「平和天皇」は虚像だ! 戦争責任追及から逃げ回り、改憲・再軍備求めたヒロヒト

週刊『前進』04頁(3062号01面03)(2019/08/26)


「平和天皇」は虚像だ!
 戦争責任追及から逃げ回り、改憲・再軍備求めたヒロヒト

(写真 陸軍を閲兵する昭和天皇【1938年1月8日】)

 1948年から5年半にわたって宮内庁初代長官を務めた田島道治が、昭和天皇ヒロヒトとの対話を「拝謁記」として残した手帳やノートが8月19日、公開された。田島が在任中に行った613回、330時間以上のヒロヒトとの面談を詳細に記録したものだ。NHKなど大手メディアは「昭和天皇が戦争への『反省』を表明することを望んでいた」かのように報じているが、このような報道は真実を覆い隠すものだ。昭和天皇は「平和主義者」などではない。むしろ「拝謁記」は、自らの戦争責任から逃げ回り、必死に延命の道を探るヒロヒトの姿を浮き彫りにしているのだ。
 何より重大なのは、ヒロヒトが朝鮮戦争のさなかの52年2月、「軍備といっても国として独立する以上必要がある」「(憲法について)軍備の点だけ公明正大に堂々と改正してやった方がいい」などと、「戦力不保持」を規定した憲法の改悪と日本の再軍備を要求した事実である。また53年11月には米軍基地反対闘争への敵意から「基地の問題でも……一部の犠牲はやむを得ぬ」などと主張した。この「一部」が何よりも沖縄を指していることは明らかであり、戦争のために沖縄を「捨て石」にして当然という発想は戦前から変わっていない。このようにヒロヒトは戦争への「反省」どころか、戦争に敗れ新憲法下で象徴天皇となった後も「国家元首」そして軍の最高司令官である「大元帥」としての意識を持ち続け、戦後日本の国家権力中枢に君臨し、憲法違反の政治主張を繰り返したのである。
 ヒロヒトの言う「後悔」や「反省」も、アジア諸国への侵略戦争を悔いているのではなく、米英と戦って敗れたことへの「後悔」にすぎない。「軍も政府も国民もすべて下克上とか軍部の専横を見逃すとか皆反省すれば悪い事があるからそれらを皆反省して繰り返したくないものだ」(52年2月20日)というヒロヒトの言葉は、自らの戦争責任を軍部・政府、国民に転嫁して「一億総ざんげ」を要求するものでしかない。
 今回、「拝謁記」とは別に、戦後ヒロヒトが側近たちを前に語った言葉を田島が書きとめた「戦争回顧メモ」の内容も明るみに出た。そこには「ガダルカナルを捨てニューギニア、ポートモレスビーを攻撃した方(が)よかった」などと、ヒロヒトが直接戦争指導にあたった生々しい記述がある。大元帥として具体的に作戦を指揮しておきながら、敗戦後は「軍部が独走した」として自らの戦争責任を回避し続けた。それが戦犯天皇ヒロヒトだ。
 「拝謁記」では、52年の独立回復式典での「おことば」をめぐり、当時の首相・吉田茂が「国土を縮め」「困苦とを招くに至った」などの表現について、開戦の責任を追及される危険があるとして削除を求めたことも明らかになった。
 戦犯ヒロヒトの卑劣なあり方は、侵略と植民地支配の歴史を居直って愛国主義・排外主義をあおる現在の安倍政権にそのまま引き継がれている。今回のキャンペーンをも利用して改憲を狙う安倍の策動を絶対に粉砕しよう。
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