青栁晃玄さんを悼む 三里塚・沖縄・解雇撤回闘い全てを注ぎ星野解放へ尽力 革共同群馬県委員会

週刊『前進』04頁(3056号04面04)(2019/07/29)


青栁晃玄さんを悼む
 三里塚・沖縄・解雇撤回闘い全てを注ぎ星野解放へ尽力
 革共同群馬県委員会


 2019年6月9日午後8時16分、かけがえのない同志である青栁晃玄(あおやぎ・こうげん)さんが逝去されました。三里塚芝山連合空港反対同盟の市東孝雄さんが「青栁さんと星野さんは二人で引き合うように亡くなられた」と語ったように、星野文昭さんの葬儀告別式の翌夜でした。

激闘経て革共同へ

 青栁さんは、常に全員に呼びかけ組織しながら、闘う党を選択し闘ってきた同志でした。
 青栁さんは1938年に前橋市で生まれました。戦前戦後の動乱を身をもって体験した集約として共産主義者同盟に結集し、60年安保闘争を闘いました。60年に群馬大学学生自治会委員長に当選して千人余の学生隊列を組織、氷雨の1月16日の岸訪米阻止羽田闘争から5・19―6・15闘争を闘い抜きました。
 東京で小学校教員をしていた時、「レッドパージで解雇された元教員で理想の学校をつくろう」という呼びかけに応え、群馬の私立高校教員になりました。しかし、そこで日本共産党による「経営に従え」という方針と激突。青栁さんは同僚全員に呼びかけて労働組合を結成し、初代委員長に就任しました。
 その後、高崎経済大学の闘いとの交流の中で三里塚闘争に参加し、東峰十字路に立ちました。71年11月19日の沖縄返還協定批准阻止・日比谷集会に参加して不当逮捕されました。
 この時の逮捕を口実として、当時勤務していた上武大学付属第一高校を解雇されますが、青栁さんは解雇撤回闘争を闘いながら11・14渋谷闘争弾圧との闘いの先頭に立ちました。この最も激しい過程で、共産主義者同盟を総括して革命的共産主義者同盟に結集しました。
 青栁さんの解雇撤回闘争は今、群馬合同労組の闘いとして大きく結実し発展しています。

労農連帯を確信し

 青栁さんは、三里塚反対同盟と動労千葉の労農連帯に未来を確信して闘いました。
 70年代中期には「三里塚を闘う全群馬実行委員会」を県内の各労組によびかけて結成しました。これは「群馬・市東さんの農地を守る会」に引き継がれ、毎年の集会として続いています。
 動労本部(当時)が、三里塚反対同盟との共闘を理由に動労千葉地本への処分を策動した際、青栁さんは動労高崎地本に自動車で乗り込みました。驚き慌てる動労カクマルがぼうぜんとする中で、朗々と抗議文をたたきつけました。
 そして、青栁さんがすべてを注いで取り組んだのが星野文昭さん解放への闘いでした。

生涯を星野と共に

 71年渋谷闘争に対する弾圧当初から闘い、79年には星野さんに対する検察の死刑求刑に怒り、死刑反対の闘いの先頭に立ちました。そして星野さんの無期懲役刑確定以降の身柄引受人になりました。
 親族以外の方が面会不許可とされた後も、健康状態が許す限り毎年、面会を続けました。そして、青栁さんが体調を崩し闘病生活に入る過程で、「自分を引き継いでくれている」と最も喜んでいたのが全学連の闘いでした。
 青栁さん。あなたは息を引き取る最後の2日間も、集まったご家族と私たちに、「生き続けて闘う」という執念を示してくれました。私たちは、あなたの青年のような精神を引き継いで、青年・学生の党として革共同を建設し、プロレタリア革命に勝利することを誓います。
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