7・4国鉄全国集会へ 三十数年の闘いが改憲阻む 今こそ1047名解雇撤回を

週刊『前進』04頁(3197号02面01)(2021/06/07)


7・4国鉄全国集会へ
 三十数年の闘いが改憲阻む
 今こそ1047名解雇撤回を

(写真 1985年11月28日、国鉄分割・民営化に反対して動労千葉が第1波ストライキを決行した【津田沼運転区】)

 国鉄闘争全国運動は7月4日、国鉄闘争勝利に向けた全国集会を開く。前日の討論集会を含め、その課題は労働運動の階級的再生を切り開くことにある。新自由主義は雇用と賃金、労働条件だけでなく人間が生存できる条件を破壊した。日本で新自由主義攻撃の出発点になったのが国鉄分割・民営化だ。これと三十数年対決してきた1047名解雇撤回闘争は、労働運動復権の鍵をなす闘いだ。

国家が強行した労組破壊

 国鉄は1987年4月に分割・民営化されてJRになったが、そこに向けての攻撃は81年3月、第二次臨時行政調査会が設置された時から始まった。第二臨調が目指したのは、「行政改革」の名で戦後的な統治形態を転換し、「戦争のできる国」にするための国家改造だった。
 82年2月、行政管理庁長官だった中曽根康弘は「行政改革で大掃除をして、お座敷をきれいにして、立派な憲法を安置する」と言った。国鉄分割・民営化は行政改革の第一の柱とされ、その究極の目的は改憲だった。これは労働組合をつぶさなければ貫徹できない。
 だから、82年11月に首相になった中曽根は、当時、最強と言われた国鉄労働運動を解体するために全力を挙げた。労働組合破壊が国家の第一級の課題とされたことから、国鉄分割・民営化は「国家的不当労働行為」と言われている。
 誰がどう見てもJRは国鉄を受け継ぐ存在だ。しかし、「国鉄とJRは別法人」という虚構がしつらえられた。「新会社のJRが新たに職員を採用する」という形で、労働者を選別し、闘う労働組合の組合員を排除することがその目的だった。本来は違法行為の偽装倒産が、国家の手で白昼公然と行われた。
 80年代初頭、国鉄労働者は40万人以上いた。JR発足時の労働者数は各社合計で約20万人。2人に1人が職場を追われた。これは戦後最大の首切り攻撃でもあった。労働者にとって解雇は現実の脅威だった。それを突きつけての労組破壊は、激烈をきわめた。
 国鉄分割・民営化に反対した国労などの組合員に、管理職はしつこく組合脱退を迫った。業務開始前の点呼で、管理職は労働者を意図的に呼び捨てにした。「気を付け」「休め」という号令の下、軍隊式動作を強いられた職場もあった。
 労働者が勝ち取っていた権利は「闇手当」などと呼ばれ、不正なものであるかのように扱われた。権利の根拠となっていた労使協定は次々に破棄された。
 国労などの組合員は本来の仕事を外され、「人材活用センター」に送られて、嫌がらせだけを目的とした無意味な作業を強いられた。当時は、「人材活用センター」に収容された者は確実に解雇されると認識されていた。
 攻撃は職場の中だけにとどまらなかった。マスコミは連日、「国鉄赤字は国鉄労働者が怠けているせいだ」という事実無根のキャンペーンを垂れ流した。社会はこうしたデマに染められ、国鉄労働者の子どもは学校でもいじめにあった。国鉄労働者は家族ごと地域からつまはじきにされた。
 この重圧がのしかかる中で、200人以上の国鉄労働者が自ら命を絶った。
 今、多くの職場でパワハラがはびこり、労働者は人間として扱われず、心身をすり減らされ使い捨てにされている。そこで起きていることのほぼすべてが、分割・民営化の過程で国鉄労働者に襲い掛かった。

ストで反撃した動労千葉

 分割・民営化を前に、最大労組だった国労からは毎月1万人の組合員が脱退した。だが、国労本部は闘う方針を出さなかった。現場の組合員には激しい怒りがあった。本部が決断すれば組合員は決死の闘いに立ったはずだ。しかし国労本部は「闘えばつぶされる」と考えた。それはかえって敵をつけ上がらせ、さらに激しい攻撃を引き出すことにしかならなかった。
 一方、後にJR総連となる動労本部や鉄道労組の幹部は、分割・民営化を率先推進することで生き残りを図った。彼らは国鉄当局を上回る凶暴さと陰湿さで、国労などへの切り崩しを展開した。あからさまな暴力行使を含むその行動は、国鉄当局や国家権力によって容認された。労組幹部が先頭に立って労働者に襲い掛かることによって、職場はまさに暗黒と化した。
 この状況に対し、唯一ストライキで立ち向かったのが動労千葉だった。国鉄は公共事業体で、国鉄労働者は公務員に準じて扱われ、ストライキは違法とされていた。第一級の国策の国鉄分割・民営化に反対してストライキに立てば、国鉄当局がきわめて重い報復処分を加えてくることは明白だった。だが、ここで反撃しなければ、団結はバラバラに解体されかねない。動労千葉執行部は、退路を断って85年11月と86年2月の2波のストライキを決断した。組合員も解雇を覚悟し人生をかけて決起した。
 貫徹されたストライキは、職場と社会を覆っていた暗雲を切り裂いた。労働者は分割・民営化反対の声を上げることができるようになった。世論も、ローカル線廃止などで公共交通を破壊する分割・民営化への批判に傾いていった。

「労組なき社会」許さない

 このストライキで動労千葉は28人が解雇された。解雇に至らず停職処分を受けた12人も、処分歴を口実にJR不採用とされた。当時1100人ほどの組合員数だった動労千葉が、40人の被解雇者を抱えて闘うことは容易ではなかった。だがそれは、労働者が階級性を維持するために避けて通れない道だった。
 以来三十数年、国鉄分割・民営化で不当に解雇された労働者は、不屈の執念で解雇撤回闘争を貫いてきた。これが国鉄分割・民営化に際して中曽根がもくろんだ改憲を阻み続けた。
 JR職場で始まった「労組なき社会」づくりの策動は、この関係を権力・資本の側から覆し、資本の専制と「戦争のできる国」を確立するための攻撃だ。国鉄―JRでの攻防が再び焦点に押し上げられた。この攻撃を粉砕すれば、企業や産業を超えて労働運動は必ず階級的によみがえる。7月国鉄集会は、その道をこじ開けるための闘いだ。
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