怒りの声を3・11郡山へ 福一原発事故で社会一変

週刊『前進』04頁(3180号04面02)(2021/02/01)


怒りの声を3・11郡山へ
 福一原発事故で社会一変

(写真 水素爆発した4号機の原子炉建屋)


 2011年3月11日午後2時46分、宮城県沖を震源とするマグニチュード9・0の巨大地震と最大40㍍超の大津波が東日本を襲った。死者・行方不明者、関連死した人の総数は2万2千人超。その多くは人災によるものだ。だが、事態はそれにとどまらなかった。福島第一原発事故という絶対に起こしてはならない核の大事故が、まさに眼前で起こってしまったのだ。歴代自民党政府と電力会社が核兵器製造のために進めてきた原発が爆発した。地震と津波は福島県の浜通りにある福島第一原発も直撃し核燃料の冷却が不可能となり、原子炉が破損。漏れ出た水素ガスが爆発し、大量の放射性物質が放出されてしまったのだ。

大量の放射能が降り注ぐ

 大地震の発生直後、核分裂を止めるための「制御棒」が原子炉の炉心に差し込まれ、原子炉は非常停止した。それでも核燃料は崩壊熱を出し続けるため、水をかけ続けなければならない。だが、地震によって送電用の鉄塔が倒壊するなどして外からの電気が来なくなり、津波によって非常用の発電機も使用不能となった。そのために中央制御室は真っ暗となり、計器類もすべて機能停止。最も重大な問題は原子炉への注水が不可能化したことだ。
 その結果、大量の「核燃料棒」(直径約1㌢×長さ約4㍍の円筒形。燃料のウランが詰め込まれている)が溶け出してしまった。燃料棒を覆っているジルコニウムという金属も溶け出して可燃性ガスの水素が大量発生。12日に1号機、14日に3号機が水素爆発を起こし、原子炉建屋の上部が吹っ飛んだ。15日には2号機でも爆発が起きて建屋の一部が損壊。4号機も爆発で建屋が激しく損壊した。1〜3号機では燃料棒がすべて溶け落ち、原子炉の底にたまる「メルトダウン」を起こした。
 それによって多種・大量の放射性物質が大気中や海洋に放出され、福島を中心に東北・関東などは高濃度の放射能で汚染された。放出量はセシウム137が広島原爆の168・5発分(1万5千テラベクレル)。甲状腺がんの原因となるヨウ素131が広島原爆の約2・5発分。また「吸い込むと1㌘で50万人を肺がんにする」として恐れられているプルトニウム239も32億ベクレルも放出された。これらは政府が発表した数値であり、実際はこれをはるかに超える大量の放射性物質が福島を中心に住民の頭上に降り注いだのだ。

避難中にも多数の犠牲者

 政府・原子力災害対策本部長は福島県知事、双葉町長、大熊町長などに対し、11日午後9時23分に半径3㌔圏内の住民を避難させるよう指示。翌12日午前5時44分には10㌔メートル、午後6時25分には20㌔メートルに拡大した。これ自体、遅きに失したものだ。しかも電気も届かず、通信や報道も途絶し、支援が滞るかまったく無い中で、住民の避難は困難を極めた(避難者数はピーク時約16万人)。避難の過程で亡くなる人も続出した。
 原発から約4・5㌔にある双葉病院と関連する介護老人保健施設「ドーヴィル双葉」では、14日午前7時頃から午前10時30分頃までの間に約130人がバスで避難先に向け出発した。しかし、極度の混乱の中で避難先が確保できず、午後9時35分頃にいわき市内の高校にやっと到着した。約230㌔以上の長距離、かつ約半日という長時間の移動で脱水症状や低栄養状態に陥り、バス内や搬送先で23人が次々と命を失った。
 続いて15日午後0時15分頃までにバスで出発したグループも13時間以上の長距離移動で11人が死亡。16日午前3時40分頃までに出発したグループも同様の状況下で9人が死亡。15日頃に双葉病院で亡くなった1人も合わせ、双葉病院関係だけで実に44人もが犠牲となった。
 6月には相馬市で酪農を営む50代の男性が堆肥(たいひ)舎の壁に「原発さえなければ」と書き置き、自ら命を絶った。男性は放射能汚染により3月に原乳の出荷制限を受けて搾乳した分を廃棄し、その後、牛を手放さざるを得なかったという。この他にも、原発事故が原因で命を失った人は増え続け、復興庁の発表だけで2313人(昨年9月30日現在)にも上る。

みんなウソだと分かった

 福島第一原発事故で日本の社会と歴史は一変した。政府と電力会社が盛んに宣伝していた「原発は安全」がウソだったと分かった。「政府は国民を守るもの」というそれまでの常識も、身をもって「違う」と実感した。かつて「デモは過激な人がやるもの」と思っていたのが、誰でも国会前や首相官邸前に押しかけ抗議の声を上げ、デモをしていいんだとなった。われわれ労働者民衆が生きるために声を上げるのは当然のこととなった。それは、今日のコロナ下での労働者民衆のストライキや行動の先駆けとなるものだった。
 今も福島原発事故は全く終わっていない。それどころか、10年を経て放射能汚染の厳しい現状が明らかになっている。
 とくに健康被害の問題は深刻さを増している。がんなどの病気の発症や亡くなる人の増加が報告されているのが現実だ。福島県の県民健康調査検討委員会の1月15日の発表では、小児甲状腺がん患者が「疑い」の人も含めて252人(うち手術の結果「良性」と判明が1人)にもなった。この他に「経過観察」とされた4千人はその後「がん疑い」となっても集計されず、発表以外にも多数の患者が隠されている可能性が高いのだ。
 また被曝から身を守るために今も避難生活を続けている人が復興庁の発表だけで昨年7月9日現在3万7261人にもなる。実際はこれを上回ることは確かだ。健康被害がこれからさらに増える可能性も高い。にもかかわらず、菅政権は福島原発事故を「終わったこと」にしようとたくらんでいる。絶対に許せない。
 3月11日、実行委員会の呼びかけに応えて3・11反原発福島行動21(郡山総合体育館、午後1時開会)に集まり、怒りの声をとどろかそう。

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大惨事必至の原発
 2011年3月11日、福島第一原子力発電所では1〜6号機の原子炉のうち1〜3号機が稼働中だった(4〜6号機は定期検査のため停止)。この福島第一原発がなぜ爆発し、核の大惨事となったのか。
 それは「核反応」によって巨大なエネルギーを引き出すという、原子力発電が持つ本質的破滅性が招いたものだ。
 原発の原理は、原子炉内でウランなどの核燃料を核分裂させ、それに伴って生まれる高熱を使って水を蒸気に変え、その蒸気でタービンを回して電気を生み出すというものだ。熱で蒸気を発生させるという点は、ヤカンで水を沸騰させるのと同じ原理だ。コンロの火を止めればお湯は次第に冷えていく。
 しかし、原子炉の場合は決定的に違う。原子炉を停止させても、核燃料は熱(崩壊熱)を発し続け、放っておけば数千度に達する。鋼鉄製の原子炉も溶け、損壊する。しかもそこから大量の放射性物質が放出される。

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