米軍内のベトナム反戦闘争〈下〉 「他国人民を殺さない」と決起

発行日:

週刊『前進』02頁(3073号02面03)(2019/10/03)


米軍内のベトナム反戦闘争〈下〉
 「他国人民を殺さない」と決起

(写真 GIコーヒーハウス)

(写真 帰還兵の反戦デモ)

(写真 戦闘を拒否した兵士)


 本紙前号に続き、8月24日に東京で行われた在日米国人の講演「ベトナム戦争時、米軍内の抵抗運動」の抜粋を掲載します。(編集局)

「無駄な戦闘」を実力で阻止

 自軍の兵士を故意に殺害することや殺害未遂を表すものとして「フラッギング」という言葉が用いられる。ベトナム戦争時に米軍兵士たちによって使われるようになった。通常、殺されるのは将校か下士官である。事故を装ったり、戦闘中の混乱で被弾したかのように見せかけたりするために破砕手榴弾(はさいしゅりゅうだん、フラグメンテーション・グレネード)が使われたことに由来する。
 「フラッギング」の公式統計は1968年以前には存在しない。米国がベトナムで軍事的な勝利を実現できないことがもはや明確になった頃、兵士は戦場での積極性を減退させ、「勝てない戦争の最後の死者になるのはごめんだ」という気持ちになっていた。そこでフラッギングが、無駄な戦闘に入ろうとする「積極的すぎる」司令官を抑えるための手段となった。
 69年には96件のフラッギングが発生し、37人の司令官が死亡した。70年には209件発生し、34人が死亡、71年は最初の11カ月で215件発生し、12人が死亡した。72年7月、米軍のベトナム撤退の最終段階では合計561件が報告され、86人が死亡、700人以上が負傷した。

抵抗運動の拠点

 当時、「GIコーヒーハウス」と呼ばれる施設が軍の中での兵士の抵抗運動を組織する拠点となり、全米で20軒運営された。
 コーヒーハウスは意図的に基地の近くにつくられ、軍の暴力体制から安全な場所を軍人に提供した。そこでは無料のコーヒーが提供され、ライブ演奏、カウンターカルチャー(抵抗文化)のポスターと新聞、そして反戦書籍と美術作品も並べられていた。軍隊内兵士のための場所にとどまらず、民間の市民の反戦運動のための政治的な学習会、反戦運動の組織化の中心にもなっていた。おもに民間の反戦活動家によって運営され、軍の中の地下新聞の発行を支援するために印刷機材もそろえていた。
 最初のコーヒーハウスは68年1月に開店し、最後に残ったものが閉店したのは74年だった。

空爆への転換に水兵が暴動

 米国は第2次世界大戦以降、東アジアの社会主義運動を止めるため、旧日本帝国、旧フランス帝国の植民地支配を引き継いで、数百万人もの民間人の死者を出す戦争を2回行った。1950〜53年の朝鮮侵略戦争と、64〜75年の11年にわたったベトナム・カンボジア・ラオスへの侵略戦争である。いずれも社会全体を破壊し崩壊させる無慈悲な戦争だったが、インドシナ人民の根底的な抵抗や米国軍隊内・社会内の戦争に対する反乱、内部的な矛盾を抑えられず、米軍は75年に南ベトナムの首都サイゴンから屈辱的な撤退を強いられ敗北。東アジアにおける米国の支配権拡大の野望は決定的に打ち砕かれた。
 ベトナム戦争に対する米軍内の抵抗運動や社会的な反戦運動は強力だった。そのため71年段階で米陸軍は半ば反乱状態に陥り、地上侵攻が実質的に不可能になっていた。そうした状況下で、米軍幹部は70年以降、地上戦から空中戦(大規模空爆)へ根本的な戦略シフトを行った。これに対し、海軍で水兵による座り込み・暴動・出航停止運動が闘われた。空軍や海軍では陸軍の侵攻のように兵士が犠牲になる危険性がほとんどなかった。他国の人民を絶対に殺さない、自己犠牲的な闘いは偉大であり、記憶に刻むべきものである。
 そうした抵抗闘争があった中で、北ベトナム軍と南ベトナム解放民族戦線は72年、再び大攻勢を構え、サイゴンの軍事的防御線を突破する寸前までに進撃した。そこで米軍は、軍内の現場から大きな反抗・反発を受けない空軍と海軍を大幅に動員して侵攻し、ベトナム側の攻勢を食い止めた。だが空中戦だけでは戦争は勝てない。73年のパリ和平協定締結の後、ほぼ影響力を失った米国は75年にサイゴンから撤退した。

徴兵制再開を押しとどめる

 米国のベトナム侵略戦争を敗北させた決定的な要因は、全世界の労働者階級の徹底的な反戦闘争だけでなく、米軍内部の反戦抵抗運動とその周辺にあった民間の支援運動であったことは間違いない。
 もう一つ、軍内・軍外運動の確実な成果としてあるのは、73年以降の米国徴兵制度の終了であり、77年にカーター政権が出さざるを得なかった徴兵制度を忌避した者に対する「恩赦」であった。73年までに徴兵制度を回避・抵抗した人は2万9157人に達したが、この「恩赦」により、実際に刑に服したのは9千人以下となった。
 今でも米国軍人の戦略専門家は言う----「米軍はアフガニスタン戦争やイラク戦争において理想的な兵員数以下の状態になっていた」と。しかし新たな徴兵制度はまったく実現できない。それに対する大規模で非暴力的な抵抗が起こる恐れがあまりにも強いため、米政府・軍幹部は徴兵制度の再開を基本的に呼びかけていない(呼びかけられない)状態にある。

軍隊内からの反乱の道示す

 今日、再び東アジアに対する米国の介入が強まっている。米トランプ政権は、北朝鮮に対する軍事的威嚇と並行して、中国に対する貿易戦争、軍事的包囲に乗り出している。この米国と組んで東アジアの情勢を緊迫化させているのが日本の安倍政権だ。北朝鮮への制裁強化を呼びかけ、韓国の徴用工判決に基づく日本企業への賠償請求を拒否して対韓輸出規制を強行している。東アジアの分断線を国際帝国主義の最先頭で引こうとしている。
 隊員の募集に苦労している自衛隊は、改憲がもし現実となり、日本が再び軍隊を持つことになった場合、徴兵という手段をとらざるを得なくなる。その時に、アメリカのベトナム戦争時代に起きた抵抗闘争、すなわち徴兵回避、良心的兵役拒否者の地位の申請、軍内地下新聞の発行、派兵拒否、司令官の指示無視・拒否、軍内反戦組織の設立、兵士の自発的な無許可離隊、暴動などは、これらすべてが意識的・集団的な意図を持たないとしても、労働者階級が用いることが可能な手段となる。
 私たちがどうするのかが問われている。

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▼GI(ジーアイ) アメリカ陸軍の兵士の俗称。陸軍補給部がごみ箱などに使っていた亜鉛引き鉄板(galvanized iron)の略語が官給品(government issue)の略語に転じたのが起源といわれる。

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ベトナム戦争略年表
1954年7月 ジュネーブ協定。仏軍撤退と南北ベトナム統一選挙を約束
10月 米が南にベトナム共和国擁立
60年12月 南ベトナム解放民族戦線結成
64年8月 米がトンキン湾事件でっち上げ、北ベトナムを爆撃
65年2月 米が北ベトナム爆撃を恒常化
68年1月 テト(旧正月)攻勢で米軍と南ベトナム政府軍を圧倒
3月 パリ和平交渉開始
69年6月 南ベトナム臨時革命政府樹立
73年1月 ベトナム和平協定締結
3月 米軍のベトナム撤兵完了
75年4月 サイゴン陥落。ベトナム戦争終結
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