全学連から新入生のみなさんへ 大学から自由の火柱を 権力への追従は戦争への道

週刊『前進』02頁(3023号01面01)(2019/03/28)


全学連から新入生のみなさんへ
 大学から自由の火柱を
 権力への追従は戦争への道

(写真 昨年10月24日、安倍が改憲発議を狙う臨時国会の開会を弾劾し、全学連が労働者とともに国会前集会を闘った)

既存の常識うち破れ!
 全学連委員長 高原恭平(東京大学)

批判精神をもとう

 人間は常に偏見抜きに物事を見ることはできない。だが、学問に取り組むことによって、生まれて以来持っている偏見を別の「偏見」と取り換えることができる----これは、私が入学してすぐの授業である教授が語った言葉です。この言葉の中には、これから新入生の皆さんが学ぶ「学問」であり「大学」の本質が端的に表れていると思います。
 私たちは生まれ育った社会の中で多くの常識を持っています。それは例えば「電車待ちの列には並ぶものだ」というマナーの類いであったり、「結婚して子どもを育てるのが『普通』だ」といった社会に関するものであったりします。しかし、これらの「常識」とは、決して自然と生まれたわけでも、あるいは昔から伝統的に存在したわけでもなく、誰かが意図的に作り上げ継承してきたものです。そして、その「常識」を調べると、往々にして数世代程度の歴史しかないことがわかります。だから、「常識」は文化や時代が異なればまったく通用しないし、私たちは理解できない「常識」に対しては「偏見」という別の呼び名を使うわけです。
 このような常識あるいは偏見は大学の中にも氾濫(はんらん)しています。例えば、あなたの通う大学に女子学生はどのくらいいるでしょうか。もし半数程度いるのだとしたら、それは戦後日本における女性運動の賜物(たまもの)です。戦前の日本では、東大をはじめとする多くの大学に女子学生はいないのが当然の常識でした。その常識が、大学にも女子学生が半数程度いるのは当然という新しい常識に入れ替わるまでの間、女性を中心に多くの先人たちが粘り強い社会運動に取り組んだことを忘れてはなりません。
 あるいは、大学に立て看板はあるか、教室の机にビラは置かれているかを確認してみてください。もし、立て看板があり、教室にはビラが撒かれているのだとしたら、それは学生がその「常識」を守り抜いてきたからです。戦後の大学には、立て看板を立てる自由もビラを撒く自由もなく、それが常識でした。しかし、私たちの先輩は学生運動によって、そのような規制が建前上は残っていても現実には運用されないようにし、新しい「常識」を学生運動でもぎり取り、今日まで維持し続けてきたのです。逆に立て看板がなかったり、ビラが撒かれていなかったりしたら、その「常識」は間違いなく、意図的に作り上げられた、新しい「常識」に過ぎません。

学生運動の可能性

 1980年代まで、多くの大学において立て看板が乱立する、ビラが教室に撒かれるといったことは当たり前の常識でした。その常識がすっかり逆転したのは、20年あまりの間に学生運動潰しが行われ、大学当局が極めて意識的に新しい常識を作り上げたからに過ぎません。その規制を裏付けるものとして、大学が定めたルールやもっともらしい理由があろうとも、そのルールが実効力のあるものとして徹底されたのは規制の後であり、「理由」とは規制を「正当化」するために大学の職員が頭をひねって作り上げたものにすぎません。
 このように物事を批判的に見る精神は、学問の神髄でもあります。そもそも、ダーウィンが「神が生き物を創造した」という当時の常識を疑わなければ、進化論はありませんでした。ルソーが当時の絶対王政を批判しなければ、人民主権や民主主義も生まれませんでした。分野を問わずあらゆる学問は、常に既存の常識、権威、権力に対する批判精神の中で発展してきたのです。

学生は商品なのか

 さて、いま日本の大学を取り巻く環境は大きく変わっています。特に2004年の「国立大学法人化」は「明治の開学以来、最大の変革」(佐々木毅・東大総長〔当時〕)とさえ形容されるもので、大学・学問を金もうけや「国策」遂行の道具へと変質させました。
 さらに、いま安倍政権が改憲の一環として進めている「大学教育の無償化」政策では、大学は企業を大学運営に一層関与させ、さらに授業そのものを企業役員らに担当させなければならないというところまで、大学・学問を決定的におとしめようとしています。また、研究費の削減と一体で、十分な論議もなく軍事研究が公然と拡大しています。かつて日本の大学が捕虜人体実験や原爆開発といって軍事研究、あるいは学徒出陣で戦争に協力したことも忘れてしまったかのようです。その中で学生は、授業選択の自由も、課外活動の自由も減り、ただひたすら大学の言うまま勉強する「物言わぬ存在」へとおとしめられようとしています。私たち学生が、常識や上からの指示を疑わない従順な商品として、企業に提供される存在へとなろうとしているのです。
 京大で問題となっている寮潰しや立て看板規制などは、全てこの一環としてあります。

戦争くり返さない

 私たちは10年後の未来も不透明な時代に生きています。技術革新の中で、人間の知性を機械が上回るのも近いとすら言われています。このような時代に一番重要なことは、自分の頭で考え、自分なりの良心に従うことです。権威を持った他者を批判的に捉え、その是非を自らの知識と良心に照らし合わせて判断し、その結論に従うこと----これは機械にはできない人間の特長です。そして、この人間の強味をみなが活かせなくなったとき、社会は権威ある人に無条件で従い戦争や虐殺といった惨事を繰り返してきました。いまの日本社会も決して他人事ではありません。
 これを読んだ皆さんが、自分の知識と良心とに照らして、全学連とともに大学から社会変革の行動へ立ち上がることを呼びかけます。その第一歩として、各地での講演会や集会も開催します。参加できない方は、ぜひ気軽に連絡をしてください。

競争社会は変えられる
 全学連書記長 加藤一樹(京都大学)

 大学生になられる皆さん、おめでとうございます。
 みなさん高校生活、受験勉強を通して学んだことがそれぞれあると思います。ある人は学問に必要な知識を身につけたでしょうし、強制された勉強の無価値を学んだなんて人もいると思います。
 僕は疑問を抱きつつも、周りが頑張っているから、そうした方が生きていく上で有利だからと、与えられた教科を習得しようと受験勉強をしました。得た物もありました。実際に様々な科目を学んだことで、学問を始める上で必要な基礎を身につけることが出来たと思います。
 一方で、受験は競争ですから時には自分が落とされ、時には友達を蹴落とすと言った現実に狭苦しい思いを抱いていたのも事実です。それでも大学生活に希望を抱き、自由な学問に憧れて受験勉強をしてきました。
 しかし、入ってみると自分が抱いていた大学のイメージとは違いました。大学もまた決められた単位を取るために単位を見ながら授業を選び、試験や成績に追われる生活であること、そしてそれをこなしていった先にも自由な学問は転がっていないし、また就職活動で競争しなくてはいけない。就職しても競争社会が広がっている。
 大学生という社会人の一歩手前のステージになって初めて自分の前に立ちはだかる現実に目を向けることができました。僕も大学に希望を抱いて入学し、大学当局の言う通りにすれば全てうまくいくと信じていました。大学経営陣が「過激」「間違っている」とした言論には触れないように、大学の経営陣の提示する秩序やそれを信じる自分が正しいと自分に言い聞かせていました。

立て看撤去に疑問

 昨年5月に京大当局は景観条例違反だと言って学生に対して一方的に立て看板規制を通告し、外向けの掲示物だけではなく京大構内の立て看板も撤去、没収しました。景観条例だけが原因というわけではなかったのです。最初は何かの手違いじゃないかと思いましたが、京大当局は施設管理権があるからだと主張していました。施設管理権は撤去をするにあたって行使した権利であって、撤去の理由ではありません。近年は文科省レベルの方策として大学の管理を徹底しようという流れがあります。それが規制の動機だろうと思いました。僕にとっては初めて京大を疑った出来事でした。
 いつの時代も誰が言っている事が正しいかなんて事は分かりません。そんな中で本気で真理を探究するのが学問だと思います。全国の大学経営陣は「成果」をあげるために、大学の管理を徹底化し、学生を分断して競争させようとしています。
 しかし、僕は決してこの状況に悲観していません。それは、学生は大学が提示する競争論理の中の個人主義を乗り越え、手を取り合って競争社会を変えることができると確信しているからです。
 全学連で学生と討論し、真の学問を目指しましょう。

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