星野再審無罪へ 命奪った国家の罪責問う 葬儀参列者1000人、新たな誓い

週刊『前進』02頁(3043号01面01)(2019/06/13)


星野再審無罪へ
 命奪った国家の罪責問う
 葬儀参列者1000人、新たな誓い

(写真 葬儀告別式に全国の救援会、労働者、学生が参列し棺に横たわる星野さんとの別れを惜しんだ【6月8日 東京・杉並区】)

 「沖縄返還協定批准阻止」の1971年11・14渋谷闘争をデモ隊のリーダーとして闘い、殺人罪のでっち上げで無期懲役刑を科せられ、無実で獄中44年。過酷な弾圧と不屈に闘いぬいた星野文昭同志が、5月30日午後9時44分、肝臓がんの切除手術後、帰らぬ人となった。6月7日の通夜に続き、8日に葬儀告別式が、杉並・光明院観音ホールで行われた。両日で千人を超えた参列者は、星野さんの命を奪った国家権力への怒りを胸に、星野さんの遺志を引き継ぎ、再審無罪を勝ち取ること、星野さんを死に至らしめた徳島刑務所・四国地方更生保護委員会を追及する国家賠償請求裁判を闘うことを誓い合った。闘いの第一弾として7・5法務省包囲デモ(正午 日比谷公園霞門集合/主催 星野さんをとり戻そう!全国再審連絡会議)に全国から集まり、星野さんの無念をなんとしても晴らそう!
 開式予定の午前10時半前から式場は参列者で埋まり、入りきれない人が庭にあふれ出した。葬儀告別式は黙禱(もくとう)から始まった。式場正面の棺(ひつぎ)に文昭さんが横たわっている。喪主の星野暁子さん、文昭さんの長兄・星野治男さんといとこの星野誉夫さんが前列に座る。
 追悼の辞は、再審弁護団主任弁護人の岩井信弁護士と星野さんをとり戻そう!全国再審連絡会議共同代表の戸村裕実さん。岩井弁護士は、死亡診断書に「巨大な腫瘍(しゅよう)に対して切除術を行った」と書いてあったと語り、「腫瘍を巨大にしたのは、検査せず、無視した徳島刑務所をはじめとする当局の責任だ。この責任を追及し、再審無罪に向けて真実を明らかにしていく。今日は終わりではなく、始まりだ」と決意を込めた。
 戸村さんは、71年の三里塚が文昭さんとの出会いだったと語り、「71年の三里塚、沖縄の激闘を率先して担い、その報復弾圧を一身に受けた文昭さん。再審無罪を勝ち取らなければならない。徳島刑務所、更生保護委員の罪責を問わなければならない」と怒りに身を震わせた。
 日本全国のみならず韓国、アメリカ、トルコ、ドイツから弔電・追悼文・供花が寄せられた。元参議院副議長の角田義一弁護士は「星野君の遺志を引き継ぐと同時に国家権力の悪を暴く闘いを共に進める」と闘魂を示した。
 遺族を代表して、星野暁子さんが文昭さんに語りかけた。「文昭と一緒に生きた33年、幸せな良い人生でした。文昭、あなたを殺した国家権力を裁くために国賠をやりましょう。文昭の闘いを私が継承して、再審の新しい闘いに踏み出しましょう」。(全文別掲)
 星野解放歌を手がけた丸尾めぐみさんがピアノで「ソリダリティ」などを献奏し、献花が行われた。
 革共同の真紅の旗とFree Hoshinoの黄色の旗が棺を飾った。
 別れではなく、文昭さんの遺志を引き継ぐ新たな星野闘争の始まりだ。

暁子さん
文昭と生きた33年幸せな人生でした

(写真 遺族を代表して葬儀告別式で文昭さんに語りかけるつれあいの星野暁子さん【左】、長兄の星野治男さん【中】、いとこの星野誉夫さん【右】)

 皆さん。文昭と最後の別れをするためにお越しいただき、本当にありがとうございます。星野文昭への呼びかけをもって、あいさつに代えたいと思います。
 文昭、聞こえていますね。今日もたくさんの方が文昭と別れを告げるために来てくれていますよ。
 みんな、あなたがどんなに頑張ったか見ていますよ。文昭と私の闘いに励まされたと、みんな言っていますよ。
 苦しい呼吸の中で最後の力を振り絞って、あなたは布団から手を出していました。その手を握り締め、あなたの胸に顔を埋めることができたことは、生涯忘れられない思い出になりました。
 文昭の最後の手紙を読み返しています。手術の前の日に届くように5月26日に書いた手紙です。その手紙は最初から最後まで、私が心配しないで手術に臨めるように、そのために書いた手紙でした。
 文昭はいつだってそうでした。持てるもののすべてを私に捧げて、それが同時に、労働者民衆に捧げるような生き方を、文昭は33年間貫いてきました。
 最後に描いた絵は「アフガン 山の学校で学ぶ」という作品です。「体に力が入らないからバックなどはもうひとつだけど、少女の表情はうまく描けた」と言っていました。勉強する勝ち気な少女の表情が生き生きと描かれています。文昭は私の中の勝ち気な面を見いだして楽しんでいて、少女の顔を私に重ねながら描いているのです。
 遺体になったあなたと初めて接吻(せっぷん)しました。冷たかったけど、柔らかな感触が残りました。
 過酷な人生を引き受け、笑顔で誰をも迎え入れた文昭。みんなのために生きてきた文昭が、なぜこんなふうに命を奪われなければならないのか。決して帰ってくることのないあなたを思って私は泣きました。
 そして思い出したのは、文昭がいつも「死者と共に生きる」と言っていたことです。文昭は死んではいない、私の中に生きています。そして多くの労働者民衆の中に、文昭の絵を愛してくれたたくさんの人々の中に、皆さんの中に生きています。私が笑えば文昭も笑い、私が泣くと文昭も泣くので、泣いてばかりはいられないのです。
 文昭が生涯をかけた人間解放の闘いを、私が引き継いでやれば、文昭も一緒に闘って、勝利の美酒を酌み交わすことができると私はそう思っています。
 あなたの旅立ちに私は、あの1971年11月14日にあなたが着ていた同じ色の、薄青のシャツとグレーのズボンを選んで着せました。「権力が、自分がやっていないことを百も承知ででっち上げたことに怒りはあっても、沖縄闘争を闘ったことにみじんの後悔もない。もう一回、生まれてきても、僕は暁子とみんなとの団結を生きる」と、文昭は言っていたからです。
 文昭と一緒に生きた33年、幸せな、良い人生でした。
 文昭、あなたを殺した国家権力を裁くために国賠をやりましょう。そして、文昭の闘いを私が継承して、再審の新しい闘いに踏み出しましょう。
 文昭、あなたは今日、旅立つけど、これからもずっといつも一緒です。

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