労働者とともに決起した被爆者

 「自分たちの存在を二度と繰り返してはいけない」と被爆者が立ち上がったのは、1950年朝鮮戦争下の8月6日であり、米大統領トルーマンの「(朝鮮戦争で)平和のために原爆使用も辞さず」という核使用宣言への激しい怒りだった。
 被爆者は、日本製鋼広島工場の解雇撤回闘争など、嵐のような労働者の決起に勇気づけられながら立ち上がっていく。50年8月6日には、講演会、音楽会、ユネスコ集会、すべての集まりが禁止され、武装と私服の警官に占領された中、詩人・峠三吉をはじめとする被爆者たちは広島市中心部の福屋デパート前で逮捕と死も覚悟して朝鮮戦争反対集会を開き、福屋デパート屋上から反戦ビラをまいた。被爆者が反戦・反核の主体として登場して闘う中で、「反戦・反核のヒロシマ」は確立された。「8・6ヒロシマ」こそ被爆者と労働者民衆がつくり上げた反戦反核の原点だ。

国際連帯の力で朝鮮戦争阻止を

 労働者の国際連帯が戦争を止める。韓国では1700万労働者の「ろうそくデモ」の闘いでパククネが打倒された。4・27南北朝鮮首脳会談の背景には、この南北分断体制打破を求めるうねりがある。民主労総のゼネストやサード配備反対闘争など、朝鮮半島での戦争を止める力はここにある。日本でも、1960~70年代のベトナム戦争時にB52爆撃機を止めた沖縄基地労働者のストライキがある。
 8・5国際反戦反核集会と8・6ヒロシマ大行動には、韓国、アメリカ、そして中東・パレスチナからも労働組合と労働者が結集する。8・5―6の中に、国境をこえた団結と勝利の展望がある。全国の学友は広島の地にぜひ駆けつけてほしい!
〔マル学同中核派・広島大学支部〕

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