星野文昭さんの命を救え 刑務所が癌の事実を隠す

週刊『前進』02頁(3035号01面02)(2019/05/16)


星野文昭さんの命を救え
 刑務所が癌の事実を隠す


星野文昭さん 1946年札幌市生まれ。高崎経済大学在学中の71年11月、東京・渋谷で沖縄返還協定批准阻止闘争をリーダーとして闘う。その後、機動隊員の死亡に関連し「殺人罪」のでっち上げで不当逮捕・起訴され、無期懲役判決。再審を請求し闘っている。現在、東京都の東日本成人矯正医療センター在監。

沖縄と連帯した闘いのリーダー

 星野文昭さんは1971年、沖縄の労働者民衆と連帯し、米軍基地の存続・強化を狙った沖縄返還協定に反対して命がけで闘いました。11月14日、多くの青年労働者、学生が集会・デモ禁止を打ち破って、渋谷でのデモに立ち上がりました。デモ隊のリーダーだった星野さんは、機動隊員1人が死亡したことで「実行犯」にでっち上げられ、無期懲役の判決を受け44年間も獄に入れられています。「沖縄闘争は正義だ。私は無実だ」と、再審を請求し不屈に闘い続けています。
 四国地方更生保護委員会で昨年から始まった仮釈放審理に対して、星野さんと妻の暁子さんを先頭に、家族、再審弁護団、「星野さんをとり戻そう!全国再審連絡会議」は「星野さんを直ちに解放しろ」と要求して全力で闘ってきました。
 しかし更生保護委は3月25日、星野さんの仮釈放を何の理由も示さず不許可にしました。その直後の4月18日、星野さんは突然、徳島刑務所から東京都昭島市にある東日本成人矯正医療センターに移監されました。なんと、重い「肝細胞がん」だったのです。

治療機会奪ったのは殺人行為だ

 星野さんは昨年初めから体調を崩していました。徳島刑務所は十分な製造道具もそろえず、経験のない星野さんにカバン作りを指示し、星野さんはそれに取り組む中で健康を害していきました。夏の猛暑対策もない非人間的処遇が強制される中、星野さんは8月22日、激しい腹痛と血が逆流するような感覚に陥って倒れました。ところが徳島刑務所の医師は「胃けいれん」と診断しただけでまともな検査も行わず、1日休ませただけで仕事につかせました。星野さんは以降、体重が減少し、食欲がなく、ひどい疲労感を感じるようになっていきました。
 家族・弁護団・救援会は医療データ開示や検査などを何度も要求しましたが、徳島刑務所は無視し続けました。体重が6㌔も減少した本年3月4日になってやっとエコー検査が行われましたが、刑務所は検査結果を星野さんに伝えず、家族や弁護士に対しても隠し続けたのです。3月15日に接見した和久田修弁護士は「やせた。声が小さい。活力がなくなっている」と異常を感じ、星野さん自身も「がんかもしれない」と危機感を吐露していました。
 家族・弁護団は更生保護委に、「星野さんの健康状態を責任もって調査し、重篤な病気ならば解放し、信頼できる病院で検査・治療ができるようにすべきだ」と懸命に訴えてきました。
 徳島刑務所は星野さんががんであると知りながら、仮釈放させないためにそれを押し隠し、治療の機会を奪ったのです。まさに殺人行為です。私たちは法務省、徳島刑務所、更生保護委を断じて許しません。徹底的に責任を追及します。
 星野さんは「皆さんのおかげで移監でき、検査が行われ、体調が悪い原因がはっきりして一歩前進です。全力で治します」と言っています。

即時解放求める法務省大デモへ

 何人かの医師が医療センターに手紙を出し、最高の医療と万全な体制での治療を要求していますが、医療センターはセカンドオピニオンを認めないと通告してきました。受刑者も生命を守り、堂々と生き抜く権利があります。獄外の医療水準で医療を受ける権利があります。暁子さんの付き添いを認めて当然です。少なくとも、1カ月3回に制限されている暁子さんの面会を制限なく認めるべきです。44年もの長期拘禁を強制し、星野さんを病気にした国家権力・法務省に対して、「星野さんの命を守れ」「星野さんを解放しろ」と全力で闘おう。毎週の霞が関街宣を繰り広げ、7月5日、法務省包囲の大デモにうってでよう。
 さらに全国の心ある医師を組織し、強力な医師団を形成しよう。医療センターと法務省宛ての要望書を集めよう。星野さんへ激励の手紙を集中しよう。

☆手紙の送り先
〒196―8560
東京都昭島市もくせいの杜2―1―9 東日本成人矯正医療センター
星野文昭様

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