国鉄1047名解雇撤回を労働運動再生への突破口に

週刊『前進』04頁(3108号02面01)(2020/02/17)


国鉄1047名解雇撤回を労働運動再生への突破口に


 JR東労組内の東京・水戸・八王子の3地本は2月10日、分裂組織の「JR東日本輸送サービス労組」を立ち上げた。東労組の分裂で、JRの「労組なき社会」をつくる攻撃は第2段階に入った。JR東日本は3月14日のダイヤ改定で常磐線の全線開通を強行し、4月1日に「新たなジョブローテーション」を実施しようとしている。このJRと立ち向かい、改憲を阻止してきたのが国鉄1047名解雇撤回闘争だ。

新規採用の形をとり労働組合破壊を強行

 JRは「新たなジョブローテーション」をはじめ、これまでの職場のあり方を否定する攻撃を次々と仕掛けている。だが、東労組本部はもちろん、今回分裂した組合も、これと真正面から立ち向かおうとはしていない。4月以降、自分がどこに飛ばされるかわからないという不安の中で、「まともな労働組合が必要だ」とJRの現場労働者は実感しているはずだ。
 労組破壊の出発点となった国鉄分割・民営化を許さず、それによって強行された1047名の解雇を撤回させてこそ、まともな労働組合は取り戻せる。
 国鉄分割・民営化から始まった新自由主義攻撃の核心は、労働組合を解体し、「工場法以前に戻す」ために徹底した階級戦争を仕掛けることにある。
 1982年に登場した中曽根政権は、憲法改悪を強行するために、国鉄労働運動に標的を据えた。国鉄赤字をやり玉に挙げ、マスコミを総動員して「国鉄労使国賊論」を展開した。
 中曽根が作った国鉄改革法は、国鉄労働者をいったん全員解雇し、JRへの新規採用という形で、大量解雇と労組活動家の排除を強行することが目的だった。
 86年1月、国鉄分割・民営化に賛成する鉄労・動労・全施労によって組織された国鉄改革労組協議会(後に鉄道労連―JR総連となる)が、「スト絶滅」を叫ぶ労使共同宣言を国鉄当局と結んだ。
 同年7月、国鉄当局は全国1438カ所に「人材活用センター」を設置し、1万8千人の労組役員・活動家を本来の職場から引きはがしてここに隔離した。この間の攻撃は熾烈(しれつ)を極めた。自ら命を絶った労働者は約200人に及んだ。
 国鉄改革法は同年11月に成立した。中曽根政権は直ちに、JR全社の定員枠を21万5千人とする基本計画を閣議決定し、40万人余の国鉄職員のうち20万人の首を切る攻撃に突き進んだ。
 87年2月16日、JR各社への「採用通知」が、JR設立委員長の斎藤英四郎の名で出された。差別・選別の結果、JRへの採用を拒まれた労働者には、何の通知もされず、解雇の理由も告げられなかった。
 この選別に使われたのが「不採用基準」だ。この基準により、ストライキや職場抵抗闘争に立った労働者ら117人の名前が名簿から削除された。この基準は動労本部=カクマル松崎の反動的突き上げを受けたJR設立委員長の斎藤自身が、国鉄職員局次長の葛西敬之と合議して策定した。
 葛西の指示で、実際に名簿から動労千葉組合員らの名前を削ったのは、JR東日本現社長の深沢祐二だ。
 JR不採用となった国鉄労働者7629人が、同年4月、国鉄清算事業団雇用対策支所に送られた。90年4月1日、国鉄清算事業団は「3年間の雇用対策」の終了を理由に1047名を整理解雇した。二度目の解雇だ。解雇者は直ちに闘争団・争議団を結成し、解雇撤回・地元JR復帰の闘いを開始した。

労組幹部の闘争圧殺と対決し活路を開く

 国鉄分割・民営化に対し、動労千葉は85年11月と86年2月の2波のストライキで立ち向かった。動労千葉は闘うことを通して強固な団結を守りぬき、JR体制の中になだれ込んだ。
 国労は86年の修善寺大会で、分割・民営化賛成に転じようとした旧執行部の「大胆な妥協路線」を否決したが、新執行部も一貫して和解路線を取り続けた。1047名解雇をめぐり、98年5月28日に東京地裁が解雇を容認する反動判決を出すと、これに屈した国労本部は、「国鉄改革法を承認し、解雇についてJRに法的責任のないことを認める」とした「4党合意」(2000年に与党3党と社民党が交わした合意)の受け入れへ一気に走った。
 他方、98年5・28反動判決をきっかけに、国鉄闘争を軸に、労働運動の階級的再生を目指すものとして、動労千葉、全国金属機械労組港合同、全日建運輸連帯労組関西地区生コン支部の3労組共闘による11月労働者集会が始まった。
 4党合意は、1047名解雇撤回闘争の解体を狙うとともに、JR職場での本格的な外注化--非正規職化攻撃の始まりだった。動労千葉はこれを「第2の分割・民営化攻撃」ととらえ、総力で対決した。
 4党合意をめぐり、国労は数度の大会を開いた。この過程で、国労内で動労千葉労働運動を目指した国労共闘は、解雇撤回闘争の解体をたくらむ国労本部と激突した。国労本部は01年1月27日の大会で4党合意の承認を強行し、02年5月27日の臨時大会に際しての本部弾劾行動を口実に闘争団員・組合員らを警察権力に売り渡した。国労5・27臨大闘争弾圧だ。この弾圧との攻防は、2010年4月9日の政治和解に至るまで、1047名闘争の解体を阻み続けた。
 4・9政治和解は被解雇者に「二度と不当労働行為を争わない」と誓約させて解雇撤回闘争を終わらせる悪らつ極まるものだった。

中労委あての新たな署名運動を広げよう

 これに抗し、「国鉄闘争の火を消すな!」を合言葉に10年6月、国鉄闘争全国運動が立ち上げられた。
 この陣形のもと、動労千葉は旧国鉄(現鉄道運輸機構)を相手にした裁判を闘い、「不採用基準」の策定自体が不当労働行為だったことを、2015年6月、最高裁に認定させた。この勝利は、国鉄闘争全国運動が取り組み最高裁にたたきつけた10万筆の署名が大きな力になった。
 今、動労総連合と国鉄闘争全国運動は、不採用基準を作ったのはJR設立委員会だったという新たにつかんだ事実をもとに、1047名解雇撤回闘争を闘っている。この闘いは、審理も拒んで申し立てを却下した千葉県労働委員会の対応に示されるように、大反動との激突になっている。
 だが、この反動を打ち破ってこそ、労働運動は再生できる。闘いの舞台は中央労働委員会に移る。中労委宛ての新たな署名運動も2・16集会を機に始まる。
 今JRは、国鉄分割・民営化を上回る労組絶滅攻撃をかけている。この中で、現場労働者は「労働組合は必要だ」「ジョブローテーションは許せない」と怒りを燃やし、歯を食いしばって耐えている。闘う労働組合が今こそ必要だ。
 1047名解雇撤回闘争はJRの青年労働者が今味わっている苦難をすべて経験してきた。組合幹部による闘争破壊の攻撃にも直面した。それを打ち破り、必死で活路を見いだしてきたのが1047名闘争だ。その全蓄積は今こそ生きる。
 1047名解雇撤回の中労委宛て署名に取り組もう。関西生コン支部への弾圧を打ち破ろう。改憲・戦争阻止!大行進運動を押し広げ、20春闘勝利、3・11反原発福島行動、3・14JRダイ改阻止、4・1「新たなジョブローテーション」粉砕へ進撃しよう。

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国鉄解雇撤回闘争の経過
1982年11月 中曽根内閣が発足
1985年11月 動労千葉が分割・民営化反対の第1波スト
1986年1月 動労本部などがスト絶滅を叫ぶ労使共同宣言
   2月 動労千葉が第2波スト
   11月 国鉄改革法の成立
1987年2月 国鉄労働者にJRへの採用・不採用の通告
   4月 JR各社が発足
1990年3月 動労千葉が84時間スト
   4月 国鉄清算事業団が1047名を解雇
1998年5月 東京地裁が反動判決
   11月 11月労働者集会始まる
2000年5月 4党合意が出される
2002年10月 5月の国労大会での行動を口実に組合員ら逮捕
2010年4月 4・9政治和解
   6月 国鉄闘争全国運動が発足
2015年6月 動労千葉の裁判で最高裁が「不採用基準は不当労働行為」と認める決定
2018年5月 動労総連合が千葉県労働委員会に新たな申し立て
2019年5月 千葉県労働委が却下決定
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